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ジェームズ・ナナモと格子の迷宮  作者: まれ みまれ
10/33

(10)イチロウのプログラミング

「こんにちは。ジェームズです。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします。私は武勝と言います」

「タケカツ?言いにくいですね。カツだけでもいいですか?」

「ハイ」

「それではカツ、レッスンを始めましょう」

 ナナモは忠犬ハチ公の前で待ち合わせたおじさん風情の生徒を、パリのシャンゼリゼ通りのオープンカフェを彷彿させるテラス席に連れて行って、英語のレッスンを始めた。

 もちろんナナモは東京なんかに居ない。だから、この状況は現実ではない。仮想空間だ。しかし、英語で話していることは事実だ。仮想会話ではない。

 ナナモはまたイチロウの仮想空間にいた。ただし、今回はイチロウに無理やり連れて行かれたのではない。ナナモがイチロウに頼んで連れて行ってもらったのだ。

 実はナナモは防具をつけて剣道の練習が出来るようになってからイチロウに長々と手紙を書いた。もちろん、パソコンやスマホで連絡すればいまどきなのだろうが、イチロウが古風にもナナモに自筆で手紙を書いてくれたことが嬉しくてつい自分もと手紙を自筆で書くことにしたのだ。

 けっして美しくはないが、叔母に教えてもらっていたので、当然漢字を交えてそれなりの文章を書くことは出来る。だから、大学にも入学できたのだが、国語が苦手なナナモにとってそれがイチロウに対してのフランクな手紙であったとしても、やはり緊張感で何度か書き直した。杵築、大学、寮、授業、剣道、そしてクラスメートのことと、それでも、結構な量になる。文字にすると余計な回り道をしなくても済むとは思ったが、ナナモは出来るだけ簡潔にした。

 でもこれじゃ、喜怒哀楽がまったくないな。

 ナナモは、イチロウの、あるエピソードに絞った手紙を思い出して赤面した。それでも、この手紙の最後にはきちんとあるお願いを書いていた。だから本当はそのお願いさえ伝わればいいんだと、ナナモは大学の学生用の購買所で切手を買うとポストへ投函した。

 それから二週間。金曜日の夜、剣道の練習に疲れたが、週末だし、少し気晴らしにオオヤマを誘ったが、珍しく断られたので、一人大あくびをしながら、ネットサーフィンをしていた時に、アプリを通して電話がかかって来た。もちろん無料だし、お互いの顔がはっきりと映っている。

「ナナモが手紙を書く必要はないんだ。でも、何だか嬉しかったよ。日本語だろう。少しどうかなって、別に見下しているわけじゃないんだけど、でも、やっぱり、ナナモが何を考えているかは伝わってこなかったんだけど。でも、ナナモらしいし、何となく安心したよ」

 イチロウの顔が見える。大学生になったんだから以前よりこざっぱりしているかと思ったが、中途半端な長髪で、服装も地味だった。ただ、以前と違って顔に艶がある。まるで宝石があちらこちらに埋蔵されているようにキラキラしていた。

「寝てたのかい?」

 ナナモは自分がどう思われているのだろうかと、だらしない顔で応対してしまったことを悔やんだが、「安心したよ」と、どのような意味でイチロウが尋ねて来たのかわからなかったが、とにかくお互い心配せずに会話が続けられそうだったので、深追いしなかった。

「ああ、練習がきつかったんで」

 イチロウはナナモが本当に剣道を続けているとは思っていなかったようだが、眠気顔でも以前よりは少しは引き締まっていたようなので、また、安心したよと繰り返し相槌を打っていた。

 眠いのならまたかけ直すよと、イチロウにしてはずいぶん大人びたことを言ってきたので、イチロウの前でうとうとしていると、どこかの仮想現実の世界に連れて行かれるからと、冗談っぽくナナモは笑いながら制した。

「またロンドンに帰るのかい?」

 すぐに眠気が吹っ飛び、手紙に書いたはずなのに、しばらくお互いの近況について話し合ったあとに、イチロウがナナモに尋ねて来た。

「ロンドン?」

 ナナモは部活に入り、友達が出来て、勉強にもそれなりに興味が持てて、毎日が忙しかった。確かに叔父と叔母はナナモが医学部に合格したことを連絡すると、物凄く喜んでくれたが、それだけのためにロンドンに戻ろうとは今は考えていない。

 でも、また直行便に乗れば、たった二~三日でも、ロンドンに行けるかもしれない。ナナモはロンドンではなく、ルーシーの事を思い浮かべながら、頭の片隅に置いておこうと思った。

「ナナモどうかしたのかい?」

ナナモはイチロウに呼びかけられて思わずハッとした。

「いや、なんでもないんだ」 

 ナナモはリモートで顔が映っていることをすっかり忘れていた。

「学生生活は色々と物入りだから」

 ナナモが、部活や、友達づき合いや、日常品の買いだしなどを付け加えて言葉を継ぐと、「本当は東京で学生をしていた時の方が物入りなんだけどな」と、イチロウが笑った。

 ナナモもつられて笑った。

「夏に剣道の大会があって、その遠征費が要るんだよ」

「遠征?」

「ああ、医学部の学生だけの大会なんだけど」

「医学部の学生だけ?」

 イチロウは大学で運動部に入っているわけではなかった。

「インカレって、全国の大学間の対抗試合ってあるだろう。でも、そこはレベルが高いんだ。当然、練習量も練習時間も多いから、どうしても医学部生にはついていけない所がある。もちろんそれでも、インカレに参加している医学部生も居るけど、ほんの一握りなんだよ。それに、僕らみたいに医科大学だけなら、もっと条件は厳しくなる。だから、医学部の運動部の学生だけを集めて大学間で競う大会があるんだ」

「知らなかったよ」

「そうだよね。だって、もし、日本有数の記録を出したり、最強だったりしたら、医学生という枠を超えて大学の代表としてインカレに出場しているからね」

 ナナモは、それでも別に手を抜いているわけじゃないんだと付け加えた。

 イチロウは、インカレのことも知らないというか、あまりスポーツに興味がないのか、ピンと来ていないようだった。

「どこで?」

「今年は京都」

「いいなあ」

 イチロウは日本の伝統とは正反対の所に居ると思っていた。だから、溜息交じりの声に少し驚いた。しかし、良く考えてみると、オックスフォードの街並みにも興味津々だったことを思うと、VRの世界といっても、あながちVRの世界も歴史や文化と関係が深いのかもしれない。

「旅行じゃないぜ」

「じゃあ、ナナモは京都に行ったことがあるのかい?」

「いいや」

 京都どころではない。ナナモは杵築に来る前まで東京から離れたことなど一度もなかった。

「まあ、京都の話は置いといて、バイトの話なんだけど…」

 ナナモはイチロウに長々と手紙を書いたのは、そういうもろもろのことがあってお金が必要だけど、なかなか時間も暇もなくて、それでも何か良いバイトはないだろうかという極めて都合のいいお願いをするためだった。

「俺は東京にいるんだぜ」

 イチロウにそう言われても仕方なかった。

「一つだけナナモにうってつけのバイトがあるんだ。けど、大学生には酷だし、剣道部に入部したって言っていたから多分無理だろうと思うけど…」

 それでもイチロウは手紙を読んでから色々と考えた上である結論に達していた。

「何?まさか、また…」

 ナナモはイチロウのコンピューター技術を屈指して、杵築でのアルバイト先をあっせんしてもらおうともくろんでいたのだが、イチロウの表情からそうでないような雰囲気が伝わった。

「相変わらずナナモは鋭いな。そう、英語の講師をまたやってほしいと思っている」

 イチロウの提案はナナモが予想していたことだったが、でも、そんなことが出来るのだろうかと半ばあきらめていた。

「今度も学生なのかい?」

「いや、一般の人を考えている。それにテキストがあるわけではない。フリーな英会話を望んでいる人達だ。だから、多少料金は安くなるけど、その分ナナモは気楽に出来るだろうから…」

 イチロウは何気に話しかけてきたが、ナナモは少し気が引けた。

「リモートだぜ」

 ナナモの表情にイチロウはすぐに気がついたようだ。

「でもおたがいの顔は映るんだろう」

 ナナモは眉間に皺を寄せながら尋ねた。

「何を気にしているんだい。もしかしたら、見た目じゃないだろうな。別にナナモをバカにしているわけじゃないけど、ナナモはイケメンだし、ハーフだから、却って英会話の講師には適しているんだぜ」

イチロウは多少の遠慮を含ませて言った。

「僕は人見知りだから」

「どういうこと?」

「だから、たとえリモートでも、フリーな英会話なら却って自分の事を話さなくてはならないだろう。それは僕にとって案外苦痛なんだよ」

「俺には何でも話してくれたぜ」

「それは…」

 ナナモはほんの一瞬だけ言葉に詰まった。きっと、イチロウはその事でナナモがまだ過去を引きづっていることを悟ったに違いない。

「ごめん。わかったよ。でも、リモートも架空の世界のひとつだから。現実であり現実でない。だから、適当に自分についてもキャラクターを作っておけばいいんだよ。ナナモはまじめだから」

 イチロウはそう言ってからまたごめんと謝った。

「そうかもしれないな、でも、たとえ、リモートだとしても、僕には、イチロウみたいには簡単に出来ないような気がするよ」

 ナナモは正直に話した。そして、他にバイトはないかなと尋ねた。

 イチロウはしばらく傍らのパソコンを操作しながら、ちょっと待っていてくれないかなすぐにかけ直すからいったん切るよと、言った。

 ナナモは目の前から急にイチロウの姿が消えて、あっと思ったが、しばらくすると、何を贅沢なことを言っているだろうと自分を責めた。だいたい、寮生は必ず武道をやらなければならないから必ず大会に行かなければならいとか、友達付き合いや息抜きが必要だとかは、両親からの援助が一切ないナナモにとってわがままな贅沢なのかもしれない。

 それに、マギーがどのような仕事をしてどのくらい収入があるのかはわからないが、寮に入れたということは、お金に余裕があるわけではないことは確かだ。それに昨年一年間通った大学の授業料の事もある。だからせっかく入学した医学部の勉強をおろそかにしない程度にバイトをしてもそのお金は全てマギーに渡すくらいの覚悟でいなければならないから、自分のことなど多少は目をつぶって我慢しなければならならないのに、それすらイチロウに甘えている。

 ナナモはしばらく罪悪感に苛まされていてもたってもいられなくなくなった。だから、イチロウからの折り返しが待てなくてスマホを取り上げたところ、イチロウからの着信があった。

「VRの世界にもう一度行ってくれって言ったらナナモは受け入れてくれるかい?」

 イチロウはいきなり尋ねて来た。

「英会話の先生なんだろう?どうしてVRの世界に行かなくちゃいけないんだ」

 ナナモは驚いた。しかし、イチロウはナナモの表情の変化を気にせず、これはまだ実験段階なんだけどと前置きした上で、話を続けた。

「体験型の英会話教室を考えているだ」

「どういうこと?」

「以前ナナモに俺のVRの世界に入ってもらったよね」

「ああ」

 いみじくもナナモがイチロウと出会えたきっかけだ。

「あの時、ナナモは自分の意識ははっきりしていたはずだけど、その意識は作られたものだったよね」

 イチロウは小難しい言い方をしたが、簡単に言うと、VRの世界で意識下に操作されていたということだ。

 ナナモが軽く頷いたあとにイチロウは言葉を続けた。

「けれども、今度のVRはあらかじめVRの世界に居ることは知らせておくんだ。そして、自分で操作しながら、その世界での出来事に対処していく。つまりローリングプレイゲームのVR版の様なものにしたんだよ」

 ナナモは、「~の様なもの」と言われてもピンと来なかった。だから、もっとわかりやすく教えてくれないかなと、尋ねた。

「今回、ナナモには英会話の先生になってもらうよね。でもね、ナナモはナナモであることを知られたくない。受講生もナナモのようにシャイなヒトがいるかもしれない。だから、お互いVRの世界で会う時は、それぞれが架空の人物になってもらう。そして、さらに、例えばレストランでの会話が話したければ、レストランの場を提供してあげるのが良いから、その場所をVRで創ってあげるんだよ」

「じゃあ、ロンドンのパブでビールを飲みながら会話することだってできるんだ」

「まだ、そこまでは行かないよ。あくまで場所を提供するだけだから…。それでも、教室で学ぶよりはましかもしれないよ」

「でも、僕が話題を提供しないといけないんだろう。以前の夏期講習のように決められたテキストを読むのは楽なんだけど…」

 ナナモは共通テスト対策として学生にヒアリングを教えた時の事を思いだしていた。彼らはナナモより優秀だとイチロウは言っていたが今頃何をしているのだろうと、イチロウとの会話もそっちのけで少し感傷に浸った。

「場所と言っても、どこにでも行けるってものじゃまだないからね。それに行ける場所にはこちらが作った会話のプログラミングがあるんだ。だから、その会話には専門化が作成して、記憶に残りやすくてよく使うフレーズを要している。だからそのプログラミングに合わせてナナモは場所という動機づけされた世界で指示に従ってくれたらいいんだよ」

 そんなにうまくいくだろうか?

「もちろん、少しは応用問題になるかもしれないけど、前もって受講者には話しているから脱線することはないと思うけど」

「でも脱線したら?イチロウが助けてくれるのかい?」

「ごめん、無理だよ…。でも、その代わりAIが助けてくれるというか、何らかの指示をだしてくれるよ」

「AI?」

「バカにしちゃいけないぜ」

 ナナモは別にバカにしているわけではなかったが、それだったら、AIが全てすればよいのではないかと思ったので、素直に疑問をぶつけた。

「ダメなんだよ。AIには人間の思いやりがないからかもしれない」

「思いやり?」

「まあ良いように言えばそうだし、悪いように言えば気まぐれかもしれない。つまり、人は感情で左右される。そう言うところがリアリティーだし、英会話学校のように一方通行じゃないところだから」

 だったら、VRなんか使わなければと言いそうになったが、それじゃ堂々巡りになると思って話題を変えた。

「また、ゴーグルをつけるのかい?」

 ナナモはイチロウが作った超軽量のサングラス系のゴーグルの事を思い出した。

「いや、もっと、普通なのに改良したよ」

 ナナモは普通という言葉が気になった。

「コンタクトレンズにしたんだ」

「コンタクト?」

「そう、スパイ映画に出てきそうなコンタクトだよ」

 イチロウはコンタクトを両眼につけると、普段は日常生活を送れるが、スマホの会話アプリを通すと、コードレスイヤホンのようにスマホに作用して、VRの世界のみが拡がり、コンタクトを通して場所や生徒が見えると言った。当然、生徒もコンタクトをつけているから、アプリを通してVRの世界でつながることになるし、コンタクトにはプロミングされた内容が文字として映るので、両者がそれぞれの状況や課題を知ることが出来るし、ナナモは指示に従ってキャラを設定してくれたら良いだけだと追加した。

「コンタクトレンズとスマホねえ」

 ナナモはそれだけで本当によりリアリティーのあるVRの世界が創れるのだろうか半信半疑だった。ただし、イチロウがまだ大学生になっていないときのVRの世界を体験している。その事を考えると信じないわけにはいかなかったし、もしそうならイチロウはずいぶん急加速で自分の道を突き進んで行っている。ナナモはイチロウのつぶやきにただ頷くしかなかった。

「僕は視力が悪くないから、今まで眼鏡もコンタクトも付けたことがないんだけど、そのコンタクトレンズは安全なのかい?」

 ナナモは何の前振りもなく、イチロウにVRの実験台にされたことを思い出した。

「ああ、たぶん」

 イチロウの言葉のトーンが急に下がった。それにイチロウは「たぶん」が口癖なのに多分に怪しい。

「コンタクトレンズは俺たちとは別の研究所で開発されたものなんだ」

 ナナモのため息が見えたのだろうか、イチロウが補足した。

「研究所?じゃあ、まだ試作品なのかい?」

「特殊素材を使っていて、どのソフトコンタクトよりも刺激は少ないし、もはや実験段階は終了しているんだ。だからもうじき別の目的で商品として市販されるはずだよ」

「本当かい?」

「ああ、俺はそう聞いているし、だから俺たちがそのコンタクトレンズを使ったシステム開発の研究案は大学の倫理委員会で許可されたんだ」

「大学の倫理委員会って?」

「この事業はベンチャーのようなものなんだけど、産学連携で行っているんだ。その分規模は大きくなるし、営利を追及することだって可能なんだ。でも、その分足枷もあるんだよ」

「じゃあ、イチロウが個人でやっているんじゃないのかい?」

 イチロウは少し寂しげだった。

「ああ、でも、俺もやっと大学生になれたんだ。勝手に自分だけで実験や研究が出来ないことには確かに寂しさはあるけど、その分あの先生も協力してくれているし、アカデミックにしてみたらと、アドバイスされたからね」

 ナナモは今でもトラウマになっているイチロウが今教えてもらっている教授になった元講師の授業の事を思いだしていた。

「ねえ、イチロウ?イチロウも僕も大学一年生だよね。それに、イチロウは今電子工学部に通っているんだよ。

「正確には電子システム工学部だけど。」

「だったら、電子工学基礎理論の勉強をしているんじゃないのかい?」

 ナナモは尋ねた。イチロウは当然だろうという顔をしている。

「だったら、どうしてそんな…」と、ナナモは急に胸が締め付けられるような思いでしばらく体が動かなかった。

「ナナモ、どうかした?」

「いや、僕はイチロウと違って何もしていないなと思ったんだ。むろん、医師免許を持っていないんだから、どれだけ患者さんを助けようと思っても医療行為はできない。けど、ボランティア活動や医学実験の助手ぐらいできるなと思って…」

「どうしたんだい急に」

「いや、イチロウは念願の電子工学…、いや電子システム工学に入学したんだよね。そして、もうその道を究めようと走っているんだと思うと、なんかお金の事を心配している自分がみじめに思えてね」

 ナナモは正直に言った。

「人それぞれだよ。それに遠回りした方が良い時もあるからね」

イチロウは珍しく視線を落として、「俺にはこれしかないから。武道に打ち込もうとしているナナモのほうがうらやましいよ」と、口ごもるようにぽつりと付け足した。ナナモはその言葉で、お互いがお互いを羨ましく思っていることがわかって、少し息が抜けて体が軽くなったように思えた。

「嫌だったらやめてもいいんだよ」

 お互いしばらく黙っていたが、イチロウは、今度ははっきりした声でさらりと言った。しかし、その顔にはナナモを裏切るようなことはしないという自信が色濃くにじみ出ていた。ナナモはイチロウについ引き込まれそうになる。それでも慌てて首を横にふり、大きく深呼吸しながら、大学の研究室ならそれなりの安全性については保証されているのだろうと、信じようとした。

「コンタクトレンズと一緒に書類を送るから」

 イチロウはナナモの頷きに呼応して言った。

「書類?」

「ああ、使用説明書と同意書だよ」

「ナナモのサインがなければこのベンチャープロジェクトにナナモを参加させられないんだよ」

 唖然としたナナモにイチロウは言葉を足した。

 ナナモは、二度とナナモをVRの実験には付き合わせないと言っていたイチロウの言葉をおもいだして、そうだよな、大学の倫理委員会があるから仕方がないよなとは素直には言えなかった。しかし、そう思いながらもまたイチロウの誘いに乗っている自分も居て、溜息をつきながらもおかしくて仕方なかった。

「そう言えば、ナナモ…」

 そんなナナモの変化を十分見て理解しているはずなのに、イチロウは、くすりともしなかった。

「何だい?」

「俺は一つのことだけだけど、ナナモは色々なことをしなければならないのに身体の方は大丈夫なのかい?」

 イチロウの言葉にナナモはびくっとした。もしかしてと思ったが、ああ、とだけ短く返事をしただけだった。

「今しがたまでナナモに何かもっと大切なことを聞こうと思ったのに、何故だがわからないんだけど、急に忘れてしまって、それで、なんか胸が張り裂けそうなったんだ」

 イチロウはとても心配そうな顔で言った。ナナモは時間が一瞬止まったのではないかと思うくらい息苦しかったが、イチロウに悟られないようにゆっくりと息を吐いた。それでも勘の鋭いイチロウは少し紅潮したナナモの顔を見て何かを感じとったかもしれないし、思い出したのかもしれなかったが、ナナモはアヤベとの約束を守るしかなかった。

 それでも、少しならと、ナナモは手紙に書けなかったもうひとつの出来ごとをイチロウに話しかけようとしたが、なかなか口から言葉が出てこないのを見計らってか、イチロウのお互い頑張ろうという言葉を最後に、電話を切られた。

 それから一週間してから同意書とシステムの説明書が送られてきた。ナナモは十分に理解出来なかったが大まかな内容は理解していたのでサインして送り返した。それから二週間してから、コンタクトレンズとアプリに入るIDと暗証番号が送られてきた。ナナモは恐る恐るコンタクトを装着したが、初めての割には簡単に出来たし、イチロウの言う通り新素材なのか、初めてのコンタクトなので最初だけ多少の違和感があったが、次第に消えていた。

 ナナモはクニツ・ジェームズ・ナナモとしての意識は十分あったが、イチロウによってプログラミングされたジェームズ先生として、お洒落なカフェの中で、生徒がまじかに居るかのような空間と距離をまさに実感しながら、英会話のレッスンを始めていた。

 ナナモは、もはや始まっているもう一つの授業、(ただし、教える側ではなく教えられる側だが)、について何度もイチロウに手紙ではなく、メールで伝えようとしたが、予想通りその度に文字を打つ手が強張って動かなくなった。だからナナモは、まだイチロウに、「ありがとう」さえ、伝えられないでいた。

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