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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
12/33

(12)医学部対抗剣道大会

「植えよ、お米はカミの子よ、植えよ、お米は幸の子よ…。梅雨の時期が近づくと稲作の田植えが始まります。昔は村人総出で田んぼにでると、泥んこになりながら身をかがめ、一束一束、苗を手で丁寧に均等に並べ植えしたものです。田植えは神様がもたらしてくれた稲作の始まりでありますから、神様に感謝しながら行う神事であると、豊作を願いながら皆で神様に感謝する唄を歌います」

 つい一週間前にナナモはそんな講義を苺院で聞いたように思った。しかし、現実は、ナナモを出来るだけその歌声から遠ざけようとしていた。だから、道場に練習に来ていたナナモは皆で歌うことなどなく、水田などない板の間で、「暑い。暑い。熱~い。くそ~」と、叫んでいた。

 ナナモは日本独時の梅雨の季節の到来が今でもまだどうしてもなじめないでいた。ロンドンに居た時には一度も経験したことがない湯沸かしポットの蒸気の中を歩いている小人のような気分を、東京に久しぶりに戻って来たときに突然味わったからかもしれない。それに、僕はナメクジじゃないんだと、実際ナナモがロンドンでナメクジを昼間見たことなどないのに、急にそう思ってしまったので余計に嫌悪感が強くなった。

 それでもナナモの意志とは違って梅雨という六月の下旬ころから約一か月続く高温多湿の毎日は、日本の四季においてはけっして避けられない風情である。ナナモがもし日本庭園の中をゆったりと散歩していたら、きっと北斎以上の共感を得ただろうが、クーラーの効いた医学部の講義室ならいざ知らず、ほぼ毎日木造の古びた剣道場で大声を発しながら竹刀を振り下ろしているナナモにはそれだけの心のゆとりはなかった。

 ナナモは入部以来案外真面目に剣道の練習をこなしていた。もちろん、タカヤマには全く歯が立たないし、年下だが経験者であるサクラギには軽く足環られ、ナナモに対してまだ時折敬語言葉が抜けないフジオカにも、十回に一回ラッキーで一本取れるという程度の実力だった。それでも、退部せずに続けてこられたのは、寮の規則という縛りだけではなく、何も知らない初心者のナナモにとって、先輩やタカヤマに教えてもらった技などをすぐに実践し、思うように出来るようになると、なんだか剣の達人になった気がして少し浮かれ気分に心地よさを感じていたからかもしれない。

 しかし、ナナモはたとえ剣道場は神聖な場所だと言われても、たとえ窓は全開にしているし風通しよく作られていると言われても、さながらサウナ風呂のような現実になんども悲鳴に似たため息が出ていた。そして、あれほど道具を付けて練習したいとふてくされていたことが嘘のように、何とか道具なしで練習できないのだろうかと、剣道の相手ではなく、絶え間なくあふれ出す汗を簡単にぬぐうことも出来ないイライラという敵と闘っていた。

「今の時代、クーラーぐらい付けてもいいのに。熱中症になるよ」

 ナナモはついタカヤマに愚痴ってしまっていた。しかし、小さい時から慣れ親しんでいるタカヤマにとってはそれほど気にはならないらしいし、実際うっすらと蒸気で肌がしめっているだけで、ナナモのように滝の様な汗をかいていなかった。ナナモはつい熱くないのかいって尋ねると、タカヤマはそんなことはないよ、ただね、汗が目に入ると一瞬判断が遅れるからと、さもそう言うことに対しても俺は鍛錬を続けてきたのだと、決してのけぞった様な物言いではなかったのだが、はあはあとアリクイの様な長い舌があったら、すぐにでもペットボトルの中に忍び込ませたいと思っていたナナモにとっては、自らの未熟さよりも、この蒸し暑さがなんとかならないかと魔法にでもすがる気持ちが大きかった。

 全員で床磨きをしてから練習は始まり、全員で床磨きをしてから練習は終わる。

礼に始まり礼に終わるという礼儀作法と同じようには、剣道場を専属で持つ剣道部にとっては重要なことだ。

「今日はこれまで、礼!」

 部の主将である六年生のタケチの号令がやっと道場内に響き渡る。しかし、ナナモは道具をすべて取り外していたのに、まだ、はあはあと、長い舌を伸ばしたままだった。

 ナナモは先輩達が立ち去った後の、道場の入り口で、着替えもせずに、道場の端に行って、ああ、疲れたと大の字になっていた。

「おい、ナナモ」と、タカヤマはまた戻って来たのか、ナナモの姿を見て、たまりかねたのか、いつもより険しい顔で注意してきた。僕が横たわっている所はまた後で拭き掃除をするからと、ロンドンなら施設には清掃の専門家が居るのにと、そこまでは言わなかったが、だから、いいだろうこれくらいと答えたナナモに、あきれ顔というか、神聖な場所で大の字になるなんて、それも新入生がと、昔なら鉄拳制裁だったと、タカヤマも声には出さないが、顔にはやっぱりハーフだからなのかと、怒り文字が書かれてあった。

 それでもタカヤマは気を押し殺して怒鳴りつけてこなかった。その代わり、医学部の部活だから練習時間が短いとナナモには信じられないことを常日頃言っているタカヤマは、きっとナナモにもう少し練習に付き合ってほしいと思っているのだろうということがひしひしと伝わってきた。

「勘弁してくれないか…」

 ナナモは悲壮感を漂わせてタカヤマに向かって言った。もしかしたら、サクラギもフジオカもさすがにこの蒸し暑さに辟易したのか、タカヤマに心地よい返事をしてくれなかったのかもしれない。

「道具を付けろとは言わん。ただ、立っててくれたらいいだけなんや」

 どうやら、タカヤマは間合いというものをもっと会得したいようだ。でもそれなら、電信柱のようにボーッと立っているだけでは済まないはずだ。実際、何もしなくてもいいからと言って以前練習に付き合ったナナモはいつしか、タカヤマのエスカレートしていく欲求に答えなければならなかったし、折角ナナモがナナモなりに奮闘しても結局タカヤマは満足な顔をしてくれなかった。

 それでも、梅雨の時期でなかったら、タカヤマに付き合ってあげていただろう。でも、もはや練習が終わり、水分をしこたま吸収したナナモの身体からは、道場で立っているだけでも、また、汗が噴き出しそうに思えて仕方なかった。

「さあ、神聖な場所をより神聖な場所にしないと」

 ナナモはもう少し大の字なって板の間に寝転んでいたかったが、急いで立ち上がると、手縫いの雑巾でもう一度道場の床の清掃を行った。

「ごめん」と、ナナモは声には出さなかったが、伸ばした平手を顔面の前で立てることでその意志をタカヤマに伝えると、道場内で一礼してから道場から出て行こうとした。ナナモはタカヤマに申し訳なさそうに踵を返して立ち去ろうとした時に、フジオカとサクラギが急に目の前に現れて思わずぶつかりそうになった。

 ナナモがぶつからなかったのは、多分にフジオカとサクラギの衝突回避の能力のおかげなのだろう。フジオカは多少驚いていたのかもしれないが、サクラギはいたってクールな一面を崩さなかった。

 ナナモはタカヤマから逃れたかったが、二人に押し返されるように道場に戻った。二人ともまだ着替えていないのか道着のままだった。

「なんや三人で、やっぱり物足りんかったんか」  

 珍しく大きな声で嬉しそうな声を上げていたタカヤマだったが、しばらくするとその笑顔を消しさり、直立不動の姿勢でナナモらの方に向かって頭を下げていた。ナナモはその様変わりに驚いた。それに、そう言えばさっき出会い頭で遭遇した二人は、いやに緊張していた。

 ナナモは振り返り、二人を見た。相変わらず感情がない、まるで幽霊の様だと思ったが、その途端もっと強烈な個性がナナモの視線に飛び込んできた。

 主将のタケチが立っていた。胴着はびっしりと汗で変色していたが、顔はまるで冷蔵庫から出て来たばかりように、汗腺がすべて縮こまっていて、全く潤っていなかった。

 ナナモは反射的にタカヤマと同じように直立不動になって頭を下げていた。但し、ナナモの顔からはまた汗が噴き出している。

「新入生の皆にもうじき行われる医学部対抗剣道大会の事を説明しておこうと思って」

 タケチを囲むように先ほど板拭きした道場の中央部に新入生四人が対座した。もちろんタケチを含めて皆が正座の状態で背筋をピンと伸ばしている。

 タケチは卒業前の最後の大会だ。本当なら六回生は臨床実習が始まっているし、卒業試験とそれに続く国家試験の勉強をしなければならないので、主将の座を五回生に譲り、部活動もある程度の自由参加が慣例として許されているのだが、タケチは必ずそうしなければならないとは思ってはおらず、文武両道という、学生のあるべき模範となる美徳を理想ではなく現実にしようとしていた。

 タケチはスパルタで後輩を指導することはなかったし、日本古来の武道であるために精神論を強調する指導者もいるようだが、むしろスポーツ科学の理論を出来るだけ取り入れようとしていた。だからか、ナナモ達部員全員はタケチを特別な思いを込めて尊敬していた。

 タカヤマやサクラギのようなハイレベルの部員がどれほどの事まで知っているのかわからなかったが、誰一人瞳をばたばたと瞬きすることなくタケチに集中していた。

 タケチは以前ナナモらが先輩たちからアナウンスされていたが、例年八月の第一週に行われる全国医学部対抗剣道大会について正式に説明した。

 大会は新人戦と個人戦と団体戦があった。タカヤマなどは実力者なので、今回一回生としてすべての戦いに参加できる実力を備えていたが、大会の規定で一つの戦いにしか参加できなかった。昔はそうではなかったのだが、協賛や寄付が少なくなったことと、なにより夏期に補修の講義を行う大学もあって、長期の開催が出来にくくなったのだと、その理由を説明してくれた。

 ナナモとフジオカは、当然、新人選に出場するように言われ、タカヤマとサクラギには、個人戦か団体戦かどちらに出場したいか尋ねられていた。ただし、当然、団体戦は大学間の争いとなり、もっとも晴れやかな舞台となり、価値も高い。  

 ナナモはタカヤマとサクラギの本当の実力がどれほどのものか分からなかったが、タケチは二人が個人戦でもかなり上位に食い込めると考えているので、その機会を奪うことは出来ないと考えているのかもしれなかった。

「主将にお任せします」と、丁寧な標準語でタカヤマは答えた。

 ナナモは二人へ視線を映したが、サクラギもうなずくだけで自分の意見を述べなかった。ナナモはどうして自分の意見をはっきり言わないのかと、特にタカヤマの剣道に対する姿勢から不思議だった。しかし、きっとそのようなことなどタケチは知っているはずだ。それでも、タケチは頷くだけで、もう少ししたら前期試験が始まるが、学問と両立は可能だから、それに武道はおのれに打ち勝つための術だから、頑張れと、タケチらしからぬ鼓舞でその場を去って行った。

 ナナモは急に緊張の糸がほどけたようで身体が綿菓子のようにふわりと軽くなったが、タカヤマとサクラギは先ほどよりも顔を強張らせていた。


 四人そろって練習終わりにお茶するなんて初めての事だった。県庁所在地ではない地方の小都市の杵築の地にファストフードの店やコーヒーのチェーン店が多くあるわけではなかったが、大学の食堂へいくのは味気なかったので、それでも本格カレーを売りにしている割には学生には良心的な値段で提供してくれる大学周辺にある数少ない呼び鈴がカラカラと鳴る、カウンター席と少し色褪せているがファミレスの様な席が配置されているレトロな喫茶店に入った。大学に近いこともあって、食堂同様に、面識のある大学の教官か学生が来店することもあったが、其の日は知り合いに会うことはなかったし、客も少なかった。

 タカヤマは練習終わりということもあって喫茶店なのにジョッキでビールをガブ飲みしたがっている様だったが、フジオカとサクラギは二十歳ではないし、二人は入店するなり、この店のチーズケーキは最高なのと、既に何度も来ていてカレー以外もリサーチ済みという顔でアイスコーヒーとともに注文していたので、さすがにチーズケーキを頼むことはなかったが、ナナモとともにアイスコーヒーだけを注文した。

 さすがに喫茶店だ。当たり前だがクーラーが効いている。だからもはや汗は一滴も出て行かない。それでもナナモは、セルフサービスではなく注文を取りに来るこのような喫茶店で出されるガラスコップに入った水を一気に飲み干すと、サービスとしてテーブルの上に置かれたコーヒーポット様のステンレス製の容器に入った氷水を何度か知らず知らずのうちにコップに注いでいた。

「タカヤマ君、主将にはああ言っていたけど本心はどうなの?」

 サクラギがチーズケーキを一切れ頬張りやっぱりおいしいわねと頷いてから言った。ナナモもそのことが気になっていたので、試合か、何年ぶりかなと、サクラギと同じように一切れ口の中に入れた後頬を緩ませているフジオカをスルーして、聞き耳を立てた。

「サクラギこそどうなんや」

 タカヤマは同級生すべてに年齢や男女に関係なく、苗字だけで相手を呼んでいた。本来ならナナモこそがそうすべきなのに、サクラギにナナモはまだサクラギさんと呼んでいた。

「女子部員は五名だけだから、私に選択権はないわ」

「先鋒を棄権して四人で団体戦に出場することだってできるやろう」

タカヤマは冷静に言った。

「そうね。でも、先輩たちはやっぱり団体戦への思いが強いから、私が個人戦に出るって言えないわよ」

「サクラギはやはり個人戦にでたいんか?」

 サクラギはきりっとした瞳を一瞬タカヤマに向けたようだったが、タカヤマの問いには答えなかった。二人の間には気まずい空気が漂っているというのは誰にでもわかることだった。

 ナナモは個人戦のことは想像がつくが、団体戦をどのようなルールで戦うのかまるで知らなかったし、「センポウ」って確かタカヤマは言っていたようだが、その意味も分からなかったので、二人の間に入ろうとしないフジオカに小声で尋ねた。

「僕もずいぶん昔だから分からないんですが、小岩先輩に少し尋ねたいことがあったので、だいたいなら教えられると思うんですが…」と、ナナモより小声で説明してくれた。

 フジオカは最初いつものように丁寧な言葉づかいで説明していたが、ナナモがいちいち話を止めて質問してくるので、なかなか先に進まないことにイライラし出していた。ナナモはわからないから尋ねただけであったが、きっとその中には常識的な些細な質問も含まれていたのかもしれない。

それでもフジオカはロンドンに居たナナモなら仕方がないのかもしれないと思ってくれたのか、感情を高ぶらせることはなかった。

 大学での団体戦は普通七人制で行われることが多いようだが、やはり時間の問題と部員の問題で五人制を採用するようになったらしい。センポウとオオヤマが言っていたのは、五人制でそれぞれの選手の名称で、出場順に一番手を先鋒センポウ、二番手を次鋒ジホウ、三番手を中堅チュウケン、四番手を副将フクショウ、五番手を大将タイショウという。五番勝負だと先に三番勝てばよいので、もし、三連敗したら、副将、大将が出場する前に試合は終わってしまうが、医学部の特別ルールで試合として負けは決まっていても試合だけはすることになっているらしい。おそらく個人戦との両立が出来ないからだろうし、順位を決める時に役立つことがあるかららしい。

 試合時間は五分で三本勝負。二本先に決まり手を打ち込めば当然勝ちになるが、時間内に相手を上回っていれば、二本とらなくても勝ちになる。しかし、時間内にお互いが一本も取れなければ引き分けになる。

 すべての人が引き分けだったらと、ナナモが尋ねると、そういうことはまれだけど、一本を取った本数が多い方が勝ちになるし、同数の勝ち数なら、決定戦としてあらかじめ決められた代表が時間無制限で一本取るまで試合を続けるんだと答えてくれた。

 ナナモはフジオカがナナモの質問を遮ってそれだけ一気に説明した後に、「でも、それはルールブックにきちんと書いてありますから」と、もう質問しないでくださいともう誰にも何も入れさせないとお椀に蓋をしてしまったので、ナナモはさあこれからという質問の嵐を自ら蹴散らすしかなかった。

 それでも、「武道なのにルールなんだ」と、フジオカに気を使って呟くように小声で言ったはずなのに、他の三人には、聞こえたようで、フジオカはあきれ顔だったが、あとの二人はそれまでの緊張がナナモの一言で緩和されたのか、思わず頬を緩め、声には出ていなかったが、笑みをこぼしていた。

「タカヤマは、サクラギさんと同じで個人戦に出たいのかい?」

 ナナモは二人の表情を見て、改めてタカヤマに尋ねた。

「確かに団体戦はチームが負けたらたとえ俺が勝ったとしてもそれで試合は終わってしまうし、以後の試合に出られへんようになる。それも、相手が凄腕の剣士なら一回しか戦う機会が与えられへんかっても満足できるかもしれへんけど、もし、実力差がありすぎて俺が直ぐに勝ったり負けたりしたら、悔いが残るかもしれへん。それに、剣道というか武道はあくまで個人と個人の戦いやし、さっき言ったけど実力差があって、すぐに負けたら、自分がどれほどのレベルかはわからへんようになるやろ」

「自分の実力を測るんだったら、別に医学部の大会じゃなくて、社会人も参加する大会に出場した方が良いんじゃないのかい?」

 ナナモは尋ねた。

「そうかもしれへん。けど、医学部の大会なんや。その中で自分がどの程度の実力なのか知りたいし、どれだけ医学部以外の人達と実力が異なるのかを知りたいからな」

「どうしてそんなに医学部の大会にこだわるんだい」

 フジオカがナナモを制するように尋ねた。

「医者だからって、剣道の実力が低いとは必ずしも言われへんというこっちゃ」

 タカヤマのわかりにくい言葉尻にそれでもサクラギは黙って頷いていた。

「だったらタカヤマも個人戦に出たいのかい?」

 ナナモが尋ねた。

「自分が全国の医学部の中で剣士としてどれほどの実力があるかを知りたいとは思うけど、やっぱり俺の本心から言えば団体戦に出たいと思ってる」

 タカヤマは重い口をやっと開いた。

「でも、タカヤマはさっきすぐに勝負がつくかもしれないからって、あまり団体戦に乗り気な言い方じゃあなかったようにも思ったんだけど」

 ナナモはタカヤマの矛盾を指摘した。

「そうや、でもな、なんで個人対個人が対する剣道に団体戦があると思う?それに団体戦の方が個人戦で勝ち抜いて全国の医学部で一番強い剣士よりも、団体戦の五人の剣士の方が皆になぜ讃えられのかわかるか?」

 ナナモは答えられなかった。ちらと横目でフジオカの方を見たが、フジオカも小さく首を横に振っていた。

「「和」の精神なのよ」

 サクラギがぽつりとつぶやいた。ナナモはその言葉に思わず反応して溜息どころか嘔気を覚えた。きっとナナモの顔からは精気が急速に失われていったであろうが、他の三人には伝わっていないようだ。

「たまたま同じ大学の医学生が剣道をするために集まった。面識がないし、性格も違うし、もういい大人なのよ。それなのに、医学部だけの大会かもしれないけど、団体戦で勝とうと皆が個々に努力して全体のレベルを上げて試合に臨もうとしているわ。その事に意味があると思うのよ」

 サクラギは話しを続けた。

「意味?」

 何も言わないナナモに代わってフジオカが尋ねた。

「そう。私たちは将来医師になるの。医師免許は個人に与えられるけど、医師は全ての病気が最初から診られるわけじゃないでしょう。先輩に教わりながら、時にはチームを組んで病気に立ち向かう。だからね、そういう意味で団体戦に重きを置こうとしているのよ」

 サクラギは同級生なのにまるで小学生に諭すように言った。

「サクラギもきっと個人戦に出たいと思っているはずや。女子の剣道部員の事を俺が何かと言うのはどうかと思うし、これは俺が勝手に思てることやからサクラギは答えへんでもええんやけど、他の女子部員と剣道に対する思いに差があるんとちがうかなあって思うんや」

 何か言おうとしていたサクラギをタカヤマは黙って目力で制してから言葉を続けた。

「俺は今の主将の剣道に向き合う姿勢に共感してる。他の部員も同じや。だから、まだ数か月しか練習に参加していない俺よりも主将について練習してきた先輩たちが団体戦に出ればいいと思っているんや」

「でも、主将も最後の大会だし、だから実力者のタカヤマさんに団体戦に出場してほしいと思っているんじゃないのかな」

 フジオカが尋ねた。

「もしそうなら、俺たち新入生の意見なんか聞かへんやろ」

「それはタケチさんの人徳というか…」

 タカヤマの目力は勝負師としての非情さを裏付けつるものだった。

「ねえ、ナナモ君、今までの話しを聞いてどう思う?」

 なにか言いたけだったサクラギはタカヤマではなく急に黙りこくったままのナナモに尋ねた。ナナモは冷汗こそ出ていなかったが、間違いなくまだ青白い顔をしていた。

「剣道の事はキミたちよりわからないから…」

 ナナモは弱弱しい声でそれだけ言うとわざと視線を外した。

「剣道のことじゃないわ。団体戦と個人戦のことよ。こんなこと言って気を悪くしないでね、ナナモ君は長くロンドンに居たんでしょう。「和」の精神って、ある意味日本特有だからナナモ君はその事をどう思うのかなって」

 サクラギは自分の強い思いを確かめたくて尋ねたのだろう。しかし、ナナモにとってはその事はどうでも良いというか分からなかった。ただし、ナナモはサクラギの言うようにロンドンに中学、高校と一番多感な時期に居たが、叔母の影響もあってか、日本的なことを知らないということはない。

 特に「和」については、ナナモには特別な思いがある。しかし、この場でその事を言うべきではないし、きっとわかってくれないだろうと思った。

 ナナモは「和」のことは別にして少し遠くから自分の考えを言ってみようと思った。そのことが身体中を締め付けていた過去の呪縛を少しずつ緩ませてくれそうに思えた。

「ヨーロッパ、特にフランスではフェンシングが盛んで、個人戦が主だと思うんだけど、団体戦もあるからね。もしかしたら三銃士の影響かもしれないけど、欧米の人がまったくチームワークを軽んじているということはないよ。だから、個人で優勝しても団体で優勝しても同じように喜んでいると僕には映ったな。

 ただ、だからと言って彼らがチームメートに気を使って何も言わないということはないし、先輩であろうが後輩であろうが個人の意見は皆はっきりと言う。それは権利だから。自分の意見を言うことは自由だと思っている。でもね、自由はフェアーな考えに基づいているから、自分勝手に皆がしていいとは思ってはいない。きっと、自由を得るために彼らは血を流してきたという歴史があるからだと思うんだ。サクラギさんの答えになっているかどうかわからないんだけど、そういう歴史が個人戦に対しても団体戦対してもその根底にあるんじゃないかって思うんだ」

 ナナモはなぜかすんなりと話していた。ただし、言ったのはナナモだがナナモ自身そのことに違和感がある。あの時、友に自分の意見を強く言ったのに「和」に激しく跳ね返されたのだ。

 ナナモはまた気分が悪くなった。

「ねえ、男女混合チームってどうなんだろう?ほら、柔道はそういうチーム戦があるだろう」

 きっとフジオカはサクラギに向かって気を利かして言ったのだろうが、きっと剣道がそうなるには、時代はもはやそうすべきだとわかっていても、国際化した柔道に比べて、まだまだ時間がかかるだろうと、二人が何も言わないことから、何となく想像がついた。

 ナナモはフジオカの言葉を最後に黙ってしまった四人の見えざる輪の中で一人金縛りにあったかのように身体が動かなくなっていた。そして、まだ、時々ナナモに襲ってくるあのロンドンに立つ前の感情の喪失が完全に消えてしまっていないことに失望した。でもあの時とは違う。この輪から自分自身の力だけで出ることが出来るはずだ。

「四人で新人戦に出ない?」

 ナナモは思わず口にしていた。

「何を言いだすんや」

 あっけにとられている三人を代表して、タカヤマが辛うじて反応した。

「だって、二度と出られないんだろう。それなのに、個人戦か団体戦に出たら新人戦に出られないっておかしいじゃないか」

「タカヤマさんやサクラギさんは別に新人戦に出たいとは思っていないとおもうよ」

「それじゃあ、フジオカ君は個人戦や団体戦に出たくないのかい?」

 フジオカは何か言おうとしたが、すぐに言葉を飲み込んだ。

「主将もここに居る皆も僕が新人戦にでることになんら不思議だと思っていないだろう。でも、今の話を聞いて、団体戦や個人戦に出たくなった」

 タカヤマもサクラギもあっという顔をしている。

「だいたい、新人戦なのに新人が出られないなんてフェアーじゃないし」

 いつしか俄然元気が出て来たナナモは当たり前だがもはや中学生ではなく医学生となった成人のナナモに戻っていた。

「でも。規則があるだろう」

 黙っている二人を尻目にフジオカが言った。

「そうだね。でも、規則を破らないと「和」の呪縛から抜け出せない」

「そんなことできへんやろ。もう、大会まで一カ月もないんやから」

「別に変らなかったとしてもいいんだよ。でも、次の世代のためには一石を投じられるだろう。なあ、そうだろうサクラギさん」

 ナナモはある案を思いついたが、それが実現するかどうかはあの男に掛かっている。そう思った。


 ナナモは翌日イチロウにリモートで相談した。

「問題は各大学がどう考えているかなんだけど」

「えっ、皆、新人戦に出たいと思っているんじゃないの」

 イチロウは相談を受けたからにはその前提があるものだと思っている様だった。

「じゃあ、まず、各大学の剣道部の新人にダイレクトメールを送ってみたら」

「どんな?」

「新人戦に出たくありませんかって軽いアンケートを作って送信してみるんだよ。きっと、それなりの思いを持っている学生からは返事が来るはずだ。だからそれを頼りにリモートで会議をしながら今までの慣習をもう一度協議しなおすことだってできるだろう」

「うーん、それじゃあ時間がかかるよね。大会は一か月後なんだよ」

「一か月後!」

 イチロウはあきれたのかどうして初めにその事を言ってくれなかったのだと、イチロウにしては語気を荒げた。

 それでも、イチロウは何かを考えているようだったが、ナナモが「まさか、VRの世界に引きずり込んで仮想の大会を開くんじゃないだろうね」と言うと、「新人の練習風景を撮影して画像に取り込んでからそれを分析して実力を測れば、アバター同士で戦わせることができるからね」と、イチロウは悪びれることなく言った。

「僕も一応新人戦に出るんだよ。僕を二度とVRの世界に連れていかないって、イチロウは僕と約束してくれたよね」

 ナナモが言うと、イチロウはごめんと頭を掻く仕草をした。

「でもイチロウが一か月足らずですべての大学に行くなんて出来ないだろう」

 ナナモは一応興味があるからと、尋ねた。

「僕は東京に居るだけだよ。でも、全国には僕の協力者がいるから、多分、大学のコンピューターをちょっと使わせてもらわないといけないけど、充分間に合うと思うよ」

イチロウは不気味な笑いを添えて言った。ナナモは以前よりパワーアップしていそうに思えるイチロウに対してモニター越しなのに、思わず身体を少し引いていた。

「新人戦にこだわるんだったら、別日にすればいいんじゃないのかい。あくまで各大学がやる気になったらという前提だけど」

 イチロウが言った

「費用と会場はどうするんだい?」とナナモは尋ねた。

イチロウは、ナナモが寮の運営について以前話したことを覚えていたのか、医者だったら多少はお金にゆとりがあるよね。もし、今まで新人戦がなくて辛い思いをしてきた先輩がいたら、きっと援助してくれると思うし、その方法はクラウド形式が良いんじゃないかと、ナナモはクラウド?とピンと来なかったが、それなりの説明を受け入れるしかなかった。それに剣道の会場ならそれほど大きくなくてもいいはずだし、民間の剣道場や体育館も、検索すれば空いている所を安く借りられることだってできるからと、イチロウは案外楽観的だった。

「医学部中央剣道学生連盟っていう組織があるから、その組織にお伺いをかけないといけないな」

 ナナモは独り言のように呟いた。

「やけに消極的だな。ナナモは本当にやる気があるのかい?」

 イチロウは、ナナモが僕は慎重なだけだと言い返しても無視して、

「その医学部中央剣道連盟がルールを決めたんだろう。だったら、お伺いを立てても無駄じゃないのかい?」と、やけに冷たかった。

「じゃあ、どうしたらいいんだい?」

「別組織を立ち上げればいいじゃないか?」

 イチロウは即答だった。しかし、ナナモはすぐにああとは同意できなかった。

「さっき提案したリモート会議の延長でネットワークを作れば簡単だぜ」

 イチロウは黙っているナナモをせかすように言葉を継いだ。

 ナナモは、一瞬、心が動きかけたが、それは「和」に対する挑戦になる。ナナモは、いつもならイチロウの提案にすぐにトライしてみるよと、乗ってみるのに、そう言えなかった。

 ナナモはせっかく、イチロウに手助けしてもらったら何とかなるとタカヤマの前でひとり黙ってほくそ笑んでいたが、別にイチロウのせいではないのだが、やはり簡単ではないと思い直していた。

「ありがとう。参考になったよ」

 ナナモは、手伝ってくれるかい、とはやはり言えなかった。

「剣道には古からの日本独特の伝統があるし、古風な世界だから俺の様なコンピューターオタクには却って分厚い壁かもしれないな」

 リモートなのでナナモの表情に何かを感じたのかもしれない。イチロウはそれ以上ナナモに良い案を持ちかけて来なかった。

「でも珍しいな。ナナモがそんなことをしようと思ったなんて。俺は、ナナモは前には出ない性格だし、皆をまとめようとなんかしないように思っていたんだけど。やっぱり医学部に行ったからなのかなあ」

 ナナモはいやいやと大きく手を振りながら、イチロウの言う通りだよと一呼吸置いてから、「僕は剣道を始めたばかりだし、友達に頼もうと思っている」と答えた。

「友達?」

 イチロウはまた意外そうな顔をしていたが、ナナモは、今度は否定しなかった。

「ああ、大学の剣道部で親しくなったんだけど、同じ年齢だったんで仲良くというか、なんか気が合って。でも、僕と違って、彼は剣道一筋でインターハイにも出ている有名人だから、彼に任せようと思っている。その方がいいだろう」

 ナナモから先ほどまでの相談という緊張がほぐれて来る。だからかもしれないが、今はそれどころじゃないもう一つのことが始まったんだと、イチロウに言いそうになった。しかし、寮のWiFiからは守られていないのだという記憶が急に遮って、思いとどまった。

「どうかした?」

 イチロウはまるでモニターから飛び出してきそうな表情で心配そうに見つめて来たが、ナナモはまた今度は小さくではあったが手を振りながら、別に。大丈夫だと、少し早口で答えた。

「ところで夏休みは東京に帰って来るんだろう」と、イチロウの言葉に、夏休み?そう言えばカタスクニに夏休みがあるのだろうかと、ナナモはこのままだったらやはりイチロウに全てを話してしまいそうだったので、慌てて、また連絡するよ。ありがとうとイチロウに告げるとリモートを終えた。

 どうしよう?でも言い出しっぺは僕だし。ナナモはいてもたってもいられなくなって慌てて寮の外に出た。むっとする湿気がナナモにへばりついてきたが、ナメクジに身体中を這い巡らされているよりましだと思った。

 しとしとと雨模様で、薄っぺらいが真黒な雲に覆われているのか月は全く見えなかった。

 あのとき、突然、思いもよらず「和」に心を乱されたナナモだったが、この天気ならカタスクニの授業はない。しばらく剣道に打ち込める。なるようになるさ。と、ナナモは持ち上げられない夜空に向かって思いっきり背を伸ばして深呼吸した。


 ナナモの杞憂はやはり独りよがりだったのかもしれない。タカヤマは最初嫌がっていたが、最後の御奉公だからと主将のタケチが援護射撃をするからと言われて、大会の運営について自ら動き出そうとしていた。ナナモはイチロウからのアドバイスをダメもとでタカヤマに伝えようとしたが、タカヤマの気迫に今は話さない方が良いだろうと思いとどまった。

 タカヤマは極めてアナログ人間だ。それにこと剣道については曲がったことが嫌いな様で、この時期に大会本部に意見書を出すなんて前代未聞の事だったが、ナナモと違って真正面から踏み込んでいくという姿勢を貫こうとした。

 医学部学生剣道連盟はなぜかすぐに却下せず、前向きに検討させて頂きますという返答だったので、よほどの熱意がこもった意見書だったのかもしれないと、ナナモとフジオカは驚きを隠しきれなかった。

 ただし、タカヤマとサクラギは、これまで一度も前向きに検討したことなんかないと、具体的な回答が一切なかったことに失望していたし、何分今年の大会までは時間が余りにも少なすぎたことと、大学によっては煩わしいことに関わりたくないという学生がやはりいたことと、なんといっても医学部の剣道大会であったとしても中央の剣道協会を無視することは出来ないので、と、前向きに検討どころか後ろ向きの具体的な言い訳が添えられていたことに、剣の道は山のように高く海のように深いと、詩人のようなため息が珍しく漏れていた。

 結局今年の夏の大会はいつも通りの開催になった。

 皆が予想していた結果とはいえ、残念だったが、タカヤマはまだチャンスがないわけではないと、タケチが後押ししてくれていたという事実と、次の世代に繋がればという言葉が、イチロウの言うように別の機会に新人戦だけをもう一度行おうと、導火線に火をつけたのか、いつもは冷静なのに漫画の主人公のようにめらめらと瞳を燃え上がらせていた。

 結局ナナモは新人戦に、そしてタカヤマは個人戦に、サクラギは団体戦にエントリーすることになった。ただ、ダークホース的にフジオカが新人戦ではなく個人戦にエントリーしたことには他の三人が驚いた。

 そして、その事がフジオカ君をフジオカと、サクラギさんをサクラギと呼ぶきっかけとなった。ただし、フジオカはナナモをナナモとは呼ばない。もちろんクニツさんでもナナモさんでもなく、なぜかナナさんと呼ぶようになった。ナナモははじめの頃はこそばゆい気持ちだったが、其のうち慣れてきたというか仕方がないかと諦めた。そして、サクラギはオオヤマもフジオカもナナモにも相変わらず「君」づけしていた。

 だからではないが、あれから時々、四人で集まるようになった。練習後に少しお茶する程度のことが多かったが、たまにはと、寮生であるナナモはヌノさんに断りを入れてから食事に出かけた。

食事と言っても学生が行くところは居酒屋程度だ。ナナモは居酒屋をパブのように感じ初めてから心が和んだ。もちろんフジオカとサクラギは二十歳ではないので、タカヤマが甘い言葉で誘ってもアルコール類を決して口にしなかったし、真面目というのではなくどうやら好奇心もわかないようで、その代わり、今までの環境がそうさせていたのかもしれないが、氷の一杯入ったジョッキのウーロン茶で、サクラギまでもが体力を付けないとと気にせずカロリーの高そうな一品料理を頼んでいた。

「割り勘やから」と、タカヤマは居酒屋では料理にこだわらずにしきりにお酒を頼んでいたし、フジオカとサクラギは少し値の張るメニューにも触手を伸ばしていた。ナナモはそんな三人の中で、財布の中身だけを気にしていた。

「この時期の京都はとても暑いし、剣道場じゃあなくて体育館で大会は開催されるみたいだけど、エアコンが付いているらしいわよ」

「ホンマか?でも焼石に水かもしれへんなあ」

 サクラギの情報に素早く否定したのはタカヤマだった。

「エアコンがあるのにどうしてそんなこと言うんだい」

 ナナモは体育館と言っても完全密閉された空間ではないからだとか、エアコンっていっても学生が借りる体育館だから優れた空調システムなんか期待できないと、説明されるのではないかと思った。

「だって京都だし」

 フジオカがうんうんと頷きながら言った。ナナモは京都だからどうなんだと言う顔をしていたのか、「おい、ナナモ、一応聞くけど、京都に行ったことあるよな?」と、タカヤマが尋ねて来た。

 ナナモはしばらく間を置いてから、多分、いや、ないと答えた。古の街なので、ロンドンっ子がオックスフォード周辺を旅するように、ひよっとしたら子供の時に家族旅行をしたのかもしれない。でも、記憶がないナナモにはその事を確かめる術はなかった。そして、そんなことを知らない三人は、まさかという、ほぼ同じような表情で驚いていた。

 ナナモは京都が日本のどのあたりに位置するか知らないわけではない。だからタカヤマが関西人だから、京都の事を知っていても不思議ではないと思った。しかし、フジオカは静岡でサクラギは愛知出身だ。明らかに関西人ではない。でもどうして二人は驚いているのだろうか?もしかしたらすべての日本人はどこに住んでいようが一度は京都に行ったことがあるのだろうか?でも旅館であれ、ホテルであれ、今どきは真夏でさえエアコンで快適にすごせるはずだ。

「ナナモ君って、もしかして修学旅行で京都に行ったことがないの?」

サクラギは剣道に関すること以外はおしとやかだ。

「修学旅行?」

ナナモはどこかで聞いたことがある言葉の様に思えたが分からなかった。

「ナナモはロンドンに居たからなあ」

 タカヤマが二人に向かって呟くと、その言葉にうんうんと三人はほぼ同じような表情で頷いていた。

 修学旅行ってと、ナナモは携帯を取り出して検索してみる。

(修学旅行とは小学生と中学生と高校のどれかの期間またはその全ての期間で、各々の学校が目的地を定め、学年全員が出かける集団教育という名目で行われる宿泊を伴う旅行で学校行事のひとつである)

 短期の寄宿舎生活の様なものかもしれないと、ナナモはさらに詳しく書かれているその解説文にしばらく見入ってしまっていた。

(関東の学校は特に京都や奈良に行くことが多い)

 確かにそう書かれていた。

「わかりました?」

 フジオカがナナモのスマホを覗き見ながら尋ねて来た。ナナモはああ、何となくと、答えた。

「今はどうかわからなし、僕らが特別だったのかもしれないですけど、小学生の時に行った時は、梅雨時だったんです」

「雨が多い時期に旅行に行ったのかい?」

ナナモは不思議だった。

「だから、観光ではなくて集団で宿泊を伴う旅行が目的ですから。それに、観光シーズンは人が多いから避けられるんです。観光客が少ないと先生が引率しやすいし、なんてったって雨でも移動はほとんどバスですから」

「それで面白い?」

「どうですかね。ただ、僕は一人っ子ですから、雑魚寝っていうか大きな部屋で皆で一緒に寝たり、食事を摂ったりできたから案外楽しかったです。ただ、寝る時も起きている時も一日中蒸し暑かったんで、それだけが嫌な思い出かもしれないですけど」

 フジオカは珍しくやんわりと前に出て話した。

「タカヤマも修学旅行に京都へ行ったのかい?」

 ナナモはもしかしてと尋ねた。

「行くわけないやろ。でも、小学生の遠足では何回か行ったかな。でも、さすがに梅雨の時期には行かへんかったなあ」

「どうして?」

「だって、ここより蒸し暑くて人が多いんやぞ」

 タカヤマはフジオカの思い出をぶち壊すように言った。しかし、フジオカは嫌な顔一つせずにそうそうと頷いていた。

 タカヤマは、京都は周囲を山で囲まれた盆地やから、この時期は風通しが悪いどころか熱を底に貯めるから余計蒸し暑くなるんやと、だから、古い京都の木造の建物にはいろいろ工夫されているはずやと、具体的には説明してくれなかったが、それでも何か京都への思いが含まれている様で、その蒸し暑さを心から嫌がっているという風ではなかった。

「だから、試合は相手と闘うことも大切だけど、蒸し暑さとも戦わないとね」

 道場で道具をつけでゼイゼイと汗まみれになっていたナナモを思い出しているかのよう面持ちでサクラギはそれでもさらりと言った。

「僕にはそんなことより初めての大会というか試合だから、緊張するよ」

「ナナモは一回戦突破がまず一歩やな」

 タカヤマは少し含み笑いを忍ばせて言った。

「だけど新人戦だから、ナナさんのように大学から始めた人がほとんどだと思うんだけど。だから、ナナさんも勝機は十分ありますよ」

 フジオカは自分も久しぶりだからと、鼓舞する気持ちで言ったのかもしれない。

「そうかな、新人戦に経験者が出ないってことはないし、もし、かなりの実力者なら勝ち進んでいくのは体力的にはしんどいけど、ぶっちぎりで優勝出来るかもしれへんからなあ。そういうやつにナナモが当たったら秒殺やろな。せっかく道具を付けて京都の蒸し暑さだけでも味わおうと思ってたのにそれすら体験できへんかもしれへん」

タカヤマは珍しく絡んできた。

「どうしてタカヤマ君はそんな言い方するの!」

 たまらずサクラギが言った。

「勝ち負けも大事やけどナナモにはもっとなんか大きな目標に向かってほしいからや」

 タカヤマから含み笑いは消えた。

「どういうこと?」

「新人戦は確かに一度しかあらへん。それにナナモにとっては記念すべき剣道のデビュー戦や。そやけど実力以上の結果は出えへん。そやから、これからのナナモにはどういう結果になろうとも、うじうじ色々なことを考えんと、試合まで一生懸命練習してほしいと俺は思ってるんや」

 タカヤマが一瞬タケチのように見えた。しかし、タカヤマの言う通りかもしれないとナナモは思った。

「大学の勉強とおなじかもしれないわね」

「急にどうしたんや」

 話しの腰を折られたように思ったのか、タカヤマはそれでもサクラギに尋ねた。

「だって大会前に学年末試験があるでしょう」

 前期試験が夏休み前に行われる。夏休み明けに行われるよりはましだが、結果は夏休み明けに発表される。試験に不合格な学生は夏休み明けに再試験が行われるため、何となく試験の出来が悪かったと想像する学生は、夏休中も勉強しなければならない。多少休み期間が短縮されようが発表と再試験を行ってから夏休みを過ごせるようにしてくれたらどんなに晴れ晴れしい気分で過ごせるのにといくら学生たちが思っても、大学は一切受け付けなかった。再試験があるだけでも感謝すべきだと、言葉にはしないがそう考えている節さえある。

「医学って年々新しいことが増えて来るし、膨大な知識を吸収しないといけないから、医学という道に入って来た者たちへの足枷が必要だと考えているのかもしれないわね」

 サクラギは言った。

「常に学問の事を考えろか」

 タカヤマの呟きは常に剣道のことを考えよと言っている様にナナモには聞こえた。

「最大の難関は英語の試験かな」

 英語の論文読解とリスニングとライティングと、特にこの大学は語学教育に重きを置いていた。

「ナナモは英語が得意やからええなあ」

「立場が逆になるかもしれないわね」

 サクラギは微笑みながら言った。

「英語だったら僕は皆に協力出来るよ。だから、本試験で一発合格して、再試験のことなんて考えないで、大会に集中しようよ」

 四人はしばらくつまらない話で盛り上がっていた。その新しい輪に中心はいなかったからか、ナナモはいつしか古い「和」の事を忘れていた。

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