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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
13/33

(13)意識を失ったナナモ

 縦横と碁盤のような通りで仕切られた街並みは、全てが古びた趣のある木造建築一色で染められているわけではない。それなのに、訪れた人は誰もが古の雅な香りに触れるのか、まるで魔法にでもかかったかのように心穏やかな気分になる。

 ナナモは初めて訪れた京都の地をある意味そんな風に想像していた。しかし、大会会場は雅さなどまるでないコンクリートで創られたどこにでもあるような体育館だった。サクラギが話していたように、確かに空調が効いている様に思うのだが、さりとて完全に密閉された空間ではない。だからかタカヤマからの要らね情報の事も相まって蒸し暑さが館内から完全に拭い去られているということはなかった。

 大会は個人戦、団体戦、新人戦と順に行われる。新人戦を最後に行うのは、それほど新人戦に重きを置いていないことと、個人戦や団体戦が終われば新人を置いて早々と大会会場をあとにする、もしくはそうせざるを得ない先輩部員が居るからだ。ナナモは大会自体が初めてだったし、ギャラリーが少なくなるし、大会会場の雰囲気や環境に慣れるためには好都合だと思った。

 初日は開会式のみが行われ、対戦相手や対戦校が初めて発表される。そしてその後に大学間の交流会が行われるのが慣例だった。今年の主催は関西地区だったが、その中心幹事はK大学が担当していた。だから大会会場からは距離があったが、K大学にある学生会館にナナモ達は出向くことになる。昔は学生による余興を肴にどんちゃん騒ぎの宴会が行われていたが、今では、サンドイッチとコーヒーで、各大学がパソコンを使ってプレゼンテーションをするというシンプルなものに代わっていた。

 パソコンを使ってのプレゼンテーションだからと言っても無味乾燥なものではない。各大学はそれぞれ工夫を凝らして、ある意味余興のような楽しみが、昔の面影を引き継いでいた。剣道とは全く関わりのない部員たちのコントの様なプレゼンもあれば、しっかり武道としての剣道を前面に出しながらプレゼンするものもあって、短時間でまとめられることもあってか、それなりに盛り上がっていた。

 時間はあっという間に過ぎ去った。昨年の事を思うと嘘のように大学生活を謳歌している。ナナモは其の不思議さにもう一つの運命の事を考えて一瞬立ち止まりかけたが、ホテルに戻ろうと、タケチの号令が聞こえて我に返った。ナナモはタカヤマに声を掛けようとしたが、タカヤマは剣道仲間が他の大学に居るのか、何時しかいなくなっていた。だから、ナナモはタカヤマを探す為に会場内をウロウロしていた。

 ナナモはそこで以外な人物に会った。

「あの…」

 聞き覚えのある声のように思うが明確な映像とリンクしない。しかし、ナナモは声の主の方へ振り向いた。ナナモはしばらく相手の瞳を見つめていたが、自分でも顔が紅潮していく様がわかるほど驚いた。

「カリン?」

 ナナモから声が漏れていた。

「ナナモ、医学部に入学していたのね」

 カリンはうなずくとクスッと頬を緩ませ、元気だった、でも、びっくりしたわここで会うなんてと、言葉を継いで、小声だがはっきりと聞こえる英語でナナモに話しかけてきた。

「僕こそ…、でも、どうして?カリンは医学部を目指していなかっただろう」

 ナナモは二年ぶりに会うカリンの変化にどぎまぎしてしまった。あの時はショートカットで素の美しさが際立っていたが、今は髪の毛を少しウエーブ気味に伸ばしうっすらと化粧することで昔の面影を残しつつも大人を主張していた。

 カリンは大学受験を控えていたナナモがまだロンドンに居る時に叔父叔母に促されて東京に夏期講習を受けに来ていた時に知り合った女性だ。ハーフではなかったが英語を流暢に話せる帰国子女で、不安な気持ちを引きずったままのナナモが久しぶりに東京に戻って来た時に最初に何でも話し合えそうに思えた女性でもあった。ルーシーと同じように相撲に興味があったのでより親近感を抱いたのかもしれなかった。

「突然いなくなるんだから」

 カリンはナナモの問いには答えなかった。

「ごめん。あの時、ちょっと急用が出来たから」

 ナナモはあのことをカリンには話せなかったし、話したとしてイチロウのように信じるまではいかないまでも否定はしないようには思えなかった。

「ロンドンの住所は聞けなかったし、ナナモのことは気にしていたんだんだけど、相撲大会が終わってから、私も東京を離れたから」

 確かにあの日カリンと一緒に相撲部屋を訪れていたらもっとお互いのことが知り得たのかもしれない。

「一度ロンドンに帰ってからまた東京に戻って来ていたんだ。同じように予備校で勉強していたんだけど、カリンが居なかったのはそのためだったんだね。もしかして、カリンって現役合格していたのかい」

 カリンは確か民俗学の勉強をしたいと言っていた。そして、希望大学には女子相撲部があるからだと言っていたように思うのだが、もし、医学部を受験していなかったのなら…。

「もし僕の記憶が正しければカリンってK大学が希望だった?」

ナナモは確かめるように尋ねた。

「うん。でも、やっと入学できたのに、K大学の女子相撲部は廃部になっていたの」

 ナナモが言葉を継ごうとしたらカリンのほうから先に話してくれた。

「じゃあ、相撲は止めたのかい?」

「ううん、近くに女子相撲部がある大学があるから、そこに学外部員として参加させてもらっているのよ」

「だったら、今日はお手伝い?」

「まあね」

 カリンは短めにナナモの問いに返事した。その代わりナナモでもわかるように頬を赤らめた。ナナモはその変化に思わず声を発しかけたが、慌てて押しとどめた。

「ナナモは何時から武道を始めたの?」

 カリンはそのことを察したのか素早く話題を変えた。

「僕も二浪してやっと杵築医科大学に入学出来たんだ。だから今年からだよ。だからまだまださ」

 ナナモはなぜかスラスラとそう説明していた。

「応援するわ。試合はいつなの?」

 カリンはひよっとしてメンバー表を見てナナモの事に気が付いていたのかもしれない。だから、わざわざここにきてナナモを探してくれたのかもしれない。

「勘弁してくれよ。それにカリンが居るって思っただけで、緊張するから」

 カリンは、ナナモって変わらないわねと、クスッとした。

「ところで、ナナモってマーガレット先生とお知り合いなの?」

「マーガレット先生?」

 ナナモにはその名前が直ぐに頭の中に入ってこなかった。だから、いいやと答えていた。カリンは、そうと、短く返事をしてから、じゃあ、頑張ってねと、きっとルーシーもロンドンから応援しているはずよと言って、ナナモの前から去って行った。ナナモはルーシーという言葉が引き金となって、マーガレット先生って、マギーのこと?まさかK大学でと思った。だから、確かめようと手を伸ばして声を掛けようと追いかけ始めた時に目の前にタカヤマが現れた。

 タカヤマはナナモがカリンと親しそうにしばらく話していたのを見ていたようで、しつこくナナモに知り合いなのかと尋ねてきた。もしかしてタカヤマはカリンに一目ぼれでもしたのかと思ったが、大会に気合の入っていたタカヤマが、まさかとかぶりを振った。だからナナモは英語で話していたこともあって、内容までは理解できていなかっただろうからと、東京の予備校で出会った友達だと適当に答えた。しかし、タカヤマは妙に落ち着かないようで、そんなことより剣道に集中したらとナナモが言っても、タカヤマは余計気になると引き下がらなかった。ナナモはタカヤマらしくないなと思いながら、K大学の主将の彼女だと嘘をついた。タカヤマはそれであきらめてくれるかと思ったが、ほんまかと、何回も早口でまくしたてられたので辟易した。

 タカヤマにはまだまだナナモの知らない部分がある。それでもホテルに戻り、夕食をとってからミーティングが始まったころにはいつものタカヤマに戻っていた。

 明日からは観光どころか大会会場との往復の日々が始まる。ナナモはまだ自分の試合まで数日あるのに、もはやカリンとあったことなど忘れたかのように緊張で一杯になっていた。


 個人戦に出ていたフジオカとタカヤマの試合を、ナナモは各大学が微妙な間隔て陣取っていた観客席から応援していた。

 フジオカは一回戦を苦労しながら突破したが、二回戦ではあっと言う間に面を二本取られて敗退した。それでも、密かに練習していたのか、一か八かの抜き胴で初戦を突破したことに上機嫌で、ナナモが声をかけてもしばらく上気した面持ちからは返事がなかった。

 タカヤマはさすがに経験者だ。怒涛の快進撃で相手に打ち勝っていった。それでもタカヤマだけが経験者ではない。それに二年間のブレークがある。試合が進むにつれて決定打がなかなか取れずにいた。タケチが竹刀の切っ先が微妙にかわされているなと心配そうな声を上げていたが、ナナモには早すぎてよくわからなかった。それでも、タカヤマは制限時間ぎりぎりで少しの隙を見逃さず素早く面を打ち一本を取った。

 勝ち進むと次の試合までのインターバルが短くなる。タカヤマは大丈夫だろうかと思っていたが、呼吸が乱れているのか身体が小刻みに動いている様がナナモにも見て取れた。

 タカヤマはそれでもひるまなかった。果敢に打ち込んでいたが、なぜかタカヤマの動きが読み取れるのか相手は微妙にかわしていた。

 タカヤマの身体の動きが一瞬何かに憑りつかれたかのように止まった。ナナモは静かさの中に精気を貯めこんでタカヤマの一撃が振り下ろされるのではないかと期待した。

 しかし、審判が判定のために掲げた旗は相手方の色だった。ナナモは何が起こったのかわからなかったが、タケチは、うまいと、小手の技がしっかりとタカヤマの動きを制するように叩き込まれているのを見逃さなかった。

「なんであいつに負けたんや」

 格下やったのにと悔しがるタカヤマの相手は同じ高校の同級生だった。彼は現役で医学部に進学したようで、大学に行っても真面目に剣道を続けていたんやなと、それでもタカヤマにしては珍しく顔中を覆っていた汗を手ぬぐいで拭いながらも最後には同級生を讃えていた。

そしてついに団体戦が始まった。

 サクラギは一年生だからという理由で先鋒として試合に臨んだが、あっという間に二本面を取って、早々と退いた。面を脱いで正座をして試合の行方を見守っていたが、蒸し熱いはずなのに、ほとんど汗をかいていなかったし、息も乱れていなかった。おそらくサクラギは物たりなかったのかもしれない。それでも最後まで声援を惜しまず、結局、サクラギだけしか勝てなかったが、個人戦に出て自分の実力を試したいと希望していたのに、団体戦で先輩達と一緒に試合に出られたことに満足している様だった。先輩の瞳から溢れ出る無言の悔し涙に、ありがとうございましたと、応援で少し枯れた声だったが深々と礼をして答えていた。

 タケチ主将が率いる団体戦は、一回戦、二回戦と順調に勝ち進んでいった。ナナモだけはまだ試合が終わっていなかったが、それでも出来るだけ大きな声でナナモ達一年生は応援していた。小兵だがすばしっこく動いてどこからともなく一本を取る小岩を見て、ナナモはその俊敏さに寮でのらりくらりしている姿がなかなか重ならなかったが、ナナモを剣道部に誘っただけのことはあるなと、もしかして寮を仕切るほどの武道の達人なのではないかと、ナナモに改めて小岩をやはりただ者ではないのだろうと、末恐ろしく思った。

 次の相手はK大学だった。もし、K大学に勝てば次は昨年の優勝校と対戦することが出来るし、一矢報いることが出来るかもしれない。タケチの上気した瞳からは気合が今にも飛び出して来そうだった。

 試合が開始される前の静寂さの中、ナナモは気付かれないようにK大学が陣取っている観客席に目を向けた。主催ということあって大っぴらにはできないがそれでも部員以外の学生も混じっている様に思えた。ナナモは何度か瞳を動かしたがカリンはいなかった。もしかしたら裏方の仕事でもしているのだろうかとナナモは探すのをあきらめたが、意外にもタカヤマがまだキョロキョロとこれ見よがしに大きく首を回しながら周りを見つめていた。

 小岩の小手があと一歩で届かなかったことが悔しかったが、他の先輩たちも何とか踏ん張って珍しく引き分けで大将戦を迎えることになった。

 タケチは面を付けているにも関わらず相変わらず気合十分なことが容易に想像できた。そして、蹲踞の姿勢から、立ち上がりお互い竹刀の先を触れ合うと、今日一番というほどの奇声をタケチは上げた。相手の主将はその声に動じることはなく、反対に押し返すような掛け声を上げながら、間合いを測っている。タケチも今度は少しトーンを下げながら、相手の出方を冷静に探っている様だった。もし、相撲なら行事がはっけよーいと促すのだが、コンマ何秒で勝敗が付いてしまう剣道ではただ皆がかたずを飲んで見守るだけだ。

 タケチは竹刀先を微妙に動かしながら中段に構えていたが、相手は急に一歩下がると上段に構えた。タケチはあっと引き下がったことに反応して息を止めてしまった。その瞬間ものすごいスピードで上段から面が打ち込まれて、一瞬でタケチは一本取られていた。

「ちょっとした呼吸の隙に反応する度胸。やるやん」

 タカヤマは先ほどまで対戦相手という以上の感情でK大学の主将を睨み付けていたが、何時しか前かがみになり試合にのめり込んでいた。

「タケチさん、まだまだ」

 タカヤマの声はK大学の応援を蹴散らしながら体育館の床に浸み込んで行く。タケチは一瞬の出来事に少し狼狽している様に思えたが、タカヤマの声が届いたからか、二本目が始まるころには何時もよりももっと力強いどっしりとした大木のような出で立ちに戻っていた。

 相手の主将は今度は上段に構えることなく何度も面や小手を機敏に打ち込んできた。一本とられて慎重になったタケチは防戦一方だったが、次第に間合いがわかってきたのか、余裕をもってかわせるようになっていた。

 お互いが打ち込んだあとの静寂の隙間に、相手の主将は面を打とうと竹刀を振り上げたが、一足早くタケチは相手の喉もとを突き上げていた。

 よほどの衝撃だったのか、相手は思わず尻餅をついた。

「旨いやん。タケチさん、わざと呼吸を止めたな」

 オオヤマが呟いてくれなかったら分からなかったが、先ほどの裏をタケチはかいたのだ。

 これで五分と五分。他の大学も試合はしていたが、ナナモ達にはだだっ広い体育館なのに両校の試合だけしかスポットライトが当たっていないように思えた。

 あと一本で勝負が決まる。その緊張感はあれだけ蒸し暑いと感じていた館内に冷気をもたらし、木枯らしの吹く中、道具を付けずに真剣を用いて戦う武士を想起させた。お互い呼吸と間合いを出来るだけ感づかれないように、まるで透明人間にでもなったかのように気配を消しながらも、試合が始まった時のようなトーンではないが、一段高い掛け声だけはお互いから覇気として発せられていた。

「お互い、うちこまれへんねんなあ」

 タカヤマのつぶやきを緊張であまりにも強く張ったナナモの鼓膜は反応できなかったが、ナナモの研ぎ澄まされた瞳はタケチの面の奥で一瞬かすかに何かが光ったことを見逃さなかった。あっと、ナナモが叫んだ時にタケチは面を打ち込んだ。相手は身体をねじってかわすと体ごとタケチにぶつかっていく、その刹那にタケチの身体が微妙に崩れた。

「小手あり」

 この瞬間、タケチの杵築医科大学での剣道は終わりを告げた。

 タケチは一礼すると、そのまましばらく正座したまま呼吸を整えていたが、面を外すとナナモ達が居る方に向かって軽く頭を下げた。タケチの顔は珍しく紅潮していたが、とても清々しく、今まででもっとも晴れ晴れとしている様に見えた。

 あとはナナモの試合だけだ。個人戦と団体戦の表彰式が行われたあとの、緩やかな時間の流れをナナモだけは全く感じられなかった。タカヤマもいつもならナナモを茶化すのに、夕食後も竹刀は持たなかったが、身体の動きや技のタイミングなどをナナモに指導してくれた。

「ナナモは緊張してると思うけど相手も緊張してるから五分と五分や」と、タカヤマは言ってはくれなかった。何故ならナナモの初戦の対戦相手は、大学から剣道を始めた新人ではなく、タカヤマがインターハイで出会ったことがある経験者だったからだ。むろんナナモはそのことを知らなかった。だから、ナナモは防具を付け自分の順番が来るまで背筋を伸ばし正座して待っていたが、相手はやる気があまりないのかボーっとしているように少し背が丸まっている様で、ひよっとしたら勝てるのではないかとさえ思っていた。

 しかし、心と身体は一致しない。これが京都の魔物かと思うくらいナナモの身体中から汗が噴き出し、鼓動は早くなり、身体から逃げ出していかないほてりで胸が締め付けられた。

 それでも必ず時間は経過する。そしてナナモの身体が復調しないまま、ナナモの試合が始まった。

 ナナモはもはや紗が掛かっている相手の顔に向かって一礼すると、蹲踞の姿勢で竹刀先を交わしてから立ち上がった。気合を入れるために声を出せとあれほどタケチやタカヤマに言われたのに、ナナモの喉はカラカラで全く声が出ない。それどころか声を出すと苦しくて酸欠になってしまいそうだった。

 ナナモはそれでも懸命に自分では声を発しようとした。それでも静寂が二人の間に漂っている。何故なら相手も全く声を出していなかった。竹刀は中段に構えていたが、身体中から力がぬけているようで覇気は全く感じられない。恐怖も感じない。それでもなぜかナナモは踏み込めないでいた。きっと、それは精神的なものではなく肉体的なものだ。そして、その肉体を支配しているのは京都の魔物のせいだ。

 相手が動かないのでナナモの身体が少しずつ環境に順応していく。それにそもそも魔物など存在しない。ナナモはやっと目の前の霧が晴れたのか相手の顔を捉えることが出来た。

相手はやはり覇気のない表情だ。ただ、ナナモが気になったのは、まるで幽霊のように感じたことだ。全くおじけづいてもいない。表情の変化もない。そして何より呼吸をしているように全く見えない。

 ナナモは胸どころか肩まで動かしている。ナナモはなんとかそれをコントロールしようとまず自分に言い聞かせた。

 その時だった。相手の竹刀がだらりと下がった。ナナモはそのしぐさに呼吸を整える間もなく大きく竹刀を振り上げて面を打とうとした。

「小手あり」

 ナナモの竹刀は手から離れてどこかに飛び去り、何が起こったんだ、全く見えなかったと、あっけに捉れていた。

「痛い」

 ナナモの右腕に激痛が走り、指先までしびれて、ぴくりとも動かなかった。 

 もしかして、腕が折れたのか?剣道を始めたばかりの頃ほんの軽くタカヤマに小手を打ち込まれた時の衝撃をナナモは思い出した。

 ナナモは防具を付けたまま左手で右手を支えながら、相手の顔を見たが、その印象は全く変わっていなかったが、もはや幽霊だとは思わなかった。

 魔物は彼かもしれない。

 ナナモの手はまだしびれていたが、辛うじて動きだしたので、はじかれた竹刀を両手で拾うと何とか握り、ナナモはゆっくりとすり足で中央に戻った。

 ナナモの身体からもはや一滴も汗は出てこなかった。それどこか相手の前に立つと寒気さえ覚える。ナナモはこの瞬間にとんでもない相手と今闘っているのだということが分かった。

 もしかしたら、タカヤマが言っていた大学の名誉を得るため新人戦の優勝をもぎ取ってやろうと無理やり送り込まれた刺客なのかもしれない。だから、ナナモが構えただけで、否、体育館に入って来て道具を付ける前にナナモの実力をすでに見切ってしまって、試合前からやる気がなくなってしまったのかもしれない。

 ナナモはもはや右手のしびれも痛みも感じなかった。ただ、目の前に居る相手が怖かった。あの無気力で能面の様な相手の身体は先ほどとは違いナナモを押しつぶすような巨人に変わっている。まるで蛇に睨まれた蛙だ。少しでも動けば飲み込まれる。いや、刀ではないのに竹刀を頭上高くから振り下ろされたら面の道具を付けているのに真っ二つに切り裂かれる。

 そんな恐怖にナナモは押しつぶされそうだった。

 イチロウの作ったVRの世界ではない。現実なのだ。それなのにどこからか声がする。

「剣を持ってお前はヒトを殺すのか」

「いや、これは竹刀だ。刀ではない。だからヒトは死なない」

「嘘を言え、お前が持っているのは刀だ。その切っ先の輝きが見えないのか」

 ナナモは思わず瞳を閉じた。しかし、その瞳をこじ開けようと強い光が入って来る。ナナモは思わず目を見開いた。するとあれほど竹刀だと声高に叫んでいたのに、刀に代わっていた。

「武道とはそういうものだ。お前はその道を歩むのだ」

「いや違う。武道は殺し合いではない。絶対ヒトを殺さない」

「いや、何れわかる。それが武道を選ばなければならなかった運命だから」

「いやだ」

 ナナモは大声を出して、大きく竹刀を振りかぶり相手の方に突進して行った。ただし、ナナモは再び相手と竹刀を交えたかどうかわからない。なぜなら意識を失い倒れてしまったからだ。

 

 ナナモは深い眠りの中にいた。

 物凄く蒸し暑いのだが、ここはどこだろう、でも暗闇で何も分からない。でも何かの音がする。懐かしい音色だ。もしかしてと、幼い時の記憶が少し蘇る。けれど、具体的な映像は全く浮かんでこない。

(コンチキチン、コンチキチン)

 そうだ、夏祭りに行った時に聴いた音だ。でも最近どこかでおなじような音色を聞いたことがある。どこだっただろう?イギリスのどこか有名な巨大サッカースタジアム?まさか…。幼い頃はまだロンドンすら行ったことがなかったはずだ。それに明らかな和の音調だ。だったら、やはり東京か?いやここは京都だ。もしかしたら祇園祭の囃子なのだろうか?京都に憧れてスマホ検索している時に祇園祭の映像とともに聴こえてきた音に似ている。

 だったらこの音は祭囃子なのか。でも、どうして祭囃子が聞こえるのだろう。もはや梅雨の時期は過ぎている。それどころか照り付ける夏日が京都という盆地のなべ底を執拗に熱している。祇園祭は終わっているはずだ。

 ナナモはもう一度耳を澄ましてみる。なべ底に当たる光子に全ての意識を集中させる。

(コンチキチン、コンチキチン)

 瞼を閉じて耳を澄ませていると、その音に乗って光の粒が連動する。

 痛い。ナナモは思わず目を背ける。しかし、瞳を焼き尽くすような熱ではない。だから、ゆっくりと目を開け、視線を上げる。

 どんよりとした灰色の空から光の粒を放っていたのは、太陽ではなく空高く掲げられた大長刀の切先からだった。ナナモはなぜかほっとするどころか、吐き気がした。しかし、目を背けてはならないと誰かの声がする。だから、ナナモはもう一度長刀を見つめた。

 長刀から放たれた光子は弱まって行った。そして、そのことで視界が拡がると、長刀は天にも達するかのように神木に付けられ掲げられた鉾であることがわかった。誰かとてつもない大男の持ち物なのだろうか。いや、艶やかな装飾が施された三階建てほどの高さの建物の強大な三角屋根から聳え立っている。そして、まるで大型トラックのような迫力を持つその長方形の建造物には外輪が四か所あった。

(コンチキチン、コンチキチン)

 また音がする。祇園祭の山鉾巡行だとナナモは確信した。しかし、長刀を持つ鉾が一台だけで、その鉾を動かす曳手や回しの人々がいないどころか、鉾には誰も乗っていない。

 突然ぱっと簾が持ち上がる。誰も乗っていないと思っていたのに、稚児がいる。榊で創られた冠を頭に乗せ、真っ白な羽織袴に身を包み、顔塗りを一切していない幼顔からは、神聖な中性的な雰囲気が漂ってきて気持ちが穏やかになって行く。

 それでも祭囃子が突然止まり、あたり一面が清らかな静寂に包まれた時、稚児は急に立ち上がり、両手でしっかりと太刀を握りしめ振り上げると、注連縄を切り開いていた。その瞬間、何かに引き寄せられるように鉾は少しずつ動いていく。  

 ナナモは思わず振り返りその行き先を見つめた。誰もいないし、何もなかった。ただ、遥か彼方から一本の生糸が張り巡らされている様で、微妙な振動から懐かしい声が聞こえてくる。もしかしてツワモノ?ナナモは思わず叫んだが、祭囃子に紛れてしまう。

 結界から入って行く。そこはカミの世界ではなく、もっと、深い闇の世界だ。ナナモは、そう思いながらもしかしたらあの稚児は自分自身の事ではないかと思って身震いが止まらなかった。

(コンチキチン、コンチキチン)

 ナナモはその音につられてもう一段深い世界へと誘われる。

 薄暗く窮屈な空間だ。そして、その空間はガタンガタンと出発地点に戻って来た古びたジェットコースターの様な不規則は横揺れと縦揺れをする。そして、その速度はジェットコースターとは真逆な程明らかに遅いのにその空間は前に進んでいる。

 ナナモは何か乗り物に乗っていた。やはりナナモは神の使いの稚児として鉾に乗っているのではないかと思ったが、閉鎖されているのか真黒な空間と、その空間の認識は鉾よりもずいぶん低い乗り物のように思えた。

 簾が降ろされているからか、真っ暗な暗闇からかすか木漏れ日が入って来る。ナナモはこの時初めて進行方向に背を向けながら隣合わせで座っているヒトが目に入った。

 ずいぶん華やかな着物姿だ。きっと、男女なのだろう。教科書でみた平安の貴族なのかもしれない。なぜなら、一人は烏帽子と呼ばれるコックの様なかぶりで頭を覆い、狩衣かりぎぬと呼ばれる宇宙服のようなずいぶんだぶついてはいるがいかにも軽そうな着物に身をくるみ、先の丸い靴を履いている。もう一人はきれいにとかされた黒髪を腰くらいまで垂らし、袿姿うちきすがたと呼ばれる絹で織られた色鮮やかな着物を幾重にも羽織り、足元はその着物の拡がりで覆い隠されている。

 しかし、その艶やかな出で立ちとは裏腹に少しふっくらとした細長の目を持った男女の蒼白と言うべき面持ちからは精気が全く感じらない。その上この空間に二人きりなのに全く言葉を交わしていないし、真正面にナナモが居るはずなのに全く気にしていない。

 乗り物が止まった。ゆっくりではあったがガタンと音がしたかと思うと、ナナモが要るはずの場所が開いた。二人はナナモをすり抜け後方の扉から降りていった。ナナモも二人について降りていく。ナナモは振り返った。この乗り物は何だったのだろう。まさかジェットコースターではあるまいと、半笑いの思いが余計に意外さを倍増させたが、その乗り物はロンドンで古き日本の雅さを紹介する展覧会のポスターの表紙になっていた牛車だった。しかし、黒牛は思ったよりやせ細り涎を絶え間なく流しているし、車も思ったよりみすぼらしく、黒く塗られた車輪はところどころはげ落ち、簾はほころびていた。

 ナナモはますます朽ちていく牛車をしばし見つめていたが、慌てて二人を追いかけた。

 二人は丁度ある建物に向かっていた。ナナモは歩調を速め、目線をあげて周りの景色を捉えようとした時に、あっと叫んだ。ある建物とは大きな門だったからだ。ナナモは以前も同じような門を見た事がある。しかし、その門とは比べものにならないほどの大きさで、数十メートルの幅と高さがあり、一枚板の簡素なものではなく、瓦屋根を持つ二層構造で、城門というべき重厚さと、見るものすべてに荘厳さを与えるようなまるで生き物のような妖艶さがあった。

 ナナモはその門に引き寄せられていく。しかし、ナナモが近づいて行くとその城門からうめき声が聞こえる。誰かそこに居るのだろうかと目を凝らしてみるが、誰もいない。しかし、以前視た門は艶やかな朱一色で塗り上げられていたのに、ところどころ朱色ははげ落ちているし、門に施された装飾品も傷んでいるのかところどころ朽ちかけている。

 二人はその門を通り過ぎた。ナナモも二人について行こうと慌ててその門のところに達したが、その門を通り過ぎようとした途端に急に目の前に透明なガラス板が置かれたかのように前には進むことが出来なくなった。しかし、門を通り過ぎた二人は、ナナモの目の前で急に立ち止まったかと思うと、あれだけ豪華絢爛欄だったのに、みすぼらしい使い古されたところどころ穴が開いている端切れのような麻布で身に纏い、黒髪ではあったが散切り頭で、真黒な肌がつり上がった目じりと相まって先ほどまでの柔和な顔を完全に消し去った形相に変わっていた。そして、裸足であることもあって、身軽になったのか、あの乗り物よりも数倍早い軽やかな身のこなしで数歩前に進むと誰かに挨拶するためなのか急に立ち止まり、真黒な地肌と泥土がついた素足で片膝をつき頭を垂れていた。

御主おんあるじ、否、オオギ様、ただいま戻りました」

 二人は従者なのか声を揃えへりくだった口調で言った。

 やはり二人の目の前に誰かいるのだろうか?ナナモは目を細めてみる。しかし、なかなか捉えられない。それでも急に暗闇に連れてこられた瞳のように次第に霧の様にうっすらとうごめく物体が瞳に映し出される。ただその霧は白くない、黒だ。そして、一度認識した視覚は粒子を次第に明確にしていく。だから、まるで魚が遊泳しているかのように撓る物体の塊を創り上げていたのがうごめく小蠅の何千何万もの集団だったとわかると一瞬目を背けてしまう。

「さぞ、都でうまい物を食ってきたのだろう」

「滅相もありません」

 二人は声を震わせながら言うとやっと頭を挙げた。先ほどの柔和な顔はなく、とんがった耳と鼻、それに口元からは牙が出ている。もしかしてヨウカイなのかもしれない。

「いつ、迷宮にお越しですか?」

 二人は相変わらず声を揃えている。

「祭りが終わらないと、我は迷宮には入れぬ。我は力がないのだ」

 黒い霧がかすかに小さくなる。

「何を仰せになられます。オオギ様にはヨモツオオキミ様のお力が宿っています」

「わかっておる。しかし、地上の世界は天上の世界からまだまだ守られている。我々地下の世界から来たものはたやすく奴らにはじき返されてしまう」

「しかし、オオギ様、ヨモツオオキミ様はカミであられたはずです。さればもともと天上の世界においでになったはずではないのですか?」

「ああ、そうだ。しかし、お前も知っておるだろう。天上の世界のオオカミが、地下の世界と地上の世界のつながる通路に大きな石を置いて塞いでしまったことを。だから、地下の世界を創られたヨモツのオオキミは地上の世界にこられないことを」

「ハイ。存じております」

 二人の声のトーンが少し下がった。

「我が地上の世界に居ることが出来るのは、我が嘗て地上の世界に居たからだ。それなのにヒトはタミに変わったことで我を地下の世界に追いやった。我は途方に暮れた。もはや、地上の国に戻れないのかと悔やんだ。しかし、そんな時ヨモツのオオキミに助けられ、中間の世界で鍛えられたのだ」

「中間の世界?」

「そうだ地下と地上の中間にある世界だ」

「では、そこでカミと同じ力を得たのですか」

「カミと全く同じ力を得ることは出来なかったが、確かに我はタミに宿る力を得た。しかし、その力はまだまだ弱い。なぜなら、邪悪な心を呼び覚まそうとタミの心深くに入り込み、我がヨモツの力を発揮しようとした時、天上のカミが地上のヒトを遣わしてタミに宿った我から力を削ごうとした」

「力を削ごうと?」

 ヨモツオオキミの力を絶対と考えていたのか、信じられないという顔を二人はしている。

「しかし、ヒトがタミとなってから、天上のカミも、地上のヒトへ簡単に力を与えられなくなっているのではないのですか」

 二人はさらに重ねるように尋ねた。

「ああ、だから、天上のカミは地上のカミとしてアマツカミを送り込み、天上のカミに代わってヒトに力を与え、与えられたヒトが我を地上のカミに祭り上げ、アマツカミの配下に置こうとしたのだ」

「本当ですか?」

「ああ、しかしそれはもはやアマツカミの下僕になったということだ。下僕になるくらいなら我は地上のカミなどになりたくはない、なぜなら地上のカミになったとしても我は自ら力を発揮することなど出来ないからだ。だから、我はヒトではなくタミを通じてアマツカミにヨモツのオオキミから頂いた力で宿ろうと考えた」

「タミはヒトです。そうであるならば、タミもアマツカミの下僕ではないのでしょうか?」

「ヒトはそうかもしれないが、タミはそうではない。確かに大多数のタミはアマツカミにひれ伏すだろうが、中には裏切りものも居る。何と言ってもそれがタミだからだ。しかし、アマツカミはタミに寛大だ。だから、我はお前達の仲間を使い、底知れぬ欲望を持っているタミを見つけ、操り、アマツカミに取り入り、そしてその隙にアマツカミ自身に宿ろうとした。しかし、もう一歩のところで、いつも阻まれるのだ。そしてもう一度地下の世界に我を追いやろうとする。だから、再び我は中間の世界に逃げ込んだ。そして、再び地上の世界のタミに宿る機会を狙っておるのだ」

「しかし、地下の世界におられるヨモツオオキミ様からオオギ様は力を与えられたのであれば、天上の世界から遣わされたアマツカミの力と同じなのではないのですか?そうであるならば、どうしてオオギ様がタミを通してアマツカミに宿ろうとしたことが分かったのですか?」

「アマツカミ以外にも地上にカミはいるのだ」

「どなたです」

「クニツカミじゃよ」

 あっと二人は息を飲んだ。

「しかし、クニツカミはあなたのことでは…」

「わかっておる。それ以上の事をいうのではない」

 二人を前に黒の集団から真っ赤な炎が立ち上っていた。二人は頭をもう一度下げてかしこまった。

「まあ、よい。そちらの報告ではせっかく我から力を削り取ったのに、クニツカミの忠告など忘れてまた我を地上のカミとして讃えようとしている」

「タミとは弱きものです」

「怒り、悲しみ、妬み、裏切り、暴力それらが我の糧となる。この場所はその縮図だ。アマツカミがタミをいくら導こうとしても、カミから生まれたヒトがヒトからタミになったとしても、タミはタミなのだ。そしてタミは誰のしもべにもならないと思っている。ただ、タミはもともとヒトなのだ、その事を忘れておる。そこが付け入るスキなのだ。見ろ、毛をむしられ、服をはがされ、肉体まで削り取れても、なお、この場所に投げ出されているタミが要るのだ。その一方で都ではそんなことなど露ほども知らずに豪勢な衣服と食事に興じるタミもおるのだ。だから、中間の世界からわざわざ地上の世界に来ても、ここに居ると、ヨモツのオオキミからの声が聞こえてくる。そして力が蓄えられて来るのだ」

「もっと、怒り、悲しみ、妬み、裏切り、暴力をタミに与えるのだ。そうすると、わしにまた力が舞い戻って来た時に、我は簡単にタミに宿り、ヨモツのオオキミを通して、アマツカミに近づくことが出来る。今度こそクニツカミには知られぬ術を蓄えて見せる。そして、その暁には…」

 ナナモは急に目覚めた。そして、夢を見ていたのだろうかと思った。そうであるなら黒くうごめいていた物体はオンリョウだったのか。確かヨミの世界に閉じ込められたカミガミが地上の世界のタミを操るために姿を変えたと言っていた。

 否、オンリョウなら地上の世界に出てこられないはずだ。だったらあれは地下の世界?嫌そんなことはないはずだ。確かに地上の世界。否、ナナモの居る世界だったはずだ。

 そうか、思い出した、黒い物体とその従者に気を取られていたが、周りには数多の死者があの城門からはみ出すように横たわっていた。きっと誰にも葬られることはないのだろう。その上、死者を鞭打つように盗賊が着物を剥ぎ取り、髪の毛までむしりとられた躯が重なり合うように大地を覆っている。つまりもはやここは地上の世界ではないのだ。だからオンリョウの声は届いたのだ。

 コンチキチン、コンチキチンと連呼する音を聞いているナナモの耳に誰かからの囁きがうっすらと入り込んでくる。


ヨモツオオキミとはきっとオンリョウ達を束ねる美しい女神。その方は「ミナイザ」に違いない。

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