(14)王室の公邸
「退部します。もう剣道なんかしません」
大会が終わり、より重くなった道具を背負いながら学生寮に戻ったナナモはそう小岩に宣言していた。
「まだ、始めたばかりなんだから、でも、そんなに腹が立っているなら却って頑張れば強くなるよ」
小岩はナナモの訴えを負け惜しみと好意的に受け取ってくれたのか、全く意に返すことなく、「ナナモ君、退部するっていうことはどういうことかわかっているよね」と、捨て台詞のように言い放つと、僕は残りの夏休みを実家で過ごすからと、そそくさと帰省してしまった。
ナナモは、剣道部だけが武道ではないんだと、ブツブツと独り言が止まらなかったが、しばらくすると熱も冷めて来る。すると退部のことなど忘れて、大会が終わり新学期が始まるまでの期間を夏休暇としてきちんと取る大学の部活動ってあるのかなあ、それに剣道を辞めて他の武道を始めても同じようにうまくいかなくなるかもしれないし、でもきっとナナモは絶対に辞めないと、寮の規則を逆手にとった小岩が今頃薄笑いをうかべていると、次々と責任転換するような考えが芽生えて、ナナモはひねくれた自分が嫌いになりつつあった。
「しょうがないやん。相手が強すぎたんやから。あいつ優勝しよったからなあ」
タカヤマは慰みの言葉を掛けてくれたが、それでも試合が終わってからタカヤマが半笑いで話してくれた事実を思い出すたびに歯ぎしりが止まらなかった。
ナナモはあの時今度こそと気合を入れ、茹で上がったばかりのタコのように顔を真っ赤にしながら、相変わらず物静かで無気力そうに中段で構える相手と対峙していた。それでも先ほどの技の速さにまるで金縛りにあったように身体がまったく動かない。その上、ナナモは掛け声だけでもと無理してでも声帯から息を吐きだそうとしたが、どこかに絡まったのか、一オクターブ挙げた声量なのに途切れ途切れになる。
二人はまるで絵画教室のモデルのように全く動かなかった。このまま、両者が動かなければ自然と相手が勝ってしまう。もしかしたら相手は余計な体力を使いたくないからこのままで良いと思っているのかもしれない。ナナモがそう思った刹那、ナナモは高らかに大きく竹刀を振り上げ、相手の額を打ち割ろうとするくらいの渾身の力を込めて竹刀を振り下ろしたはずだったのに、それから意識が飛んでいた。
相手はがら空きの胴を素早く振りぬくことをせずに、軽く胴に竹刀を当ててナナモの突進をいなそうとしただけだったのに、あたりどころか悪かったのか思ったよりナナモが素早く動いたためだったのかわからなかったが、自分の勢いの反動で後方に倒れて意識を失ったらしい。後頭部だったことと、会場の熱気と緊張のためであったのだが、体温と脈拍の上昇が尋常ではなかったので、救急車で病院へ運ばれたらしい。
だったら僕は…。ナナモは何度も記憶に残っていない事実を反芻して、自らに腹を立てていた。
「身体大丈夫か?」と、ナナモがすっかり元気になっているのを知っているのに、寮を訪れてくれたタカヤマの目的は、大会後の自分の試合に満足できなくてしばらくひとりで練習していたが、誰かに練習台になってもらいというお願いだった。
「僕は金輪際剣道はしないから」
タカヤマがナナモが目覚めるまで付き添ってくれていたのを忘れて、ナナモはいつもより早口でいつもより大声で言い放った。
「そうかりかりせんと」
イライラするなという意味らしいがタカヤマにそう言われると余計に腹が立つ。だから、ナナモは「相手に全く打ち込めなくて負けたなんてあり得ないだろう」というと、「真空剣かもしれなんなあ」と、茶化してきたので、思わず拳を振り上げそうな形相になっていたのか、「冗談やんか」と、珍しく即答したのでナナモはきっと素早くかわされていただろうが、殴らなくて済んだ。
「二本目は自滅だったし。その上後ろ向きに倒れて意識を失ったなんて」
「格好悪いって思ったんや」
タカヤマが冷静に言った。それに今度は茶化すような言い方ではなかった。
ナナモは実際そう思っていた。だからこれまで情けなくて、その事実から逃れたくてあがいていたのだ。
そんなナナモの心情を周りは全てわかっている。だから、ナナモが叫ぼうが喚こうが誰もが聞き流そうとしていたのだ。ナナモ以外皆大人だった。そのことで子供のナナモは余計に腹を立てていた。
「勝ち負けは大事やけど、どう戦うかが武道には大切やからな」
タカヤマの言葉に一瞬心が和んだが、「でも格好悪いとおもったんわそれだけやないやろ」と、言われてナナナモはどぎまぎした。すると図星だったんやと、タカヤマは先ほどまでの柔和な表情を一変させて、ナナモはモテモテやからなあと、これは冗談ではないぞと語気を強めて言った。
ナナモはあたふたしたのか、思わず、あっ、忘れていた。僕、ロンドンに戻るんだと、言ってしまっていた。
「ロンドン?ホンマか?金ないって言ってなかったか?見栄はらんでもええんやで。もう、練習に付き合えって言わへんから、大阪に遊びに来えへんか」
「もう関西にはい・か・へ・ん・わ」
きっとタカヤマからしたら、おかしなイントネーションでナナモは関西訛りで返事をしたのだろうが、タカヤマはしょうがないなあというあきれ顔でそれ以上ナナモを誘ってこなかった。
もはや子供ではない。タカヤマは中学生ではないナナモに無関心ということではないが、一度距離を置いた方がいいと考えたのかもしれない。
夏休みに寮に籠って勉強すると言っていた志村さんも、寮母さんがお盆休みを一週間取るというので帰省してしまった。
寮母さんが居ない寮って存在するのだろうか、火事になったらどうするんだろうと一人だけ寮に残っていたナナモは心配だったが、大学から事務の職員が見回りに来るからと言われ、もしかしたらあの田中という事務員ではないかと期待したが、ナナモが今まで会ったことはない年上の立派な大人の女性だった。
ナナモは寮にいる間は決まって六時前に起きて神棚に参拝していたし、ウロウロと大学に行ったり、図書館に行ったりしていたが、次第に剣道大会の記憶が薄れていくと、もうひとつの授業のことが気になり始めていた。それに今なら十分時間もある。課外学習でも行けそうな体力もある。その上、ロンドンの夏とは言わないが、重たい雨雲に遮られることなく、昼間は青空を綿菓子のようにフワフワとしている雲が一段押し上げているし、夕立ちが止むときれいな輪郭を持った月が夜空をストリートランプのように照らしていた。
ナナモはタカヤマや小岩に悪態をつきながらも、大会から寮に戻った最初の月夜にこっそり出かけると神木のタブレットを拡げアプリを作動させて苺院に向かっていた。実はナナモは病室で意識を失っていた同時刻に異世界にいたという記憶が少しずつ蘇ってきていたのだ。だからその真相ともし事実ならあれはどういうことを意味していたのかカタリベに尋ねたくて苺院に向かったのに、いつも開け放たれていた門は閉められ、夏期休暇中の張り紙が貼られていた。
大学と同じで夏休みがあるの?それもリモートなのにと、ナナモは納得できなかったが、一方通行の授業だし、カタリベは、夏は他に行くべきところがあって忙しいのではないかと淡い記憶と相まって、仕方がないなと、あきらめるしかなかった。
それでも、苺院に背を向けて帰ろうとした一瞬、なにかあれば神社の中に入ってきなさいとカタリベが言っていたことを思い出して踵を返しそうになったが、苺院を通り過ぎ、武具屋を通り過ぎないと神社にはたどり着けないことを思い直して、すっかりシャットダウンして作動しない神木のタブレットをナナモは恨めしく見つめるだけだった。
ナナモはとぼとぼと灯りが消えた真黒な寮に戻ると、もはや煌煌と寮中の灯りを付け回ることなく自室に戻った。
机の前で椅子に座り後ろ手で伸びをしながら、僕も帰ろうかな、でも、マギーは東京に居ないし、カリンのもしもの話しが本当ならマギーは京都にいる。でも、マギーとカリンのいる京都には今は絶対行きたくない。ナナモはなかなか戻せない後ろ手にため息が加わっていた。
イチロウは夏休みに何をしているんだろうと、やっと、後ろ手を放し、パソコンを起動させた時に、ナナモの思いが通じたのかイチロウからリモートの申し込みがあった。
「いま、イチロウと話したいと思っていたところなんだ」
ナナモの声は上ずっていた。
「もしかして剣道大会で優勝したのかい?」
せっかく高揚した気分だったが一気になぎ倒された。それでも、イチロウの一言に腹立たしさや意気消沈する気持ちは湧かなかった。それどころかイチロウに事の顛末を詳しく話していた。
「だから、どこにも行かないで学生寮に籠っているのかい?」
ナナモはああとは言わなかったが、苺院が夏期休暇中なので、いや、異世界でも授業を受けている所なんだとはもちろん言えなかったので、つまらないことでお茶を濁した後、イチロウの紹介してくれたバイトのおかげで遠征費はなんとかなったよと、お礼を言った。イチロウはそうかいと、あまり嬉しそうではなかったので、何かあったのかいと尋ねると、実は…、とイチロウが話し始めた。
「ロンドン?」
イチロウはナナモが電子工学部に通っていた時に電子工学基礎理論を受け持っていた講師が教授として栄転した大学の学生になっていて、その教授のお伴でロンドンに行くことになったらしい。
「すごいじゃないか?」
「でも、俺は英語が話せないし」
イチロウは弱気にそう言った。ナナモはコンタクト式異次元アバター型のVRをナナモに提供した男だ。語学変換器など簡単に作っているのだろうとイチロウらしくないなと思って尋ねた。
「一応、開発中の翻訳機を持っていく予定なんだけど、まだまだ遅いから」
イチロウはやけに弱気だった。
「もしかして…」
「そう、ナナモが傍に居てくれると助かるんだけど」
どうやらナナモに通訳として付き添ってほしいと考えている様だ。
「あの、誰だっけ、先生…」
ナナモは名前が思い出せないが、ワイシャツをいつもまくりあげて、意味不明な記号を黒板一杯に書き連ねている印象だけが鮮明だった。イチロウがすかさず教授の名前を言ってくれたが、どうしてもワイシャツ先生としか覚えられない。
「ワイシャ…、いや、教授は英語が話せるんだろう」
「ああ、多分。でも、さすがにナナモほど流暢ではないよ」
イチロウはさらりと言った。
「でも、僕は電子工学についてはからっきしダメだって知っているだろう。だから専門用語を話されてもわからないから」
少しくらいと、イチロウが言いかけたが、ナナモは、全く覚えていないんだ、と遮った。
「イチロウはあれだけ授業を受けていたし、ノートも取っていたんだからと思っているだろうけど、僕にとってはどうやら嫌な記憶だったらしい。イチロウに言うのは悪いんだけど。だから僕は試験でいつも白紙だったし、医学部を再受験したんだから」
ナナモはそう言いながらもいじめられていた記憶は残っていることが不思議だった。ただ、いじめはナナモにとって命にかかわることだったが、電子工学は全くかかわらなかった。
「わかったよ。俺も教授の付き添いだし、べったりということでもないから。
それに、俺は教授とは目指すところが違うんだ」
「違う?でも、イチロウは教授が居るから今の大学に進学したんだろう」
「ああ、そうだよ。でも、教授が、俺に言ったんだ。盗むのはいっこうにかまわないけど、真似して満足するな。そんな時間があるんだったら、私がやっていないことを考えろって」
イチロウの声は弾んでいた。
「イチロウの目指すところはロンドンにあるのかい?」
ナナモは尋ねた。
「さあ、わからないよ。ただ、俺は日本以外しか知らないからいい機会だと思っているんだ。それに、ナナモと一緒なら何かいいアイデアが浮かびそうだから」
「ユーストン駅の事とか…」
ナナモは言いかけてしまったと思った。しかし、ヒューストン?アメリカじゃないぜと、発音の違い以上の違和感でイチロウはやはり以前ナナモがイチロウに話したことを忘れていた。
「それでいつから行くんだい?もしかして九月だって言うんじゃないよね。医学部の夏休みは信じられないほど短いんだ」
夏休みの半分は部活動と大会への遠征に費やされたので、ナナモはロンドンへ行くのは無理かもしれないと思っていた。
「ああ、わかっている。でも八月の最終週なんだよ。だったら、ナナモ大丈夫だよね」
イチロウは自信たっぷりだった。
「ひよっとしてリサーチ済みなのかい?」
「航空券のチケットは俺が何とかするから。それにナナモはホテル代は要らないだろう」
イチロウはナナモの問いに答えなかった。やはりイチロウは侮れないなと思いながらも相変わらずのイチロウにほっとした。
「ナナモも医学部に入ったんだ。晴れてロンドンの友達に会えるんだぜ」
イチロウはまるでガッツポーズをするような笑顔を見せながら言った。しかし、ナナモは同じような笑顔を作れなかった。何故なら確かにルーシーは未だに友達のままだったからだ。
「やけに浮かない顔だな」
イチロウは相変わらず敏感だ。ナナモはルーシーの事をイチロウに話そうかなと思ったが、いつも話せないでいる。いや、何を話してよいか分からないのかもしれない。
ナナモはルーシーと医学部に入学してからまだ連絡し合っていなかった。それはルーシーから連絡がなかったからだ。ルーシーはオックスフォードへの転学を考えていたが、うまくいかなかったのかもしれないと思うと、友達なんだから純粋にと何度も思ったが、ルーシーの恋の行方も気になって、余計、簡単にクリックが出来なかった。ナナモは自分が本当にちっぽけな人間だと思うし、あれほど鼓舞されたはずなのに、結局ロンドンから日本に戻ると何も変わっていないんだと、自分が情けなかった。
もしかしてイチロウはそんなナナモに機会を与えてくれようとしているのかもしれない。いや、そうに違いないと、ナナモは信じたかった。
「いや、御婆さんにどう言おうかなあって」
またかと、イチロウのため息が顔中から漏れている。それでもナナモの思いを尊重しないわけではない。だから、無理強いじゃないからとイチロウは言ったが、ナナモはイチロウの顔を見て、もう、航空券をここに郵送したんだろうと、表情を和らげた。
するとつい先ほどまで伏せ気味だった顔を持ち上げたイチロウの瞳はキラリとまるで音がするように輝いた。
イチロウからきっと明日届くであろう航空券を手にする前に、ナナモはマギーに連絡しようとスマホを鳴らした。夜なら電話に出やすいのではないかと思ったが、相変わらず出てはくれなかった。急に孫から着信があれば気になってもおかしくないのに、やはりこの部屋にもナナモを監視しているモニターが付けられているのではないかとナナモは久しぶりにきょろきょろと座っている椅子を何度か回転させた。やはりあるわけないかと、ナナモは頷きながらも、反対に神出鬼没なマギーのことが心配になった。マギーも若くはない。もしかしたら、ナナモの学費を稼ぐために無理をしているんじゃないかと、返事がないマギーのことが却って気になって仕方がなかった。だから、直接話すことはあきらめてロンドンに行くともちろんイチロウのことを含めてメールした。すると、今度はすぐに返信があった。でも言葉ではない。神社の写真だけが送られてくる。もしかしたらマギーが今居る京都の由緒ある神社なのかもしれない。でも本当にマギーが自ら送信してくれたのだろうか?ナナモはしばらくその神社を眺めていたが、ロンドンに居てもこの神社に向かって参拝するんだよと、マギーのいつものような威勢の良い声が聞こえてきて、先ほどまでの憂いは何時しか消えてしまっていた。
ナナモはほっと一息つくように椅子にもたれかかったが、急に立ち上がると部屋を飛び出し、寮の外へ出た。なぜならロンドンに行くとカタリベに伝えたかったからだ。苺院は夏期休暇中だし、どうしよう、でも、術がない。ナナモの思いは自然と顔を上に向けさせる。しかし、厚い雲が遮っているのか、どれだけ探しても月の欠片すら見えなかった。
ナナモは仕方なく部屋に戻った。そして、ロンドンに神木のタブレットを持って行こうと、白い布で覆われたまま、リュックの中に優しく押し入れた。
ナナモが出発しようとしていた前日に来週から大学の授業が始まることもあって、志村さんが戻って来た。不思議なことにナナモ一人の時は夏休みを取っていた寮母であるヌノさんも戻って来た。ヌノさんは、きっと夏休み明けに発表される追試験の準備があることを知っているから皆が寮に戻って来ることを知っているのかもしれない。だから、ナナモがこれから帰省すると言うと、志村さんと一緒に大丈夫かと心配顔だった。
ヌノさんはリュックだけの軽装に本当に一週間も帰省するのと、訝し気だったが、もしロンドンに行くと言えばもっと驚いただろう。当然、ナナモは東京に戻ると言ったが、叔父叔母の所にはナナモの服などがまだ置かれている。それに今回は受験参考書等も要らない。だから京都遠征の時より数段身支度は簡単だった。
イチロウの送ってくれた航空券は杵築と東京、東京とロンドンといういつものように最短のルートのものだったが、折角東京に久しぶりに戻れたというのに、羽田空港から待ち時間を使って、空港外を散策するという時間を与えてはくれなかった。
ナナモはロンドンでイチロウと落ち合うことになっていた。だから飛行機は一人だ。これまで何度か一人で飛行機に乗っていたが、今回ほど気の抜けたフライトはなかった。それでも飛行機が苦手なナナモは昼寝など出来なかっだ。だから余計に退屈だったし、ロンドンまでこれほど時間がかかると初めて思い知らされた。
叔父と叔母には航空券を確かめたあとにナナモは連絡した。医学部に無事合格したこともあって叔父はしばらくは会えないと思っていたのか明らかに興奮していたが、心配性な叔母はまた別な悩み事が出来たのではないかと、声のトーンは低めだった。ナナモは二人に今回の目的をきちんと話し、イチロウを家に招いてもいいかいって尋ねると、折角だからローストビーフが良いわねと、もはや口笛が聞こえてきそうなほどの機嫌で、叔母は先ほどとは違ってはしゃぎ声に変わっていた。
ナナモは大きく背伸びをしてからヒース―ローを後にして、叔父夫婦の家に着いた。
「ただいま」と、日本語で言うと、出迎えも待たずにナナモは中へと入って行った。
玄関周囲に花が植えられ、皆が集まるリビングはカーテンの色や壁紙が少し華やかになっていた。叔父叔母はわびさびを好んでいるのかと思うほどモノトーン派だったが、それはナナモの教育のためだったかもしれない。何故ならナナモが見た事もないアンテイークなイギリス家具が、出しゃばらない程度に同居し始めていたからだ。それでもナナモはその変化が寂しくなかった。むしろ、心が和んだ。二人はいつも前を向いている。その事が嬉しかったからだ。そして何より二人はこれからもロンドンで生活していくのだという覚悟が見えて頼もしかった。
ナナモは叔母から涙目で迎えられた後、自分の部屋に行った。ロンドンを去ってから二年以上が経つ。しかし、昨年も思ったことなのだが、部屋はきれいに掃除されていて、サマーアイズに通っていた時と全く変わっていなかった。
「あれ」
ナナモが急に大きな声を出したのでびっくりしたのか、叔母が部屋に入って来た。
「折り畳みベッドを借りてきたのよ。狭いけどいいでしょう。当然ジェームズが使うのですよ」
「あ、はい」
そうだ、僕はロンドンではナナモではなくジェームズなんだと、その響きがとても暖かくて仕方がなかった。
「ねえ、ルーシーは元気?」
ジェームズは叔父が帰ってくる前に台所でせわしなく働いている叔母に思い切って尋ねてみた。
「あら、連絡してないの」
「ああ」
ジェームズは昨年オックスフォードで会った時にルーシーから聞いた転校希望の話を、もちろん、ルーシーのプライベートのことは省いて話した。
「だから、なんとなく」
「そうなの。でも私にも相談があったのよ」
相談?もしかしてルーシーは恋人の事を叔母に話したのだろうか?
「おかあさんの事よ」
ジェームズはほっとした。そして、ルーシーのお母さんは元気なんだろうと、確かめるように尋ねた。
「そうよ。でもね」
でも?やはり恋人か?
「でもね、ロンドンの大学でも日本については学べるし、ロンドンの大学じゃないと学べないこともあるのよと、別に反対するつもりじゃなかったんだけど、そう言ったのよ」
「ミチおばさんが?」
ナナモはどうして余計なことをしたんだと言いたかったがぐっと言葉を飲み込んだ。
「それじゃあ、ルーシーはオックスフォードへの編入試験を受けなかったのかい?」
「そんなことはないわ。でも、なんか浮かない顔をしていたの。だから、自信がないのかなって思ったから、私が出来るお手伝いはするからって言ってあげたの。ジェームズが医学部を目指しているってルーシーには言わなかったけど、なんかジェームズを後押ししてるような気分になったから。何か私も楽しくなって。でもそれも最初のうちだけよ。楽しみよりもきちんと教えてあげなきゃならないって思い直して。だから私も久しぶりに必死だったのよ」
「じゃあ、ルーシーはオックスフォードへ行けたんだ」
「それがね、受けなかったの。私がロンドンの大学でしか出来ないことがあるって言ったでしょう。ルーシーもそう思ったみたい。だから、その事が落ち着いてから、もう一度オックスフォードへチャレンジするって」
「だったら、ルーシーはロンドンに今居るの」
「そうよ。ジェームズが帰って来るって言ったら喜んでいたけど。ジェームズも久しぶりにルーシーに会えるのだから嬉しいでしょう」
ああ、と、ジェームズは叔母に悟られないように出来るだけの作り笑顔で頷いた。
ルーシーはやはり恋人と別れていないんだ。ジェームズはそう確信した。だからか、その夜に叔父が帰ってきて、三人で色々な話しをして、叔母の手の込んだ料理を食べて、もう大人なんだからとワインを飲んでも、楽しかったし、おいしかったし、程よく酔っぱらってはいたが、心の底で喜べないもう一人の自分が耳もとでつぶやいてくるようで、その度に一瞬時が止まったかのように憂鬱になった。
よほどうれしかったのか特に叔父は医学部に入学したジェームズと夜通し話していたいようだったが、一睡もしていないフライトと時差でジェームズの瞳は自然に閉じていく。このまま意識がなくなれば明日生まれかわれる。ジェームズは叔父の肩に身体をゆだねながら自室に連れられベッドに横たわると、そんな妄想が憂鬱を跳ね飛ばしてくれることを願いながら、僕は日本ではナナモだ。でも、ジェームズでもある。そしてそのジェームズをいつも励ましてくれていたのはルーシーだ。だったらルーシーと会わなければならない。
ジェームズの憂いをやっとはっきりとした言葉にすることが出来たと思った途端ジェームズはあの時と同じように深い深い眠りの園へと旅立っていた。
ジェームズの目覚めは、あまり心地よいものではなかった。しかし、あまりにも疲れていて昼過ぎまで起きなかったから身体の節々が痛くなったからではない。日本からロンドンに来て再び目覚めたジェームズは、記憶をなくしてはいなかった。だから、目覚めてすぐにルーシーの事を考えてしまったのだ。
優しさからなのだろう。折り畳みベッドではなく使い慣れたジェームズのベッドに叔母は寝かしてくれていた。その日常性が却ってロンドでの生活を思い出させる。
ルーシーに普段着で会えるだろうか?ジェームズはなかなかベッドから出てこられなかった。それでもロンドンに来たのだという感覚は魅力いっぱいだ。ジェームズは何時しか澄んだ軽い陽気に手を差し伸べられたかのようにベッドからすり抜けていた。
叔父と叔母は仕事で出かけていた。昨日の高揚感が持続していたらいいのに、却って疲れが倍増して、今頃生あくびを繰り返していないかと思うと少しにやけたが、トイレで用を足してからリビングに行くと、テーブルの上にメモが置かれてあって、そのメモにはイチロウの事も含め色々質問が一杯書かれてあった。そればかりか、ジェームズがロンドンで快適に過ごせるようなアイテムも揃えられていたので、ナナモは寝過ごしてしまった自分を責めながらも、叔父も叔母もイギリスで生活しているきちんとした社会人なんだと、改めて二人を尊敬した。
しかし、そう思ったのは束の間のことで、ジェームズはまだぼんやりしていた。だから頭に充電する代わりに、お湯を沸かし、ティーパックの紅茶を飲み、ビスケットをかじった。
「あっ」
ジェームズは急に大声を上げた。ビスケットの粘りが久しぶりだったので、喉にひっかかったわけではない。誰も居なかったから良かったが、誰も居ないから余計に怪しまれはしないかと、慌てて口に手をやりながら、ジェームズはスマホを探した。
マギーとの約束。ジェームズは遅い昼食を素早く終わらせると、歯を磨き、シャワーを浴び、時計を巻き戻すような気持で、スマホに映る神社に二礼二拍して参拝した。
まだまだ気のゆるみがある。それでも、思い出して良かったと、やはり自分はジェームズだけでもナナモだけでもなく、ジェームズ・ナナモであるということを肝に銘じなければならないと、スマホの画面が消えるまで、じっと見つめていた。
気合を入れ直したジェームズはルーシーに連絡しようと、スマホを再び起動させた。
「もしもし」
ジェームズが通知音を聞きながら、昼間だし、ルーシーは勉強や母親の手伝いで今忙しいのかもしれないし、ひよっとしたら彼と…と、その事は打ち消しながら、なかなか出ないルーシーの事を色々考えていた。
でも、僕はちゃんと電話をしたのだからと、きっとそれほどの時間は経っていないはずなのにもうお腹いっぱいになって電話を切ろうとした。
「ジェームズ?いつ帰って来たの」
ルーシーだ。その声を聞いただけで姿かたちや今までの二人の記憶が全て走馬灯のように蘇ってくる。
「昨日だよ。でも、疲れちゃって今まで寝ていたんだ」
ジェームズは以前よりも緊張しているのか声が震えている。だからその事を悟られないように言い訳した。でも、ルーシーには感づかれている。きっとジェームズらしいわと、クスッとするだろうが、決して口にはしない。
「一年ぶりかしら」
ジェームズの気持ちはつい数時間ほどしか経っていない。
「そうだね。オックスフォード以来だね」
あの時、ジェームズはジェットコースターの頂上から急降下したのだ。だから、あまり思い出したくはない。だから、素早く言葉を継いだ。
「電話に出られたんだから、今、時間あるんだろう。どこかで会わないかい」
ジェームズはやっと冷静さを取り戻せたのか、思い切って誘ってみた。
「ごめんなさい。今、オックスフォードなの」
「えっ、でも、叔母さんが…」
「そう、オックスフォードへの転校試験は受けなかったの。でもね、今年もサマーレクチャーがあるから、参加しているの。ミチおばさんには話したはずだけど」
ジェームズは聞いていないように思うのだが、昨夜の記憶があまりない。
「また、去年と同じようにオックスフォードで会おうなんて言わないよね」
ルーシーはジェームの問いかけに一瞬の間を置いた。だから、ジェームズは慌てて、イチロウという友人とロンドンで会うことになっていて、彼を案内しないと行けなんだと、言った。
「イチロウ?」
ジェームズはイチロウという人物について出会いから順を追って説明し、コンピューターオタクで仮想現実を作っていて、ロンドンに来たのもそのためだと付け加えた。ルーシーはジェームズの長話しをうんうんと合図を打ちながら黙って聞いてくれた。
「ジェームズは楽しそうね」
話しが一段落ついた時にルーシーはつぶやくように言った。
「ああ、でもね、僕は一度、彼のVRの実験台にされたよ。スパイ映画のような設定だったから、解放されるまでハラハラドキドキだったけど、彼のVRの世界は本当に現実だと思えるくらいよく作られていて、もし、ラブロマンスのようだったら、いつまでも快適な時間を過ごせただろうから、その世界にずっと居てもいいかなと思ったかもしれないな」
ジェームズはそのラブロマンスの主人公は僕と君だよと、言いたかったが、「浦島太郎の世界ね」と、ジェームズの夢物語を打ち砕きたかったのかジェームズが大切にしている玉手箱をルーシーは気にせず開けていた。
「ところで、ジェームズは医学部に合格したんだってね。良かったわね」
ルーシーはジェームズのイチロウ噺を聞いていたのかわからないが、突然言った。
「ありがとう」
ジェームズはルーシーも一緒にと思っていたので、心から喜べないトーンで答えた。でも、杵築については色々な日本の逸話がある。だから、ルーシーをまた奮起させるつもりで杵築に伝わる古代日本の源流について少し話した。もし、興味を持ってくれたら遊びに来てくれるかもしれない。東京からバスでというわけにはいかないが、ロンドンとオックスフォード間のように飛行機なら二時間もかからない。
「こんなに長く話していいの」
医学部に合格したジェームズは昨年とは異なり気分的にずいぶん楽になっていたのかもしれない。
「うん、大丈夫、今日は講義を受けないの。それにここは大学じゃあないのよ」
「大学じゃない?」
「実は今バイブリ―に居るの」
バイブリ―は石造りの住宅が並ぶイギリスで一番美しい村と言われていて、嘗てこの村に日本の皇族が宿泊されたことがある。車が必要だがオックスフォードからそう遠くない。
ジェームズは直感で恋人と会うんだと思った。だったら、僕はなんて間抜けだったんだ。医学部に合格しばかりだと言うのに何か偉くなったような浮かれた気分になって、今まで見上げていたのに、見下ろすようにべらべらと話し続けていた。
でもだったらウキウキしていてジェームズの長話を途中で切り上げようとするはずだ。もしかしたら、ルーシーは又何かで悩んでいるのかもしれない。しかし、ジェームズは、ルーシーが空けた玉手箱を覗きこむ勇気がなかった。それどころか、恋人と会うんだね。ごめんね、邪魔をして、お幸せにと、言うべきなのに、「ねえ、ルーシー、サッカースタジアムってそこにある?」と頓珍漢な質問をなぜかしていた。
次の日、ジェームズは、ラッシュ時を少し過ぎたユーストン駅の出発ロビーでイチロウを待っていた。
ここはジェームズがアヤベと始めて会った場所だ。そしてそのことがジェームズ・ナナモの運命を定めた。そう思うと、相変わらず見上げなければならない行き先と出発時刻と発車ホームを知らせる電光掲示版の黄色の輝きは余計意味深な色のように思えて仕方なかった。
突然、ジェームズは後ろから肩を叩かれた。もしかしてアヤベと、ナナモは見上げていた視線を素早く後方に向けた。
「おはよう。ひさしぶりだな。ナナモ、いや、ジェームズ」
昨夜、イチロウに連絡したときに、僕はロンドンではナナモじゃなくてジェームズって呼ばれているからと冗談交じりで言ったことを律儀に覚えていた。ジェームズも、ナナモも自分の名前なのにイチロウにそう言わせておいて、実際言われると、むず痒い思いがした。
イチロウは、リモートではぼさぼさだったが、長髪の黒髪を後ろで束ね、ブルーのストライプシャツにグレーのスラックス、それにローファーと、ずいぶんフォーマルな出で立ちだった。きっとパソコンが入っているだろう、A4サイズのビジネスバックをたすき掛けのようにして背中ではなく腹側に向けていた。
「おはよう。元気そうだね。それにずいぶんきちんとした格好をしてるんだ」
きっと、教授のお伴だからそうしているのだけど、ジェームズはからかうつもりで早口の英語で言った。
イチロウは、勘弁してくれよと、イギリス人ならしないようなジェスチャーをした。
「ずいぶん早く来ていたのかい」
ジェームズはやっと日本語で言った。
「ナナモ、いや、ジェームズがこの場所を指定してきたということに何か意味があるのかなあと思って、早めに来てウロウロしていたんだよ」
「ナナモでいいよ、それで?」
「それでって?わかるわけないだろう。でも、ナナモがあの電光掲示板を見ていたということは何かあの掲示板に意味があるのかい?」
やはりとジェームズは思った。しかし、「別に」と、顔色変えずに言った。
「でも、ひとつ気が付いたことがあるんだ。この駅からリバプールへ行けるのかい」
イチロウは何か思い出したのかとジェームズはびくっとした。
「ああ。二時間ほどかな。でも、イチロウって、音楽に興味があったのかい?」
ジェームズは、はぐらしながらもう一度電光掲示板を見た。かすかに電球が揺らいでいる。
「いや、でも確か、リバプールで行われる相撲大会に応援に行ったって言わなかった?クラスメートが出場するからって、多分、そのクラスメートって女性だったと思うだけど、確か…、名前は…」
「ずいぶんまえの事だよ。イチロウにしてしてはずいぶん細かいことを覚えているんだな」
ジェームズは咳ばらいをしながらイチロウの記憶を打ち消すと、「ところで今日はロンドンのどこへ行きたいんだい」と、せかすように尋ねた。
もし東京だったらイチロウはまだ自分の記憶と格闘していただろう。もしかしたらカバンからパソコンを取り出して、素早く起動させたかもしれない。しかし、ここはロンドンだ。だからジェームズに利がある。
「スケジュールはこの中さ」
イチロウがパソコンではなくスマホをポケットから取り出した。そして、おそらく細かくスケジュールを組んだのだろう。その日程を確認して、ナナモの方に右手を伸ばしながら画面を向けた時に、「助けて」と、誰かの叫び声が聞こえてきたように思ってジェームズはその方角へ顔を向けた。その途端、「あっ、俺のスマホ、返せ」と、今度はイチロウの確かな声が聞こえた。イチロウはもはやスマホを掴んだ相手を捕まえようと走り出している。ジェームズはとっさに身体を反転させていた。そしてイチロウを追い越したことなど気にせずスマホを盗んで行った相手の後を追い始めた。
ナナモは走ることには自信がある。だから、すぐに追いつくだろうと速度を上げた。しかし、相手との距離がなかなか縮まらない。
「あれ、これって」
ジェームズは走りながら、あることに気が付くと、でも今度は絶対見失うまいと、追跡劇を始めた。相手は右に左に道路を曲がって行ったが、ジェームズはまるで地図アプリを見ているかのように、今、どの場所を走っているのかわかった。なぜなら、あの時、もう一度同じことが起こるかもしれないと、このあたりを歩き回って、ロンドンタクシーの運転手なみに把握していたのだ。だから、ウロウロと逃げ回っても相手がユーストンから南下して行っていることが分かった。
まるで顔を見られたくないのか相手は振り返ろうとしない。それでもジェームズが全速力で追いかけてきているのはわかるのだろう。相手もスピードを落とさずに逃げ回っている。
「どこまで行くのだろう」
ソーホーを過ぎたあたりから、ジェームズの頭脳が働く地図アプリの限界に近付いてきた。「あれ、ここは」と、ロンドンで一番有名な高級ホテルが道路を挟んで左側に見える。「でもこれ以上は」と、ジェームズがもう一段ギアをあげて最後の力を振り絞ろうとした時に、「止まれ、そうじゃないと撃つぞ」と、無意識に叫んでいた。むろん、銃など持っているはずがない。けれど、ポケットに手を突っ込むと何かに触れた。「えっ、まさか」と、思った刹那、ジェームズはスピードを緩めてしまった。その瞬間、ジェームズの前から相手は姿を消していた。
ジェームズは道路沿いをはあはあと息を整えながら歩いていると、ここは?どうして日の丸が?と、ジェームズはある建物の前で足を止めた。縦長の窓がいくつも並ぶいかにもイギリス様式の白っぽい巨大な建物が聳えていた。そして入り口には、髭ずらの丸い瞳をぎょろっとさせている大柄なガードマンがひとり立っている。
ジェームズはガードマンと視線を合わせないようにしながら近づいて行った。
日本国大使館。
入り口のきちんと真鍮に書かれている文字を見つけてジェームズはなぜかほっとした。そして、自分の頬をつねってみた。ジェームズはその痛みを確認しながら、入り口から中へ入ろうとした。
「用事か?」
ジェームズの行く手を遮るように、ガードマンが立ちふさがった。
「日本人ですよ」
ジェームズは英語で答えた。
「パスポートは?」
ジェームズは持っていなかった。だから、「たぶん男性のかただと思うのですが、今、誰か中へ入ってきませんでしたか」と、早口で尋ねた。
「男性?日本人なのか?特徴は?」
ガードマンは流暢に英語で話すジェームズを気にすることなく、尋ねて来た。
「中肉、中背、確か、黒髪で目はクリッとしていて眉が太い。多分スーツを着ていたはずだと思います」
ジェームズはなぜかそう言っていた
「ここは日本国大使館だ。そのような紳士はいくらでも出入りしている」
確かにそうかもしれない。でも本当だろうかとジェームズは思った。
「ところで、どのような用件で中に入ろうとしたんだね」
ジェームズの懸念など気にすることもなくガードマンは幾分口調を和らげて尋ねてくれた。
「友達のスマホが盗まれて、そして、犯人を追いかけてここまで来たんですけ
ど。急にいなくなったんです。だから、てっきりこの中に入って行ったんじゃ
ないのかって思ったんです」
ジェームズは素直に言った。
「で、その友達は?」
ジェームズはそう言えばと、イチロウを置いてきたことを後悔した。なぜならイチロウはスマホを持っていない。だから、スマホを持っていないイチロウに連絡出来ないのだ。もし、パソコンにジェームズの電話番号が入っていればいいのだが、そうでなければどうしたらと、ジェームズは途方に暮れた。
日本国大使館。困ったら遠慮なく相談できるところだ。ジェームズは今度は自分の事を相談しようと、中へ入ろとした。あれ、さっき居たガードマンは?
目の前にガードマンは居る。しかし、そのガードマンには髭がなかった。
「おーい、ナナモ。いや、ジェームズ・ナナモ」
ジェームズはそれでもガードマンに話しかけようとした時に自分の名前を連呼する叫び声がして振り返った。多くの車が行き来する大使館前の道路を挟んで反対側にイチロウが立っている。そして、大きな声で大きく手を振りながらジェームズを呼んでいる。
ジェームズは夢でも見ていたのかと思う気持ちだったが、イチロウの姿を確かに捉えると、つい今しがたの杞憂がどこかに飛んで行ってしまったのか急に元気になって、大使館の入り口を振り向くことなく遠回りしなければならなかったが、全速力でイチロウの方に向かった。
「良かった。でも、どうしてここがわかったんだい?」
「だって、追跡アプリぐらい誰でも入れているだろう」
イチロウはカバンからパソコンではなくタブレットを見せた。真っ白だったのでジェームズはまさか僕のと、一瞬驚いたが、イチロウが、
「それより、どうして急に俺のスマホを取り上げて走って行ったんだ」と、尋ねて来た。
「イチロウのスマホ?」
「そうさ、ナナモが持っているんだろう」
俺は持っていないよ、だってあの時と、ジェームズは言おうとして、もしかしたらとポケットへ手を入れた。ジェームズは手に触れた物をゆっくりと取り出す。
「やっぱり。悪いジョーダンだな。もしかしたら、あの時の仕返しかい?」
イチロウはそれでも怒っていないどころか、「ロンドンタクシーにまた乗れたし」と、楽しんでいる様だった。
ジェームズは手に触れたものが銃でなかったことにホッとしながら、悪いジョーダンを仕掛けて来たのはきっとあの二人に違いないと、もしかしたら何かのくさびかもしれないと、それでも、ジェームズはイチロウと再会できて本当に良かったとすぐに前を向いていた。
「ナナモは俺のスマホを起動できないはずだよね。でも、どうしてわかったんだい。俺がこの場所に行きたがっていたって」
「ここは確か…」
「そう、グリーンパークさ」
イチロウはジェームズからスマホを受け取ると、今までどこで何をしていたのかをジェームズに尋ねることもなく、ジェームズを差し置いてさっさと足早にバッキンガム宮殿へ向かおうとしていた。もしかしたら、イチロウは一般的なロンドンの観光を楽しもうと思っているのかもしれない。もし、そうなら、東京と同じように、いつでも行けるし、観光客で一杯だからと避けていたロンドンの名所に初めて行ける。ジェームズはもはやルーシーの事も、ユーストン駅で起こった珍事も忘れて、イチロウと始めてプライべートで過ごす時間のワクワク感ではち切れそうな気分になった。、
二人で軽い昼食を摂ると、イチロウが事前に手に入れてくれたチケットを手にしながら、もはやジェームズではなくナナモとして、イチロウとともに王室の馬車で乗り付けたかのような気分で、「王室の公邸」へ足を踏み入れていった。
七つの海を制覇した国王が五つの大陸の人々を招き入れてくれている。
二人はまさにそんな崇高な気分に浸りながら、大玄関と大階段の壮大さから滲み出る優しさにまず触れられる。もちろん、現実は手荷物検査を十分に受け、世界中からやって来た大勢の観光客の一部となって、ゆっくりと旧館の見学コースの流れに身を任せている。七百七十五もあると言われている部屋のうち十九室だけしか公開されない。それでも、歴代の国王が、女王が、そしてロイヤルファミリーが実際行き来し、来賓を迎え入れた同じ空間に居るというだけで、もはや、身体も心も浮遊しているような不思議な気分になる。
ここは異世界ではない。もちろん現実世界だ。しかし、全ての部屋がそれぞれ広々とした空間を持ちながら常に輝いている。緑の客間の何気なく置かれたソファーは正装で静かに謁見を待つために佇む訪問客を連想させるし、続く王座の間に入ると気品あふれるファミリーの笑顔が垣間見える。舞踏室に入ると、華麗な衣装に身を包んだ貴族たちの踊りと、伝統的に四つのコースからなる晩餐の声が聞こえてくるし、白の広間の空中に浮かぶ溢れんばかりの輝きを放つ巨大シャンデリアは貴族の豪華絢爛さを想起させる。そして、あっと言う間に、真っ赤な絨毯が敷き詰められた弓形の居間を通り過ぎると、どこまでも拡がる芝生が優しく旅の終焉を靴底から教えてくれる。
宮殿は生きている。二人は外に出るとすぐに振りかえっていた。そして同時にもう一度戻りたいと思った。
カフェでカプチーノを買った二人は、まるで酔いつぶれた身体をいたわるようにグリーンパークのベンチに腰掛けた。ナナモは声を掛けたかったが、イチロウは吐息すらもったいないような放心状態で黙っていた。
「やはり無理かもしれないな」
イチロウの絞り出すような声は突然だった。
「なにが?」
ナナモは思わず尋ねた。
「俺たちは王室のメンバーにはなれない。だから、現実を見なきゃ」
「どういうことだい」
「いくら宮殿に居てもそういう人生を送っていなければ夢物語で終わってしまうんだよ」
少し陽が傾きかけている。
「でも、僕は以前イチロウのVRの世界を現実だと錯覚したぜ」
「あれは…」
あれは怪しげな香りをかがせたからだと、イチロウは言いたかったのかもしれないが、言わなかったし、ナナモも尋ねなかった。
「もしかしたら、もっと現実と密着した異世界を拡げなければならないのかもしれないな」
「疑似恋愛をするとか、疑似旅行に出かけるとかかい?でもうまくいってもいかなくても相手の心に対する感情移入までは難しいし、ハラハラドキドキする冒険旅行は確かに興奮するんだけど身体を動かしたという疲労感がなければ実感がわかないかもしれないな。それにいつかは現実に戻るんだし、戻らなくちゃならない」
ナナモはそう言いながら、たとえ現実に戻った時のショックが大きかったとしてもルーシーを彼から奪って逃避行出来たらどんなに幸せだろうと、独りよがりの欲望を夢想し続けたいと思った。
「VRにはそもそも足枷があるんだ。でも何とか外せないかなあって俺はあがきたいんだよ」
少し風も吹いてきた。
「だったら、仮想現実の中で使命を与えるってどうだろう」
「使命?」
「そうさ、僕達は一時的に王様や貴族になれても、もともとそうじゃなかったんだから実感がないって言ったよね。でも、国王であっても貴族であっても僕が絶対会えないことはない」
イチロウはもちろんだと頷いた。
「だったら、何かイチロウが使命を与えて、国王に意見するとか貴族の助けになるとかするのはどうだろう」
「昔だったらすぐに殺されていたよ」
「だったら、国王や貴族のために働くことにすれば」
「それじゃあ、まるでスパイ映画だ」
「そうかもしれないけど、人殺しをするわけじゃないし、もっと知的な使命なら、食いついてくるかもしれないぜ。それに、なかなかうまくいかなければ、一度現実世界に戻りたいと思うかもしれないし、戻った現実世界で対策を練りなおせるかもしれないからね」
ナナモの口は勝手に言葉を継いでいた。
「それは良い考えかもしれないな。もう一つの現実の世界か?でも、ナナモは案外現実主義者だと思っていたんだけど、どうしてそんなことを考えついたんだい?」
イチロウに言われてナナモはハッとした。でも、もう遅い。イチロウは先ほどとは違い。頬を紅潮させて上を向いている。そしてナナモの話を膨らませたがっているのがありありと伝わってくる。
「あれ、雨だ」
ロンドンでは大した天候の変化ではなかったが、ナナモはあえて言葉にすることでイチロウとの会話を遮ろうとした。
雨粒は少し強く重くなってくる。ナナモは、帰ろうと、イチロウを促したが、これもロンドンだからと、あえて走ったりしなかった。地下鉄の駅に着いた時には雨は止んでいたが、髪の毛も服も湿りがちだった。イチロウはタブレットの入っているカバンが気になっているようだったが、先ほどの話しを蒸し返すことはなかった。
ナナモは道すがら大使館に視線を向けた。ラッシュの時間になっていたので、車の往来は激しさが増していたが、それでもその隙間隙間にあのガードマンの姿が見える。先ほどと同じガードマンだったかどうかはっきりしなかったが、あごひげだけは目だっていた。
イチロウはその日以来VRについては話してこなかった。その上ナナモの家でしばらく寝起きを共にするのかと思ったが、もうすでに教授との研修は終わっているはずなのにボスがいるからと夜になるとホテルへ帰って行った。それでも、折角叔母がベッドメイキングしてくれたし、このままではイチロウは仮想友達になってしまうと執拗に誘うと、一度だけ夕食に来てくれた。はじめはいつもと違って何かそわそわしている様子だったが、デザートのブレッド&バタープディングを食べながら叔父叔母が最近の日本の事を尋ねると急に元気になって、ナナモを介さず、楽しそうに二人と話し続けていた。
ホテルで朝食を済ませて来たからと、翌日はナナモとはナナモの家とは違う場所での待ち合わせになった。「せっかくロンドンに来たんだから」と、ナナモも行ったことがない施設の訪問を誘ったが、有名な建築物や博物館や美術館にはあまり興味を示さなかった。
「どうして?」と、ナナモが尋ねると、「だってバーチャル旅行で、もはや知っているから」と即答された。
「でも、バッキンガム宮殿に行った時は実物を見てスゴク感動してたじゃないか」
イチロウはバッキンガム宮殿内のバーチャル旅行はないんだと言いたげだったが、それ以上の理由があるかのように、宮殿見学の直後に呟いたあのイチロウの嘆きはすっかり消えてしまっていた。
イチロウはだからと行って元気がないわけではない。それより街に繰り出そうよ、ロンドンで生活している人達の声が聞きたいからと、もっぱらナナモを通訳代わりにして、マーケットに行ったり、パブに入ったりした。それでもまだ足りなかったのか、興味を持つと知らぬ人なのに、ナナモを差し置いてつたない英語でイチロウは積極的に話しかけていた。
ナナモが昨年まで知っているイチロウとは思えない。でも、それは僕も同じかもしれない。ナナモはもう一度ジェームズとして、イチロウとのロンドンを楽しもうと思った。
「ねえ、ナナモ、これをしばらく持っていてくれないかい」
どうしても実物を見たいと、閉館ギリギリで訪れた大英博物館のロゼッタストーンの前で、どうして人間は何かを伝えようとするんだろうなと、イチロウが呟いたあとの帰り道、イチロウは急に立ち止まるとジェームズに話しかけて来た。
「何だい?まさか…」
「まさかではないが、俺が持っていない方が良いような気がして」
「薬?」
ジェームズは初めてイチロウに会った時にVRの世界に誘われた媚薬の事を思いだした。
「おかしな薬なら犯罪だよ。俺がナナモを犯罪に巻き込むわけがないだろう」
「じゃあ、一体何だい?」
「バッキンガム宮殿の中を撮影したものだよ」
イチロウは真っ白なUSBを親指と人差し指に掴んでジェームズに見せた。
「どうやって。イチロウ、あの時カメラ持ってた?」
「カメラもスマホも禁止だよ」
「じゃあどうやって」
「まあそれはまた今度話すよ」
金属探知機もすり抜ける、もしかしたらスパイ映画の小道具の様な物を開発したのかもしれない。
「犯罪だよ」
ナナモは遠慮気味に言った。
「そうかもしれないけど、あくまでVRを作るうえで参考資料にするだけだから。それに俺は絶対外部には出さないから」
「でもパソコンが完全に安全だとは限らないだろう」
ジェームズは入り口にさえ立てなかったからかもしれないがコンピューターに対して疑念がある。
「そりゃそうさ。でも、本当に秘密にしたければ観光客を入れなければいいんだし、きっと、どれだけ開かれた王室だって言っても我々が行けない閉ざされた場所はきっとあるはずだから」
イチロウはジェームズを遮るようにきっぱりと言った。
「だっだら、イチロウが持っていても構わないだろう」
「そうなんだけど。何か、俺が持っていると調子が狂うっていうか、今までの俺とは違う人間になってしまうような気がして」
ジェームズはそう言えばとここ数日のイチロウの変化に戸惑っていた。
「それに何かナナモの役に立つような気がしてさ」
イチロウは思いつめた重々しい声で言葉を継いだ。
「僕の?でも。僕はもうコンピューターとは無縁の世界だし、医学の勉強にはVRは関係ないし、ロンドンの風景が見えないからって、めそめそ夜泣きなんてしないよ」
ジェームズは少しだけユーモアを混ぜた。しかし、イチロウは、タカヤマと同じようにニコリともしない。それよりやはり何かに怯えているような不気味な無表情だ。
「見つからないだろうね」
「ナナモ次第さ」
イチロウはそう言い切ると、半ば強引にUSBをジェームズに渡した。その途端スッキリしたのか、ストーンヘッジに沈む夕陽を教授と訪れたあとに、深夜便で東京に帰るからと、えっ、東京に一緒に帰るんじゃないの、というジェームズの問いに答えることなく、背を向け、じゃあ頼んだよと言って、ジェームズとのロンドン旅行を強制終了させた。ジェームズはあまりにもあっけなくあっさりした別れだったので、しばらく動けなかったし、声も出なかったが、イチロウの後ろ姿を見ていると、イチロウはジェームズに、いや、ジェームズ・ナナモにもっと違う何かを伝えようとしている様に思えて仕方なかった。だから、ジェームズは、イチロウ!とやはり大声を出して呼び止めないと行けなかったのに、なぜか、ありがとうと、つぶやくだけだった。
ジェームズも明日の夕方の便で帰らなければならない。叔父や叔母とたわいもない話をした後自室に戻ったジェームズはイチロウが居なくなった喪失感とともに、昨年と違った高揚感に包まれている自分を見て、やっと、ジェームズ・ナナモとしてロンドンに戻ってこられたんだと、記憶にすらもはやはっきりと残っていない両親に感謝した。
そう言えば、イチロウがジェームズの家に泊まらなかったので、朝、叔父と同じように六時前に起きることが出来たし、スマホの神社に参拝することが出来た。イチロウと歩き回って疲れていたので、叔父叔母は気を使ってくれたし、ルーシーと会う時間を作ることさえ忘れていた。
ジェームズはその不思議さに多少の違和感と戸惑いを覚えざるを得なかった。




