(1)コッツウォルズ親善サッカー試合
長く重い冬を越え、早春の羊の丘は萌え出る声で溢れていた。燦然と輝く太陽の下、石灰岩が古を奏でている。眩しく反射する、それでも変わらない真っ白なクーペから静かに降りた。
「サッカーの国際試合のチケットが手に入ったから観に行かない?ジェームズの家に迎えに行くから遅刻はしないわよね」
ジェームズは、ロンドンでルーシーから誘われた。もちろん断る理由などない。でも、あの古き美しい街にスタジアムなんてないはずだけど…。それでも、ジェームズはイエスと即答していた。
それにしてもルーシーはオックスフォードの大学に進学し直したはずだ。だったらロンドンに居ないはずだし、以前のようにオックスフォードで待ち合わせしても良いはずだ。やはりロンドンの恋人と別れなかったのかもしれない。でもそれならなぜ彼ではなくて、僕を誘ったのだ。
ジェームズはところどころ擦り減った石畳をまるで群れた羊の行進のようにぞろぞろと歩きながら、あれこれ考えるのを止めた。
ジェームズはルーシーにエスコートされながら急峻な三角屋根をいくつも揃えた蜂蜜色の建物脇の小道をゆっくりと通り、よく見ないとせせらぎがわからないほど静かで透明な小川に掛かる背の低い石橋を渡ると、漆黒の茅葺き屋根を持つ比較的大きな家々が並び建っているアスファルトで舗装された大通りに出た。すると、急に、お城の様な堅固な石壁の巨大スタジアムが目の中に飛び込んできた。しかし、大声で叫びながらこれから始まる試合に興奮してもいいはずなのに、まるで衛兵の行進のように不思議と皆毅然と黙っている。それに今にも動き出しそうな蒸気機関車の様な発煙筒の煙と炎はまるで見えない。あたかも皆を黙らせるかのように間近に迫ってきた巨大スタジアムは不気味な程の佇まいで凛としている。それでもジェームズはまるで魔宮に吸い込まれるようにスタジアムの中に入って行った。
スタジアム内は先ほどまでの杞憂が嘘のように、音響施設の整ったロックコンサートのような熱気が、天上のない解放された競技場を塞いでいた。その中で観客たちの期待に満ちた話し声が、いくつも重なりぶつかり増殖しながら、まるで古代の恐竜たちの雄叫びの様な塊となって鼓膜にぶつかってきた。
「イングランドもウエールズもスコットランドも北アイルランドも、それぞれの代表選手が集まるなんて…、親善試合だって言ったけど、いったいどこのチームと試合をするんだい?もう教えてくれてもいいだろう」
ルーシーは道すがら日本の歴史について今勉強していることを一方的にジェームズに話すだけで、今日の試合の事をほとんど話してくれなかった。だから、スタジアムの席に着くとジェームズはたまりかねてルーシーに尋ねた。
「えっ、何?」
ルーシーは歓声で聞こえないのか、耳元をジェームズに寄せてくる。
ジェームズは自然と口元をルーシーに近づけて、大声でもう一度叫べばいいだけなのに、「いや、いいんだ」と、折角の機会なのに、もうそれ以上何も話せないでいた。
ルーシーはそんなジェームズを気にするそぶりも見せずに、時折巻き起こるウエーブに身体を任せながら、まるでミツバチを誘う花びらのようにサラサラの髪の毛を風になびかせていた。
そんなジェームズのまどろみをかき消すように、ひときわ大歓声が沸き起こると、選手たちが入場してきた。どうしてこんな特等席のチケットが手に入ったのかわからなかったが、センターラインの中段から見る深緑のピッチはゲームのすべてを把握するのに十分だった。
「あれ?」
ジェームズは目を疑った。イギリス人でも一生に一度会えるかどうかわからないイギリスオールスター選手と試合をするのは、東洋系のチームだ。
もしかしたら日本人?それなら日本代表?でもジェームズが今まで見たことがない選手ばかりだ。でもよく見ると、先頭で選手を引率する子供たちはそれぞれユニオンジャックと日の丸の旗を持っている。
「ルーシー、日本のチーム?」
「そうよ」
きっと聞こえないだろうと思って尋ねたのに、まるで台風の目のようにぽっかりあいた大歓声の静寂の中で、ルーシーはチラとナナモに微笑みながら穏やかな声で頷いてくれた。
「でも、どうして親善試合なのに、わざわざイギリス全土からスター選手を集めて日本チームと試合をしなきゃならないんだい?」
ジェームズは当然のようにルーシーに尋ねた。
「わざわざイギリスまでやってきてくれたのよ。きちんと敬意を払わないと」
ルーシーの目が一瞬輝く。こういう時のルーシーには何か強い根拠がある。
「それはそうだけど…。でも僕にはどうしても納得できないんだ」
もしかしたらジェームズが知らないだけなのかもしれない。しかし、一度も国際試合をテレビで見なかったわけではない。その記憶をたどるといくら久しぶりといっても日本代表選手の顔を見間違えるわけはなかった。
「ジェームズ、本当に知らないの?あなたが生まれた国のサッカーチームよ」
ルーシーの目がもう一度輝いた。ジェームズはその威圧で思わずのけぞってしまう。でも、ルーシーはきりっとした顔でジェームズを睨み続けたりはしない。それどころか、少し頬を緩めながら、また、ジェームズを手繰り寄せてくれる。その優しさについとろけてしまいそうになる。
「今日、わざわざ歴史と伝統のあるコッツウォルズスタジアムまで、はるばるやってきてくれた日本チームは、キャプテンオウジが率いるチームよ」
「キャプテンオウジ?」
「そう、世界中のサッカーを愛する人たちのあこがれの選手よ」
ジェームズは、ルーシーはどの日本選手のことを言っているのだろうと、はっきりと顔を確認できるはずもないのに目を細めた。
そんなジェームズの憂いを打ち消してくれるかのようにまずイギリス代表のスーパーチームの顔が所属チームとともに電光掲示版に映し出された。さすがイギリス全土から集められたスター選手達だ。歓声が沸き上がる。しかし、ジェームズが驚いたのは、日本チームの選手が映し出されると、イギリス選手の倍以上の歓声でスタジム自体が大きく地響きを立てて揺れたことだ。その中でも、もはや大型スピーカーの中に入っているかのように、思わず耳を塞いでしまいそうになるほどのひときわ高い音量と振動でキャプテンオウジが最後に迎えられていた。
「彼は一体?」
ジェームズは清々しいほどの笑顔の、まだ、あどけなささえ残る、きっと仲間に支えられ励まされながら、がむしゃらにサッカーボールを追いかけていただろう、オウジと呼ばれる無垢な青年にしばらく釘づけになっていた。
「ピー」
両国の国歌斉唱が緊張と静寂をもたらしたあと、興奮しているのか赤ら顔の主審がホイッスルを高らかに鳴り響かせた。その瞬間からスタジアムはまるで豪華客船が岸壁から離れたかのように、ゆっくり揺れ始め、歓声というテープを個々人が思いっきりの力でゆっくりとピッチに投げ込んでいた。
まずセンターラインからイギリスチームが斜め右側前方の選手にパスを送ったことから始まった。ゆっくりとした動作だと思えたが、意外にボールの勢いが強い。だからゆっくりと視線を動かそうと思っても、もはやボールが足元に触れているのかわからないほどの感覚でパスを受けた選手は走り出していた。親善試合だというのにイギリスチームの猛攻は何度となく続く。イギリス中から急に集められたスーパースター集団だというのに、互いが互いの気持ちを推し測りながら、出来るだけチーム全体で一塊となって、攻めそして守っていた。
「そうか、それほどのチームなんだ」
ジェームズはやっとルーシーの言った意味を理解した。
一進一退の攻防はただ単に敵陣から自陣に、そして自陣から敵陣に、を繰り返していたわけではない。華麗なプレーもあれば堅実なプレーもあり、観客はその一挙手一投足に湧き、そして溜息をついていた。
日本チームのゴールキーパーはイギリスチームのシュートの嵐を何度も防いでいたし、ディフェンダーもフォワ―ドも今までジェームズが観たどの試合よりも早く正確にドルブルしながら動く選手を、二~三人が素早く囲むことでその行く手を邪魔していた。
両チームの熾烈な戦いは過酷で、なかなか双方のゴールネットを揺らすことは出来なかった。しかし、時間だけは過ぎていく。きっとその苛立ちは本場イギリスチームの方が大きいのかもしれない。しかし、だからと言って、観客からはブーイングは少しも湧き上がらない。それどころか点がなかなか入らないことを却って楽しんでいるようだ。
もうすぐ前半戦が終わろうとしている。そして誰もがこのままゼロスコア―かと、あきらめていた。
丁度その時だった。日本チームは自陣でボールを急に回し始めた。しかし、地面を這うようなボールではない。空中を行ったり来たりしながらボールを回し始めたのだ。足だけしか使わない。だから、出来るだけ相手の事を考え、受けやすい柔らかさと速度で、けれども、出来るだけ全ての選手が触れることが出来るような気配りを添えている。
どうしたのだろう?と、誰もが思った。だから一瞬イギリスチームの足が止まったが、そんなお遊びは許さないと、前線を押し上げ、敵陣深くに入って行く。
その途端、今まで透明マントにでも隠れていたのか、目立った活躍をしていなかったキャプテンオウジが急に姿を現し、まるでハヤブサが獲物を狙うような急速度と最短距離でボールを受け取ると、敵陣に向かって走り出していた。
それでもセンターラインまでは十メートルほどはある。きっと裏をかこうとしたのだろうが、さすがイギリスチームだ。試合開始直後からオウジのプレーには細心の注意を払っていたのか、全員全速力で自陣に戻り、二重三重の壁を瞬時に作っていた。
オウジはそれでもいつの間にかセンターラインを越え、ボールを足元から離さないように、それでいて華麗というよりも軽快な氷上のステップのようなドリブルで立ちはだかる壁に向かっていた。
二―四―四の変則デフェンスだ。それでも、第一列の選手達は、すぐにオウジを取り囲もうとする。
けれど、所詮は二人だ。簡単に突破されるだろうと誰もが思っていたが、さすがイギリス代表だ。そう簡単に突破させないと、日本人に比べて大きな体型なのに、物凄いスピードでオウジに近づくと絡みつこうとする。きっと彼らは本来ストライカーのはずだ。チーターのようにさっそうとサバンナを駆け抜けるはずだ。それなのに、今は、ハイエナのようにボールよりもオウジの二歩三歩先を読もうと躍起になっている。
オウジも彼らに囲まれて急に速度を落とす。それでも魔法の靴からはボールは離れない。誰もがもはや誰かにパスをすればと思うのだが、全員デフェンスに戻って引き気味の敵陣にオウジがパスすることは容易ではない。
観客たちは、さながら解説者になったつもりで、一度後方にいるデフェンスにパスをして、立て直せばと思っている。自陣にはイギリスチームの選手は誰一人いないからだ。
オウジはそんな声なき歓声についに従おうとする。ハーフラインからゆっくりと自陣に引き返していく。しかし、イギリスチームの選手は追っては行かない。きっと、オウジがボールをキープしている間は何が起こるかわからないと思ったからなのかもしれない。
オウジはそんな懸念をあざ笑いはしない。先ほどよりも余計に眉間に皺を寄せているようにも見える。それでいて、まるで足に執拗に絡んでくるコ―ギ―とじゃれている様にボールを独り占めしながらゆっくりではあったが歩を止めることはなかった。
ピッチではオウジだけがボールをキープし、他の選手は目だって動こうとしない。普段なら観客はブーイングの嵐でスタジアム自体を揺らしていただろう。しかし、オウジの散歩を誰一人止めるものはいなかったし、静寂ではないがほんのかすかなステップで一緒に散歩を楽しんでいるようにも思えた。
と、急に、オウジは何を思ったのか振り向くとゴール―キーパーに力いっぱいボールを蹴りだした。もちろんバックパスというべき速度ではない。むしろ、敵陣に向かって放った渾身のゴールキックというべき代物だ。なぜなら、そのボールは自ら風を切り、音を立て、まるで稲妻のようにゴールキーパーに向かって飛んで行ったからだ。
選手も観客もその瞬間、何事が起ったのだろうと、石像のように固まってしまっていた。それどころか、スタジアムから呼気が消えた。そして、流星のように走るボールだけに釘づけになっている。まるで最新鋭の戦闘機の様だ。それもきりもみ飛行している。だからといって、失速しているわけではない。きっと物凄い速度なのに宇宙を回転する衛星のようにまるで動いていないように見えるだけだ。
全ての観客と敵味方の区別なく各々のポジションの選手たちは皆、その行き先を見つめている。そして、当然のようにゴールポストの前にはキーパーが待ち構えていた。きっと、空母のようにどのような加速度になっていてもきちんと帰還させてみせると、その気迫が身体中から炎を滾らせているのがひしひしと伝わってくる。
「キーパーのカマは、オウジの事を信じているはずよ」
かたずを飲んだ静寂の中、つい、小声でつぶやいたはずだろうが、ルーシーの声がはっきりと伝わって来た。
もしかして…と、ジェームズはふとあることを思いついたが、否、そんなことはない。いや、そんなことは出来ないはずだと、慌てて目を閉じ、頭を左右に振った。
そんな時だった。急にジェームズの耳に、まるでジェットエンジンの様な爆音と風圧をともなった歓声が伝わって来た。
ジェームズは瞬時に目を開けた。瞳にはまるで望遠鏡で拡大されたかのようなキーパーの姿が映し出されていた。ただし、巨大石像のように両足を大地にしっかりとつけ、重機のシャベルのような両腕で身構えるのではなく、絶妙なバランスで体軸を作り、左足を大地に、右足を大きく振り上げ、まさに、オウジがはなった渾身のボールを蹴り返そうとしていた。
まさか…と、今度はジェームズは思わなかった。実際、キーパーは、一歩間違えればオウンゴールになりかねないのに寸分たがわず蹴り返していた。
「ルーシーの言った通りだ」
ジェームズのつぶやきが興奮で火照った身体に冷水をもたらした。
「あっ」
選手だけではない、スタジアム内のすべての人達の息が止まっていた。だからか、静寂の中、虹のようにアーチ状にゴール前から放たれたボールの軌道をまるで、初めて月ロケットが発射されたときのように、とてもゆっくりとした瞳の動きで追いかけるだけで精一杯だった。
イギリスチームの選手も同様だったのか、それともボールが離れたことで油断したのか、緊張の輪がほどけてしまっている。
「あっ」
息をしばらく止めていたので、今度は吸わななければならないのに、もう一度、吐いてしまわなければならないほどの現実が、青ざめていた頬を反対に赤らめるほどの興奮に代えてしまうとは誰にも予想できなかった。そして、観客達は総立ちになって、一生懸命呼気を蓄えると、一斉に蒸気機関車の汽笛の様な歓声を上げていた。
スタジアムの熱量はまるで火の玉のようにピッチ内に注がれ、まるでサウナのように蒸気で満たされていた。なぜなら、ゴールポスト前のほんの小さな空隙にオウジが忽然と現れたからだ。
「ウオー」という、観客達の雄叫びさえももはや、キーパーから放たれたボールの軌道を変えることは出来なかったし、イギリスチームの選手を覚醒させる暇さえ与えないように思えた。
オウジの半身はすでにゴールポストを向いている。そして、まるで数倍に膨れ上がったかのような右足は何千何万回と鍛え続けた鋼のように光り輝いていた。
そんなオウジのまさにこれから振り上げようとしている足元にもう少しでボールが吸い寄せられゴールに向かって蹴り放たれようとした時に、オウジの前にたちはだかったのはスコットランドの巨人と称されたディフェンダーだった。
忽然と現れた飛び魚のようにピッチという海面から急に飛び出してきて、まるで迎撃ミサイルのようにすれすれの横っ飛びで、オウジに向かうボールを阻止しようとしている。
「間に合うのか?」
先ほどまで雄叫びをあげていた観衆は、急に口を閉ざし、最高潮に興奮しているのに予期せぬ未来に臆して目をつぶってしまっている人もいる。
ルーシーは?と、ジェームズはふと思いをはせたが、きっとルーシーは瞳を大きく開けて見入っているに違いない。それがルーシーだ。ジェームズはだから確かめなかった。
ボールにディフェンダーは刻一刻と近づいて行く。いや、ボールがディフェンダーに引き寄せられているようだ。
もはやボールはオウジに渡らないと、誰もがそう思った時に、オウジが急にまるで後方に眼があるかのようにのけぞって飛び上がった。そして、棒高跳びの背面飛びのように、オウジは巨体なディフェンダーに全く触れることなく。飛び上がっていた。さらに、そのまま頭でボールを受けるのではなく、いつの間にかの早業で一回転していて、半身で横回転を加えると、何時鋼の足を復活させていたのかわからなかったが、空中でディフェンダーより先にボールを、渾身の力でゴールめがけて蹴り叩いていた。
観客どころかスタジアムはもはや酸欠状態だ。いつ、崩れ落ちても仕方がない。だから、イギリス代表のゴールキーパーがそれでも奇跡的な身体能力で反応したにも関わらず、オウジの弾丸シュートが弧を描きながらゴール隅に突き刺さった時には、スタジアムはさながら、赤子の誕生のように生命の雄叫びで沸き立っていた。
さぞ苦しかったのかスタジアム自体が肩で息をしている。その振動で観客も大きく揺らいでいる。ただし、ピッチ内では、ゴールが決まったことを知らせる主審のホイッスルが鳴り響いているのに、果敢にゴールを阻止しようとしたディフェンダーと、指先は確かに捉えたはずなのに弾き飛ばされたゴールキーパ―の感情以外、呆然と立ちすくんでいるイギリス代表からは、何も伝わってこなかった。
ゴールが決まってオウジの周りにはチームメートが集まっていた。抱きしめたり頭をさすったりせずに、皆オウジを取り囲みながら、まるでお辞儀でもしている様な恭しさでオウジに笑顔で声をかけていた。
オウジの所に最後にやってきたのは、キーパーだった。手に何か持っている。
「あれは?」
ジェームズだけではない。息を整えたすべての観客が同じ言葉を漏らしていた。
「スパイク?」
誰かの声が聞こえる。其の声は小さくなかったが、水面に落ちた微かな水滴が意外にも大きな波紋となるかのように、笑い声とともに先ほどまで熱せられていたスタジアム中に別な温かみが放射線状に急速に拡がって行った。
オウジはボールを蹴る際にスパイクが脱げていた。いつ、どのタイミングかは誰もわからない。いや、きっと、キーパーだけはわかっていたのだろう。だから、片方のスパイクを素早く拾いあげると、オウジに手渡していた。
「ありがとう」
オウジのそんな声が聞こえてくるようだ。
オウジはキーパーからスパイクを受け取ると、身をかがめ、しっかりと靴紐を結んだ。そして、ゆっくりと立ち上がり、軽く手を挙げて、スタジアム中の観客に挨拶した。
皆、本来なら口笛や鳴り物ではやし立てるのにその毅然としたさわやかさに思わず立ち上がり拍手をしていた。
「ピー、ピー」
ホイッスルが鳴り、主審は何事もなかったかのように前半が終わったことを告げていた。
「幻でも見ていたのだろうか?」
ジェームズは傍らにいるルーシーを見た。
「今からハーフタイムショウが始まるわ」
やはり幻ではなかったのだ。確かにルーシーの声が聞こえる。でもハーフタイムショウって何だろう。サッカーにそんな催しはなかったはずだ。
ジェームズはそれでも誰もいなくなったピッチを見つめた。すると、ルーシーの言った通り、何者かが集団となってピッチ内に入って来た。
「あれ?着物を着ている。それも、正装で烏帽子まで付けている。それに何だろう。仰々しい道具が運び込まれてくる。いや、あれは楽器だ」
「雅楽よ」
また、ルーシーの声が聞こえる。
「雅楽?」
「そうよ。私、車の中でジェームズに話したわよね」
ジェームズはすぐにはピンと来なかったが、急にスタジアムが縮み、奏者が居る場所だけがなぜかせり上がって来て、その光景をより鮮明に捉えることが出来るようになると、おぼろげながらもルーシーとの一方的な会話が思い出されてきた。
雅楽。それは日本最古の音楽だ。だからと言って、日本人が誰もが日常的に接するものではない。なぜなら、日本国が管轄する雅楽は国の重要文化財に指定されているからだ。それに、雅楽といっても、楽器だけで演奏する形態や、舞を加える形態や、伴奏で歌う形態がある。特に楽器だけで演奏する形態は管絃と言われて、三種の管楽器と、二種の弦楽器、二種の打楽器からなる。中央の太鼓奏者が指揮を執る小さなオーケストラのようで、管楽器奏者がメインに十数人が広角に拡がる。管楽器はハーモニカやバクパイプやフルートのような音色で、弦楽器はベース、打楽器は単調なドラムの様だ。
むろんそう単純ではない。なぜなら千年以上の歴史があるからだ。
なぜ、雅楽をここで?親善試合だからだろうか?
ジェームズは、その答えにたどり着けないもどかしさの中に居たが、演奏が始まり、その音色に包まれていくにつれ、心地よさと清らかさで、次第に穏やか気分になっていく。
でも、イギリス人、いや西洋の人からしてみればゆっくりと単調な演奏に聞こえるかもしれない。それでもジェームズが周囲を見ると、席を立とうしたり、奇声を挙げたり、イライラと足踏みをしたり、隣人とぺちゃくちゃとおしゃべりする観客は誰一人いなかった。そして、不思議なことに皆が目を閉じながら、だからと言って眠りについているのではなく、ジェームズと同じように母親の子守唄を聞いている様な穏やかな笑顔で満ち溢れていた。
「舞人よ」
ジェームズがそんなまどろみの中に居ると、急にルーシーの声がまた聞こえてくる。
その人物は、楽器奏者よりもゆったりとして華麗な、まるで、両手を広げると大鷲の様な袖を持った白地の表衣と新緑を思い起こさせる脚衣、烏帽子様の冠に、なぜか炎を模った大きな鼻と真ん丸の目で装飾された面を付けた装束(ステージ衣装であるが正装)で、華麗に舞いだしていた。そのゆったりした動きにジェームズだけではなく、観客達も一斉に覚醒し、つい釘付けになる。
ジェームズはルーシーを見た。ルーシーも夢中になってその踊りに見入っている。
そうか、ルーシーはサッカーではなくて、雅楽が観たかったのだ。それも、誰にも邪魔されたくはなくそれでいて共感できる人と。だから、恋人ではなく僕を誘ったのだ。
ジェームズは一瞬寂しさを覚えたが、そうであるならまだルーシーとの間でチャンスが残っているかもしれない。
ジェームズはもはやサッカーの試合も、雅楽の演奏や舞も興味が失せてしまっていた。日本の過去より、むしろ、ルーシーとの未来を考えたいと思った。
そんな時だった。晴天で雲一つない青空でイナビカリが起こる。カミナリが落ちて来るのかと思ったが、轟音ではなく誰かの重い声が聞こえてきた。
「ジェームズよ。本当にこのままでよいのか?ルーシーとこのままイギリスに居るつもりなのか?あの時のことは忘れたのか?お前には使命があるはずだ。使命を果たさないつもりか?」
ジェームズは上空を見上げた。しかし、千年以上も変わらぬ天空が拡がるばかりで当然何も見えない。
急に演奏が止む。奏者は全ていなくなる。そして、スタジアムはもとの大きさに戻った。ハーフタイムショーは終わったのかと、ジェームズは思ったが、ふと周りを見たが、誰もいない。ルーシーすらいなかった。
どうしたことだろう。そう思った途端、またスタジアムが小さくなり、ピッチの中央では演奏も聞こえないのに舞人はまだあの翼のような袖をなびかせ、まるでサッカー選手のように見事な足さばきで美しさを際立だせていた。ただし、仮面をしていない。見慣れない顔だ。否、浅黒い扁平な顔に誰かの面影が残っている。ただし、誰だったのか思い出せない。もちろん、日本人だろう。いや、日本人に決まっている。
舞人は一見穏やかな表情をしている様だが、きりっとしていて、よもやこの舞に皆が酔いしれ誰も止めるものなどいないだろうという自信にみなぎっている。
すると、舞人と同じような翼の様な袖を持ち、心持ちぴったりとした袴をはき、扁平な立烏帽子をかぶり、鴨のくちばしに似た沓(昔の靴)を履いた演技者が四名出て来た。
さきほどの奏者なのかと思ったが、先ほどまでプレーしていた日本のサッカー選手たちのようだ。しかし、見慣れない選手が一人だけ居る。きっとイギリスの選手なのだろう。よくは見えないが、黒髪だが鼻が高く、眼窩が鋭いように思う。でもどうやら前半戦では出場していなかった選手のようだ。でも、どうして日本の装束で日本チームの一員として現れたのだろう。
彼らは何をするのだろ。と、ジェームズが思った瞬間、彼らは舞人を囲むように四隅に散らばった。柳、桜、松、楓が突き刺さっている。そして、いつの間にか彼らの足元にはボールが…、いや、燃え上がる炎の玉が置かれている。
一体、何を、まさか…。と、ジェームズが思った時に、ジェームズはもっと驚いた。イギリス選手だと思っていたのは、ジェームズ自身だったからだ。それにキャプテンオウジとキーパーのカマもいる。あと、一人は誰だろう。わからない。
ここに居る自分は誰なのだろう?ジェームズは自分の身体を見て確かめようとする。しかし、身体が動かない。眼球さえも動かない。まっすぐ、前しか見えない。
僕は一体…。
きっと、これから燃え上がったボールを舞人めがけて蹴り放つのだろう。そして、誰かのボールが舞人に当たれば舞人もろとも大爆発するに違いない。
ジェームズは蹴りたくないと思った。そんなことに加担したくないと思った。しかし、身体と肉体は分離している。肉体は四人そろって火の玉を蹴りだそうとする行為を始めている。
たとえ異国だとしてもここは神聖な場所ではないか。そんな場所で。こんなことを起こしてはいけない。これはもはやショーではない。一人の舞人の命を奪う行為だ。それになんの意味がある。なんの正義があるというのだ。
ジェームズはやり場のない怒りで満ち溢れていた。
もし、これが罪なら一生罪を背負わなければならないし、罪は更なる罪をいずれ産みだすことになるかもしれない。
「それでもやらなければならないのだ」
オウジとカマがそう訴えかけてくる。そしてその声はまぶしいほどの光を放ち、希望という瞳で前を向いていた。
どこからか主審のホイッスルが鳴り響き四人は同時に火の玉を蹴り上げていた。
燃え滾るボールは次第に大きくなりながら、まっすぐ舞人に向かっていた。熱いはずなのに、舞人は涼し気に踊っている。
もはや止めることは出来ないのだろうか?そう思っているのはジェームズだけなのだろうか?命を燃やそうと滾っているボールを見ながら、それでも蹴ることを止められなかったジェームズは天を仰ぎ見るしかなかった。
「現実を見るのだ。そしてもしそれが罪ならこれから罪を背負わなければならない。それでも前に進もうとするものだけがいつかその罪に報いることが出来るだろう。ただし、そう簡単ではないが…」
また、どこからか声がする。その声は今まで聞いたことがない声だ。しかし、きっと何かあるたびにジェームズを苦しめる。そんな声のように思う。なぜなら、重く、硬く、そして、暗い声だったからだ。