(11)カタスクニからのリモート授業
「寮にある神棚に毎朝参っているらしいやん。何か悩み事でもあるんか?小岩さんが気にしてたで」
ナナモは、タカヤマに呼び出されて居酒屋に来ていた。寮で夕食を済ませたことを説明したが、寮生やからな、知ってるわ、でも俺はまだやから、付き合えよと、一見強引そうにも思えるが、寮生というナナモの立場に気を使ってくれていることが妙に気に入って、イエスと言った。
やはり小岩はナナモが朝参拝していることを知っていたのだ。ナナモはしかし驚かなかった。閉ざされた空間で、それも皆が集まる共有スペースで、ナナモが誰にも知られず何らかの行動を起こすなんて透明人間以外あり得ない。そして、もし小岩が知っているとすれば、寮生のすべてが知っていることであり、もちろん寮母のヌノさんも知っていることになる。
「実は、医学部に入りたくて近くの神社にお参りに行っていたんだ。そうしたら合格したから。それからね、感謝の意味も含めて何となく…」
ナナモは感謝という言葉を言った時だけほっぺをつねられたような痛みが走った。しかし、嘘ではない。生きていること、いや、生かされたことへの感謝はナナモの原点なのだ。
「ナナモってホンマにロンドンにいたんか?」
ナナモが流暢な英語を話すことは、クラスメートのほぼすべてが知っている。
しかし、ナナモが案外古風な考えを持っていることまでは、まだそれほど知られていない。確かにハーフで両親のどちらかが家で英語を日常会話としていれば、ロンドンに住んでいなくとも英語を流暢に話すことは出来るし、もしロンドンに住んでいたとしたら、日本よりイギリスの文化や習慣に感化されているはずではないかと思ってしまう。だからタカヤマが尋ねて来たのも無理はない。
「でも、どうしてそんなことを聞くんだい?」
ナナモは一瞬の痛みを自らひっそりと噛みしめてからタカヤマに尋ねた。
「だって、ナナモ、しんどそうやから。それやのに早起きしてるって聞いたから、大丈夫なんかなあと思って…」
タカヤマは大阪人特有の粘っこくずうずうしい所があまりない。それでもナナモの視線を外して言うところはクールというより、優しさを素直に表現できないという照れ隠しかもしれない。
確かにナナモは忙しい。朝早く起きて神棚に参拝したあとに、朝食までの間に社会人向けの英会話のショートレクチャーを行う。それから、学校へ行くと、一日中講義に時間を割いた後、道場で汗をしこたま掻いてから寮に戻り、夕食を摂ってから、大学での宿題や日によっては英会話の先生として、コンタクトを付けて長時間見知らぬカフェへ出かける。その上、最近では初心者のナナモのためにタカヤマが個人的に練習に付き合ってくれている。そして、何よりも、始まったもうひとつのリモートが…。
「ちゃんと寝ているし、いつも寮母さんが栄養満点な食事を作ってくれているからね。それに、今夜もタカヤマにこうやって付き合っているだろう」
ナナモはタカヤマに悟られないように口調を変えずに言ったつもりだが、タカヤマはナナモの言葉を鵜呑みにはしていないようだ。おそらく小岩から何がしかのことは言われたのかもしれないが、それ以前にナナモの変化に気が付いていたに違いない。それは顔貌かもしれないし、たわいもない所作かもしれないし、言葉使いかもしれない。
「それならええんやけどな」
ナナモは時折垣間見るタカヤマの鋭い眼光を受け流しながらも、そのことに気が付いたナナモを感じて急にスイッチを切って日常に戻るタカヤマの素早さに、もはや友達になっているはずなのに、思わずのけぞりそうな殺気を覚えた。
タカヤマはイチロウとは違う。ナナモは屈託のない表情で焼き鳥をあてにビールを流し込むタカヤマを見てそう思った。
イチロウはコンピューターを用いて、ナナモを仮想空間に連れて行く。そこでは視覚はもちろんだが、視覚を通して精神を制御される。ただし、仮想空間から再び現実に戻ると、イチロウはナナモと同じ現実を何食わぬ顔で横並びに歩いてくれる。だからナナモはイチロウがコンピューターに秀でていて、ナナモには全く持ち合わせていない才能の持ち主であることに尊敬しながらも、気楽に同じ空気を吸うことが出来た。
一方、タカヤマは反対にナナモを仮想空間には連れては行かない。そういうハイテクの世界とは無縁であり、ナナモが知っている範囲では剣道以外の趣味はなさそうだ。だから、ナナモとは常に現実の世界の視覚だけを共有する。それに同じ医学部の学生で、今の所、彼が学問的に飛びぬけて才能を発揮して、ナナモが嫉妬するということもない。だから、何食わぬ顔で横並びに歩いてくれる現実は現実であるはずなのだ。それなのに、なぜかナナモはそうとは思わない。いや、タカヤマと居ると時折ナナモの精神だけが仮想世界に連れて行かれそうな錯覚を覚える。だからと言ってタカヤマと一緒にいて息が詰まるとか、逃げ出したいとか、バカな話題で盛り上がらないということはない。むしろその反対の感情や時間が断然多いのだ。
もしかしてタカヤマは、武道の達人だけあって、ただならぬ心眼の持ち主なのかもしれない。そしてその心眼からは、仮想現実ではないが、視覚ではないがナナモを、「気」という、カミに近しい世界に連れて行って制御というほど強制的ではないが、ナナモの精神に何らかの刺激を与えてくるのかもしれない。
小岩から何かを吹き込まれ何かを探るように命じられたとしても、タカヤマはナナモの事を心配してくれている。その自然に醸し出すほっこりとした現実の感情を、「気」を完全に消したタカヤマの世界の中でナナモは素直に喜ぼうと思った。
実際、ナナモは肉体的にはそれほどキツイ生活を送っているとは思っていなかった。むろん、「あのこと」は、精神的にはナナモに重くのしかかってきていた。だから、反対に気晴らしの思いも兼ねてタカヤマの誘いに乗ったのだ。
「海外旅行に行ったことがないからわからへんのやけど、ロンドンってどういうところなん?」
もはや、ナナモから何かを引き出そうと全く思わなくなったタカヤマは、先ほどロンドンにナナモが本当に住んでいたのかと疑念を持ったことなどすっかり忘れて、ミーハー気分で尋ねて来た。
「タカヤマは大阪の高校に通っていたんだろう。でも、僕は大阪の街を知らない。それと同じことさ」
「とんちか?」
ナナモは早口では話しかけられたので、すぐには、「とんち」という言葉の意味が分からなかった。
「オチはない話だし、面白味もないとおもうんだけど、いいかな」
タカヤマは頷いた。
「東京や大阪のように高いビルや大勢の人や多様な娯楽が渦巻いていても、毎日僕らが何かに関わっていることはなかったし、それが当たり前だと思ったら、別に気にならなくなる。それは、何を認識して何を認識していないかの問題で、場所ではないからなんだよ。どこに居ようが、何をしようが、個人はその事を認識しているという事実だけしか残らない」
「ナナモは、俺がロンドンの事を聞いてきたことは無意味だと言うのかい?」
「そんなことはないさ。ただ、繰り返すようだけど、認識は場所に規定はされないって言いたいんだよ」
ナナモは少し語気を強めた。
「小難しいこと言うんやな」
タカヤマはそれでも邪魔臭そうにナナモを退けなかった。
「今、二人とも杵築という街の医科大学に通っているよね。はっきり言って田舎だ。それに小さい時から住んでいるわけじゃないから、日本なのに、この街の文化っていうか、風習なんかしらないし、話し言葉だって違うだろう。でも二人ともこの街のことは何となくわかるようになってきているし、街の住人として社会に溶け込んでいる。それは、同じ時間で異なった場所には存在できないからなんだ。つまり、自分自身を比較できないからなんだよ」
オオヤマは、今度は合いの手を入れなかった。
「僕達は生きている限り、その時間軸の上で存在している。そして、その時間軸は移動できない。もちろん過去を顧みることは出来るけどその時の思考や感情を丸きり復元させることは出来ないんだ。だから、話は戻るけど、ロンドンってどういうところかと聞かれても、僕にとっては日常を話すだけだし、それ以外の観光についてはスマホで検索した方が早いかもしれない」
ナナモはなぜか一気に話し続けていた。
「それはナナモの考えやろ。俺はそんなナナモの考えを聞きたいんとちゃうんや。ナナモが日常で何をしていたか、その事実をありのまま教えてくれたらそれでいいんや」
タカヤマはナナモのいうことが小難しいとは思っていない。そう顔に書いてある。すなわち十分理解していた。ただし、別に揶揄することはないが、単に押し付けがましい話しが面白くないと思っているだけだ。
「ありのまま?」
「そうや」
ナナモは自分の意見を押し付けようとなんて全く思っていなかったが、タカヤマに言われて初めて気が付いた。そして、それ以上の言葉が出なくなりしばらくタカヤマを見ていた。
「ナナモ、大丈夫か?」
ナナモはタカヤマと今同じ時間に同じ場所に居ることを認識している。しかし、なぜかもう一人のナナモがどこか遠くの場所で同時刻に別なことを認識している様で仕方がなかった。もちろんその場所はロンドンではない。きっとカタスクニでもない。あの苺院で神木のタブレットに向かって講義を受けているまだ無垢なジェームズの揺れる炎かもしれない。
ナナモはあのリモートで言われたことを思い出していた。
「王家の継承者は個人的な感情を引きずってはいけない。それが継承者の美徳である。つまり、感情を殺してなお感情を表現する。自分の意志を見せずに自分の意志を示す。そうしなければならないのです」
ナナモはタカヤマにイチロウにも話していないリモートで受けている講義の事を少し話してみようかと思った。どういう反応を示すか知りたかったからだ。しかし、それはタカヤマを試すことになる。きっと、そうしたナナモの感情から出た言葉は、無意識にイチロウに話していた時と違って、タカヤマには届かないだろう。
それでもナナモは何かありのままの事を話したかった。
「さっきの話なんだけど…」
先ほどのナナモの話を心の中にとどめているのかとどめていないのかわからないような面もちでビールのジョッキを口にするタカヤマに向かってナナモはゆっくりを口を開いた。
「なんのことや」
いきなり話し出したナナモにタカヤマオは戸惑った。
「ロンドンのこと…なんだけど」
「ロンドン?」
「そう、ロンドンの夜空は杵築となんとなく似ているんだよ」
ナナモはあれから毎日のように苺院を訪れてリモートの講義を聞いていたわけではなかった。だから、とても忙しくて寝る暇もないということもなかった。マネキネコは月夜にしかタブレット上で作動してくれない。杵築は厚ぼったい雲で覆われることが多かった。
それでもナナモは何度か苺院を訪れていた。イチロウから送られてきたコンタクトレンズをつけアプリを作動させると、ナナモはアバターであるのにまるでもう一つの現実世界に居るかのような心地よさを感じられた。それに比べて、カミに通じる王家の継承者になるためのカタスクニからのリモート授業は、より幻想的で神秘さ満載なのではないかと期待でわくわくさせておきながら、ナナモが受験のために用いていた合格アプリより、古びた平面的な現実の印象しかもたらせてくれなかった。
「何じゃその顔は?」
ナナモはそれでもツワノモが直接講義してくれるのではないかと妙な緊張感でしばらく胃が縮こまってしまって、キリキリ痛かったのに、実際、初めてデイスプレイに映ったのは、あのアニメ顔のカタリベだった。
「カミ様がお出ましてくださるとでもお思いじゃったのかな」
カタリベはより目じりを上げ、ナナモを睨み付けてきた。
マギー似のカタリベにナナモは別にと、つい言いそうになって、いえ、そうとは思ってはいませんと、これまでカタリベを通して託宣しか伝えられなかったことを踏まえて答えた。ただ、ナナモは王家の継承者であるオホナモチを養成する場所なら、カミ様に通じる方がきっとおられるだろうし、その方は中間の世界に存在しておられたツワモノであると期待していたので、一目でもそのご尊顔を賜りたいと願っていただけだ。
「ところで、リモートで僕は何を習うのですか?」
ナナモは皇家を助けるための王家の養成機関であるのなら、特殊任務を遂行するための戦闘術を習うのではないかと、期待と心配の両極を考えたが、意外にもその授業は、一般的であった。
「国語、算数、理科、社会じゃよ」
カタリベはまるで小学生の学科の様なそのカテゴリーを示した。ただし、国語はカミヨ文字であり、算数は易や星読みであり、理科は薬草と天候であり、そして社会は、日本の風習だった。
それでも、ナナモは実際始まった一方的な授業を聴いているうちに、なかなか終わらないため息で思わず呼吸困難に陥るところだった。
学科が異なれば先生は異なる。大学の講義でも予備校の授業でさえも当たり前だ。それなのに、カタリベはカタリベのままだ。いや、正確に言うと、声は同じなのに、デイスプレイに映る顔を変えてはいた。きっと、カタリベはアバター気分なのだろうが、それにしても幼稚なアニメ顔が多少異なろうが、マギー似だという顔から受ける威圧からの解放感以外の変化はほぼ感じられなかった。
ナナモは授業が始まると、社会を除いて、どこかでそのさわりを教えてもらった記憶が蘇ってきていた。王家の継承者に選ばれるための学校に入りたいがために、あの時はそれなりに勉強していたが、今、リモートであるがこうしてカタスクニで授業を受けることになってしまうと、却って記憶の再起がナナモのやる気を削いでいた。それでいて、もっと激しい、そして、生死を分けた、ワクワクする、使命感で満たされた冒険にナナモが没頭していたような記憶も見え隠れはするものの、全く霧が立ち込めているようにスッキリしないので、なお一層、学科の授業に集中出来なくなることもしばしばだった。
「ナナモ、お前さんは遅れておるんじゃから」
カタリベは、時々喝を入れるように言った。でも、誰から?何から?そして、何時から?と、ナナモが尋ねても全く答えてはくれなかった。
リモート授業は最初ゆっくりと行われていた。しかし、ナナモの様子を見ていたカタリベは、二倍速から今では三倍速のスピードで講義を進めた。少し古臭く威圧的な言葉づかいで話すカタリベの授業を何とか理解しようと聞き取るだけでも大変なのに、授業終わりには必ず授業内容に対してのテストがあったので、今までの様な大あくびを繰り返したり、ちょっとした気のゆるみも全く生じなかったし、授業が終わると疲労困憊だった。
「もう一杯いかがですか?」
そんな授業の合間にアメノが声をかけてくれる。ナナモはきっと頷くだけでハイと大きく声には出せてはいなかっただろう。それでもアメノは、今までのティーカップに注ぎ直すのではなく、新品のような光沢をもつ別のティーカップをわざわざ持ってきてくれて、先ほどとは異なる銘柄の紅茶を芳醇な香りを湯気にまとわらせながら注いでくれた。
カミヨの世界の事柄を学んでいるのに紅茶というアンバランスな喉越しだったが、ナナモは新たな気持ちで精気を満たされ疲れが吹き飛んで行った。
ナナモはその後も何度か高速授業を受け、そして、その度のテストを受けながら、ふと、この記憶は残って行くのだろうかと、疑問に思った。実践を伴っていない。いわば文字の中の思考が、どれほどのものかナナモは受験勉強から遠ざかった今、ひしひしと感じるし、実際工学部で受けていた電子工学基礎理論や基礎物理学も、跡形もなく頭の中から消えていた。
それは医学部に入学してから始まった応用数学にしても同じで、微分積分を使って理解しないといけない医学の専門分野はないように思えた。応用数学は医学統計学には大切だと担当講師の先生は力説していたが、ナナモにはイチロウがいるし、おそらくコンピューターに委ねられる術さえ学べば解決するのではないかと思ってしまってつい瞼が垂れ下がってきてしまうことが度々あった。
「ここで習っていることは僕の記憶として残るのですか?」
ある日、ナナモは思い切ってカタリベに尋ねた。長髪で白髪のあごひげを垂らし、それでいてサングラスをかけた日焼け顔が気に入っているのか、機嫌よく講義に夢中になっていたカタリベは、ナナモに話しの腰をおられたことに癇癪を起し、カミ様の使いでもあることを忘れて、大声で、何じゃあーと、ナナモに向かってサングラスを放り投げて怒鳴った。
ナナモはデイスプレイ越しにサングラスが飛んでこないことをわかっていながらも、カタリベならこういう時だけ三次元の世界を創りあげるような気がして、思わず身構えたが、やはりサングラスはデイスプレイから飛び出してこなかった。
ナナモは思わず目をつぶってしまっていた。そして瞳を開けると、白髪のあごひげ老人からあごひげが無くなっていて、マギーを模したあの本来のカタリベのにやけ顔がまさに今デイスプレイから飛び出さんばかりの迫力で大きく映し出されていた。
「お前さんは我慢が足りないようじゃのう。それにすぐに他のことに注意が移る。これは剣道の素振りと同じで基礎なんじゃよ」
確かにナナモはあれほど剣道に没頭するのだと、寮生としての宿命に覚悟を決めていたのに、いざ練習が始まり、素振りだけの毎日でなかなか道具を使わせてくれないことに腹が立って、思わず退部しようと思ったことが何度かあった。
「またやり直せるとでも思ったんじゃないじゃろうな」
知っていたのか?と、ナナモは思った。やれやれと、たまに人間らしい表情を見せるカタリベは全てお見通しだった。
「仕方がないのお、これはカミ様には秘密だし、穢れにもなるが、コトシロと違って、わしはわしの采配が許されているから、サービスじゃよ」
サービス?という和製英語が耳障りだったが、和製ならいいかと、ナナモは聞き流そうとした途端、ナナモの頭の片隅で古風な映写機の音が鳴り始めた。もはや、ナナモはデイスプレイに視線を向けてはいない。自分自身の頭の中に張られたスクリーンに釘付けになっていた。
そうか、やはり一度ここでみっちり学んでいたからだ。
ナナモは、今居る医学部と同じように男女が入り交じった階段教室で、カミヨ文字の講義を受けていた。ナナモはデイスプレイの講義が始まった時に多少の戸惑いを覚えたが、なぜか忘れかけていた漢字を思い出したように、すぐに授業に追いつくことが出来ていたのはこのためだったのだと理解した。そしてきっとそこはカタスクニに行くために向かった異世界にあるもうひとつの夏期講習の場だったのだと確信した。
そう言えばここで僕は誰か、いや、同年齢くらいの男性と一緒の部屋に居て、そして、彼が急にいなくなったから講義そっちのけで彼を探す為に旅に出かけたはずだ。でも、待てよ、確か、僕の手伝いをしてくれた女性が二人居たはずだ。彼女たちもカタスクニに行くために受講しに来たと言っていた。一人はとってもチャーミングだったし、もう一人は確か…。
ナナモがその女性たちの顔や声や会話に対する記憶の掘削にすべての労力を費やそうとした途端、ナナモはまるで丸裸にされたようにその場から放り投げ出された。
ナナモは小さな社を見守るような一本の大きな樟と、その社を穢れから覆い隠そうとするような草木が生茂る鎮守の森の中に居た。そして、ナナモは木簡を持っている。木簡にはカミヨ文字の様でカミヨ文字ではない何かが書かれている。ナナモはしばらく眺めていたが、その解読をあきらめたのか、遊び半分でその木簡を木漏れ日にかざしていた。その瞬間、あっと、大声で叫んだと思ったら、得意げにそこらにあった枝木を取り上げて、まるで何かをひらめいた研究者のように地面に懸命に文字を書き連ねていた。
どこだったのだろう?どうして木簡を手渡されたのだろう?それに、カミヨ文字を習っていたので、その応用に気が付くことが出来ただけなのに、確か、救世主だと村人から言われていたような気がする…。
ナナモは、解読し終えた木簡をどこかにしまおうとして立ちあがった。その時に急にある品々が瞳に飛び込んできた。
あっ、鏡、勾玉、袋だ!と、ナナモは思わず叫んでいた。
ナナモはそれらをとても重要な品々というか、カタスクニから与えられた必需品のような気がして、先ほど以上の高揚感で身体が熱くなった。しかし、ナナモはその品々を手に取ってゆっくり調べることなど出来ない。カタリベに尋ねることも出来ない。ましてやあの女性たちの助けも得られない。ナナモはそれでも何とかならないものかとあえぎながらも、急いでこの場から去ろうとした。
ナナモはこれからある使命を果たさなければならないはずだ。しかし、その現場を通り越して、ナナモは先ほどとは比べられないほどの力で燃え滾る炎の中に放り込まれていた。
ナナモは最初炎に囲まれていると思ってどこかに逃げ出そうと思った。しかし、どこに行こうとしても炎の中にいる。どうやらナナモが自らが発した炎のようだ。でもなぜ炎を発しているのだろう。このままだと焼け死んでしまう。それなのに、のたうち回ることもなく、恐怖や痛みさえ感じていない。
ナナモはしばらく立ち尽くしていた。すると、デイスプレイにではなく、巨大スクリーンに膨張したナナモの瞳には、いじめのために憔悴しきって暗闇をさまよい歩く中学生になったばかりのナナモの姿と、そんなナナモに四方から高笑いとともに石ころを投げつけて来る動く真っ黒な壁の集団が映し出されていた。
ナナモはもはやリモートどころでなかった。しかし、誰か映写機を止めてくれとあえて言わなかった。だからナナモの古い映写機はシャーシャーとまるで猫の威嚇の様な音を立てながら、ナナモ自身の意志では閉じられない瞳にナナモの過去を映し続けていた。
ナナモは熱さを感じないのに身体中から汗があふれ出ていたし、息苦しさを感じないのに呼吸が荒くなっていた。壁は四方から迫って来る。そして押しつぶそうとする。炎にはあれほど無頓着だったのに、壁は激しい頭痛と、止まらない吐き気をナナモにもたらしてきた。
それでもナナモは誰かに助けを求めなかった。
ナナモはついに自らに声を出していた。それは、泣き声でも笑い声でもなく。とても静かで高音でも低温でもなく抑揚のないそれでいてとてつもなく重い言葉だった。
「いのち」
ナナモは薄らとスクリーンの端に刻まれていたカミヨ文字を読んでいた。
その瞬間ナナモは大きな瞳を開けたまま、まるでブラックホールのような暗闇に吸い込まれて行きそうになった。
「余計なことまで思い出してしまったようじゃの」
あるはずがないのに、カタリベのギュッと伸びて来た手がナナモの瞳を強引に閉ざした。まるで呪文でも唱えるようなカタリベの声でナナモはやっと映写機の音が聞こえなくなり、頭痛と吐き気が消え去った。
「神の水じゃ」
アメノが差し出してくれたのだろうか、ナナモの目の前には透明な液体が、まるで森の中にいるかのような鼻から頭の隅々まで拡がる香りを伴った質素で小さいけれど、凛とした木の器の中に注がれていた。
ナナモは清々しいその香りにつられて思わずその器を持ち上げ飲もうとした。しかし、もう少しで唇に触れかけた時にあわててテーブルの上にその器を戻した。
「飲めば楽になるのじゃがのう」
カタリベはすでに知っている。と同時にナナモもすでに知っていた。この清水は穢れを払い落とす。つまり、今しがたの記憶がなくなる。
ナナモは考え深げに見つめていたが、その器は、しばらくするとかすかな光沢さえなければ透明ではないかと思われるくらい透き通ったガラスのコップに代わっていた。
ナナモはその事を確認すると今度はゆっくりとコップに満たされた水を飲み干した。
ナナモからは今しがたの記憶は消えなかった。それどころかより鮮明に記憶が蘇って来た。
「僕はいじめに打ち勝ったはずです。あの、もうひとつの夏期講習の時に異世界に行ったことで」
ナナモは実際には打ち勝てずに自ら命を落とそうとしたはずだ。しかし、今、こうして生きている。そして、その両方の記憶は真でありまた偽りであるかもしれない。
「消したくなくとも消えてしまう記憶もあれば、消したくとも消えない記憶もあるのじゃよ」
カタリベはサービスと言っていたが、ナナモの問いに答えようとしてくれていたのかもしれない。
「でもお前さん。わかっていると思うのじゃが、それぞれ地上と中間の世界の出来事じゃよ」
カタリベは物静かに言った。
「僕は両方の世界に存在します。でも、僕は僕として両方の世界に存在できません。矛盾している様ですが矛盾していません。なぜなら、存在するときの僕が僕なのですから。そうですよね」
ナナモはタカヤマとの会話を思い出しながら、カタリベに尋ねた。カタリベは珍しく穏やかな表情のままだったが、何も言ってはくれなかった。
ナナモは強烈に焼き付けられた記憶を癒えかけたかさぶたのようにはがした。そして、傷が治っていることよりもきれいにはがされたその薄皮をしばらく大事そうに触りながら、嬉しさというよりガラガラ遊具でお目当ての品物を手に入れた時の高揚感に満たされていた。
「どんな些細なことでも学ばなければならいことはあるのじゃよ」
カタリベはデイスプレイ越しに空になったコップを見つめながら言った。そして、学ばなければ記憶として残らないからのおと、付け足した。
ナナモはそのことを聞きながら、記憶が知識と変化して、自分自身だけではなく誰かを助けることにつながるかもしれないと、もうひとつの異世界のことをかすかに思い出しながら、カタリベに向かって無言で頷いていた。




