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今は亡き夏へ

作者: 衣見 ヒビキ




 夏の鋭い日差しの中を、僕は歩いていた。


 雲一つない晴天だ。見上げた空の色は気持ち良いくらいの真っ青で、澄み切った海の水に似てどこか涼しさを感じさせる。

 下界はこんなにも暑いというのに。化粧もせずに堂々とうかぶ太陽は真っすぐこちらを向いているし、おまけに今日はまったく風がない。ここまで階段を上がってきた僕はもう汗びっしょりで、あまりの有り様に小さく笑ってしまった。


 歴史を重ねた石造りの階段を上がっていく。もう何度も上り慣れた灰色は風雨にさらされてやや傷だらけになりながらも、今年も僕を待っていてくれたみたいだ。

 階段の両端を鮮やかに彩るミズナラの木々は、頭上を覆うようにこちらに枝葉を伸ばし、足元に淡い影を落としている。そこに止まる蝉たちは大合唱の最中だ。一心不乱な鳴き声に背中を押されるようにして、なんとか足を進めていく。



 最後の数歩を上りきると、途端に開けた場所に着いた。


 どこか無機質で落ち着いた、人気の途絶えた純白の空間。

 そこに足を踏み入れた瞬間、ここまで辛抱して歩いてきた僕をねぎらうかのように、整然と立ち並ぶいくつもの人影が優しげに僕を出迎えてくれた。 

 ここにいる人たちはみんな優しい表情をしている。本当のことを言えばそんなこと、僕には分かるはずもないのだけれど、僕はなぜだかそう感じていた。


 彼らの間を通り過ぎて、約束の場所、僕らを待つ人の元へと足を向ける。

 階段を上がって真っすぐ進み、ひときわ大きな石碑の前で右向け右。そのまま20mほど進んだ距離の、両脇に植えられたアジサイの青紫が目印だ。

 彼女は今も変わらないまま、そこで待ち続けてくれていた。



「や、久しぶり。元気にしてたかな」



 白い石碑に声をかける。目の前にあるのは『蒼上 陽和』と記された小さな彼女の墓。



 僕の妻、陽和(ひより)が死んでから6年が経った。

 僕にとってはそんなに昔のことだとは思えないのだけれど、彼女の墓石に刻まれた細かな傷が、確かにその月日が存在することを示している。


 慣れた手つきで花を取り替え、新しい花を添えて水を差す。

 お供え物には瑞々(みずみず)しい果物を用意してきた。彼女はチョコレートとかケーキとか、そういう洋菓子系が好きだったのだけど、流石にこの暑い中でお供えしておけば、一瞬でダメになってしまうだろう。なんで持ってきてくれないの、なんて頭の中でぷりぷりと怒りながら頬を膨らませる彼女の顔が目に浮かび、思わず苦笑してしまう。



 もう6年。それだけの月日が流れても、彼女の面影はずっと僕の(まぶた)の裏に焼き付いたままで、一向に離れる気配はない。


 ああ、きっと。いまだに僕は、彼女の影に憑りつかれているのだろう。




 ...




 僕は臆病者だった。



 幼い頃に母が亡くなり、父と二人という環境で育ったおかげか、僕は周りの子供たちよりも少しだけ大人しく育った。

 小学生らしいわんぱくな一面を見せることはなく、他人からの言いつけや約束事はきちんと守る。好き嫌いなく誰にでも平等に接し、泣いたり落ち込んだりする子がいれば優しい笑顔で元気づける。嫌味や悪口を言われても言い返すことはせず、いつも静かな笑顔で応じていた。

 中学生に上がる頃には多くの人たちに気に入られ、幸いなことに僕の周りは心優しい友人に囲まれることになった。


 優しい笑顔で誰しもに接する。余計なことは言わず、あるがままを笑って受け入れる。まるで広大な海原に(ただよ)う小さな木片のような在り方。



 そんな“誰からも愛される”とはいかないまでも嫌われることはなかった僕を、目の敵にする人が現れたのは、高校一年生の春。



「私、キミみたいな人は嫌いだな」



 まるで落ちていた消しゴムを拾ってくれるように、気軽な口調で教えてくれた夏宮 陽和という少女は、一目見て綺麗な人だった。


 長く伸ばした(つや)のある黒髪に白魚のような繊細な肌。整った顔立ちに大きな翡翠(ひすい)の瞳。まだ幼さを残しつつも凛とした表情は、彼女の真っすぐな気質を表していて思わず見惚れてしまいそうになる。


 はきはきとした物言いと自分を曲げない勇敢な性格。僕とは対照的な在り方で周囲の信頼と羨望を勝ち取った、彼女はすでにクラスの人気者だった。



 そんな、いずれ学校でも噂の美少女となる彼女は、入学してから間もない頃に友人に囲まれていた僕の前に現れ、宣戦布告とばかりにそう言い放った。


 僕はこんな性格だったから、初めてとも言える明確な敵意に非常に驚いた。

 そして、その後に湧いたのは彼女への反発。何が気に(さわ)ったのか、今まで誰かに反抗することなく嫌味も嫌悪も受け入れてきた僕は、初めて他人を(うと)ましく感じたのだ。



「そうか。僕も君のこと、苦手みたいだ」



 周囲が唖然(あぜん)とする中、いつも通りの親切な笑顔を浮かべたまま告げた僕の言葉を受け取り、彼女は無表情のまま友人の元へと帰っていった。



 これが出会い。僕らの始まりは、よく語られるような甘酸っぱい恋愛物語よりも少しだけ苦くて、細い針で刺したような少しだけ痛みを感じるものだった。



 それからの二年間。僕らは互いに話すことはほとんどなかったけれど、やはりどこかで互いを意識していた。

 登校中に同じ信号で鉢合わせれば、どちらが先に学校に着けるかとか、定期試験が近づけば、どっちが点数を取れるかとか。

 高校生にしては、(いささ)か子供じみたものもあった気がするけれど......。とにかく、何かにつけては互いを敵視して対抗心を燃やしていたと思う。


 とはいっても、それは恋だとか愛だとかいうものではなくて、()()()()というのが一番近かったと思う。“目の上のたんこぶ”というやつだろうか。僕らは互いをたんこぶだと思い、教室に入るたび目に入る()()をどうやって引っ込ませてやろうかと躍起(やっき)になっていた。




 ...




 そんな僕らの関係性が変わったのは、高校三年生の夏。

 どういう因果かクラス替えの度に顔を合わせるようになった僕らは、もはや高校どころではなくて、くじ引きの神様にとっても評判の二人になっていたのだと思う。


 その日の僕はどうにも気分が良くなくて、とてもじゃないけど授業を受けられる体調ではなかった。

 その日は近年稀に見る酷暑で、昨晩勉強のために遅くまで起きていた僕には到底耐えられるものではなかったのだ。


 手を上げて教室を抜け出る間もなく、僕は教室の真ん中で意識を失ってしまった。



 次に目を覚ますと、そこは保健室だった。

 頭上には清潔感のある白の天井。僕が横たわるベッドの周りにはベージュのカーテンが敷かれていて、外からは見えないようになっている。きっと、先生か友人が僕を運んでくれたのだろう。


 横たわったまま時計を見ようと顔を横に向ける。そこには、彼女がいた。



「......え?」



 僕が寝そべるベッドの真横、パイプ椅子に腰かけながら本を読んでいた夏宮陽和は、僕が起きたことに気づいたのか、手元から視線を逸らしてこちらを見つめた。



「あ、起きたんだ。大丈夫? 意識とか、はっきりしてる?」


「......なん、で......?」



 かけられた(いた)わりの言葉も、その時の僕にはよく理解できなかった。熱中症をおこした後の寝起きの頭では、目の前の事態を正常に処理することは難しすぎたのだ。


 どうして僕を嫌っているはずの彼女が僕を看病してくれていたのか。

 どれくらいの時間、そうして僕が起きるのを待っていたのか。


 いくつもの疑問が宙に浮かんでは消え、言葉も出せずに彼女から顔を背ける。

 ふとカーテンの隙間から窓の外を見ると、すでに夕焼けが(のぞ)いていた。つまり今は放課後ということだ。そんな時間にもかかわらず、彼女は帰りもせずに僕のことを待っていてくれたことになる。



「なんで。君がここにいるの?」


「なに、ただの仕事だよ。ほら、私、保健委員だから」



 たまらずに口をついて出た言葉に、なんてことないよ、と軽く告げる夏宮。僕はそれが嘘だとはっきりわかった。


 彼女は自分に正直だ。誰かからの頼みを聞くときなどは別として、基本的に自分の嫌いなことをするような人ではない。自身を曲げず相手とぶつかり、真摯(しんし)に向き合って信頼を得る。誰かを助けるのも、あくまで彼女のルールに従っただけのこと。

 周囲を愛し愛されながらも、自己中心的に自由奔放に振る舞う。周りに気を遣い続けて生きてきた僕にとって、その生き方はあまりに対照的で、だからこそ、彼女を認められない一つの要因だったのだと思う。


 そんな性格だからこそ、彼女が毛嫌いする僕を助ける道理などない。倒れたのは僕が体調管理を(おこた)っただけのことだし、そもそも“放課後まで倒れたクラスメイトの看病をする”なんて仕事は、我が校の保健委員には課されていない。


 黙って彼女の顔を見つめていると、彼女は諦めたようにため息をついた。そして、僕の方を真っすぐな(みどり)の瞳で見つめ返す。問いつめているのは僕の方だったのに、その視線の圧に負けて思わず引き下がりそうになった。



「キミってさ、なんだか誰も信じていないみたい」


「......どういうこと?」


「いつもいつも嘘くさい笑顔で笑ってるでしょ? まるで“誰にも本心は見せないんだ”って言ってるみたいに」


「......」



 少々話題を変えられたことに苛つきながらも、彼女の質問にそんなことか、と思った。誰だって見せたくない本心のひとつやふたつある。僕の場合はそれが少し多いだけだ。いつでも真っすぐな彼女には理解できない事だろうけど、少なくとも(ただ)されるようなことではない。



「別にそれくらい普通だと思うよ。僕が本心を見せないことで、誰かが迷惑をこうむるわけでもないんだし。君に何か言われる筋合いはないんじゃ───」


「そんなに失くすのが怖いの?」



 はっきりとした物言いに遮られ、僕は呼吸を止めた。

 “怖い......何が?”そう()くこともできずに彼女を見つめる。その瞳は何かもを見透かしたように細められていた。



「嫌味や悪口を言われても静かに笑っている。口答えせず、あるがままを受け入れる。それって、もう何もかも諦めちゃったってことでしょ? 初めはなんでかなってずっと思ってたけど......。キミが友人と接しているのを見てやっと解った。

 キミは最初から誰にも心を開いていないんだ。内側に“本当の自分”を隠したまま、ハリボテの虚ろな心で他人と接する。

 だから誰も嫌いになることがないし、誰も好きになれない。何も得られない代わりに、何も失うことはない」



 彼女はどこか責めているように見えた。どこか憐れんでいるようにも見えた。



「でも、結局それって最後には全部失うことになるよね。人間、生きていく中で変わらずにいることなんてできないんだから。

 そうやって閉じた瞳と心では、その変化に着いていくことはできない───ううん、違うか。追いかける気すら、キミにはないんだもんね。過ぎ去るものを見送ったまま、キミはこれから先もずーっと独りで、死ぬまで何も手に入れることはない。

 そんなのって寂しくない? 怖くなる気持ちは分からなくもないけれど、踏み出さないと何も始まらないよ。いい加減、そんな仮面は外してこっちに来れば? 君の周りにはあんなに優しい人たちでいっぱいなのに、もったいないと思うな」



 意表を突かれた。納得した。彼女は僕にも気付けなかった僕の本心を見抜き、言い当てたのだ。

 お節介にも、僕を陽の当たる場所へ連れ出すために。


 それでも、僕はそれを認められなかった。嫌いな彼女に言い当てられたのが癇に障ったのか、彼女の言うことを否定したかったのか。


 脳裏に浮かんだ母の最期。

 やっぱり、まだ怖かったのか。



「知りもしない癖に。よくそこまで語れるな」


「............そっか。うん、ちょっとお節介が過ぎたかもね。悪かったよ」



 教室ではいつも柔らかい微笑みしか浮かべてこなかった。彼女を睨みつけた僕の(かお)は、相当に恐ろしいものになってたと思う。


 けれども彼女はそんな僕を前にしても怖じ気づくことなどなく、いつもの様子で身を翻して椅子を立った。その姿は凛として迷いなく、誰もが見惚れるくらい堂々として気高いものだった。

 すたすたと歩いていき扉に手をかける。彼女はそこでもう一度こちらに振り返り、すっかり冷めた目つきでこう告げた。



「お節介で悪いけど、最後に一つだけ。

 何もかもを諦めたって言うならさ。どうしてキミはいつも寂しそうに笑っていたの?」



 彼女は最後に、そんな言葉を残して立ち去った。




 ...




 その夜、僕は彼女の残した猛毒に苦しむことになった。


 土足で僕の心を踏み荒らした彼女への怒りとか、女々しくて情けない自分への羞恥とか。

 そういうことを考え続け、悶え苦しみ、心の(うち)がすっからかんになるまで悩みつくした後。

 僕は、完膚なきまでに彼女に言い負かされた事実を受け入れることになった。



 詰まるところ、僕は臆病だったのだ。

 母を失うことでボロボロになった心は、二度と同じ苦しみを味わうことのないよう(ふた)を作りだした。“大事なものを作りたくない”その気持ちが僕を誰にも心を開かせない機械へと作り変え、“笑顔”という蓋で心を覆い隠したのだ。


 失うならば、欲しくないと。母の死を通して諦めを覚えた僕を。彼女は見事に見抜いた。

 その上で、失わせないために声をかけたのだ。



 なんて損な性格なんだろう。他人の事情に首を突っ込み、嫌われることを承知で言葉を掛ける。そうすることで救われる誰かはいるかもしれないけれど、彼女にとって得られる恩恵はなにもない。


 何もせずに手に入らないことを受け入れた僕と、

 何かを成して手に入らないことを選んだ彼女。


 それは結果は同じでも、まったく違うものだ。



 どうしてか彼女の姿が脳裏にこびりついて忘れられなかった。彼女の在り方が、僕には綺麗なものに見えた。

 彼女の強さ。僕には到底、なれないもの。


 どうしようもなく、鬱陶しくなった。

 どうしようもなく、見ていたいと思った。

 僕にはないものを持っていて、どこまでも美しく在り続ける彼女。その行く道を照らす、燦然(さんぜん)としたその背中を。



 この時点で気づいたのだけれど。

 僕は彼女に出会ったその時から、彼女のことが好きだったらしい。




 ...




 次の日、教室に着いた僕はいの一番に彼女の席に向かった。ごめんね、と周りにいた友人たちを押しのけて、彼女の前に立つ。



「昨日はありがとう。悔しいけれど、君に迷惑をかけたみたいだ」


「......それはどうも。昨日も言ったけど、ただの仕事だから気にしないでいいよ」



 彼女は僕の行動をいぶかしむように、表情を少し険しくしていた。



「それからもう一つ。君が志望している大学を教えてくれないかな」



 僕の言葉を聞いて、ますます彼女は眉間に皺を寄せた。



「どうして? それを訊いてきみはどうするつもりなのかな」


「君と一緒の大学に、僕も行こうかと思って」



 次に呼吸を止めたのは彼女の方だった。

 彼女が言葉を止めるのは珍しいことだったそうだけど、その時の僕には余裕なんてものはなくて。



「別に大した理由じゃないんだ。今のままだと何だか負けたみたいで悔しいし、僕は君に借りを一つ作ったままになる。付きまとうってわけじゃないけど、放っておく気にもなれないっていうか......いや、嫌なら無理に言わなくてもいいんだ。......けど......その、なんだ」



 我ながらどうかしてると思う。これじゃあまるで愛の告白だ。あながち間違ってるわけでもないけれど、それにしてももう少し誤魔化しようがあるんじゃなかろうか。


 それでもその時の僕はもういっぱいいっぱいで、自分が何を言ってるかなんて考えている余裕なんてなかった。生まれて初めての、一世一代の勇気を振り絞った僕の頭の中には、「君が()きつけたんだから責任を取ってくれ」なんて自分勝手で我がままな気持ちが暴れまわっていた。

 意味不明な理由をつけて、彼女の傍にいたいと願った。本音はただ、“君と一緒にいたい”とか、“君の姿を見ていたい”とか。


 彼女の真っすぐな姿がすごく綺麗で、いつまでも見ていたいと思ったから。君がいつか壁にぶつかった時、今度は僕が君の助けになりたい、だなんて。そんな幼稚な恋心でしかなかったのに。


 続く言葉が見つからずにしどろもどろになる僕の目の前で、彼女はぽかん、と口を開けて固まっていた。それから数秒後、ぷっと噴き出して見せたのだ。


 くすくすと笑い続ける彼女を前にして、僕はもう恥ずかしさのあまりにどうにかなってしまいそうになった。もういい、ここから逃げ出してしまおう、なんてその場を去ろうとしたとき、彼女が顔を上げてこちらを真っすぐに見つめた。



「うん。私はね、北海道の大学に行こうかと思ってるの」



 今度は僕が固まる番だった。

 彼女が言った大学が遠い場所にあるとかそういうことではなく、彼女がそれを教えてくれるとは思っていなかったから。



「まさか、昨日の今日でそんなことを言いだすとは思わなかったけど」



 彼女は笑いすぎてこぼれた涙を拭きながら、悪戯げな笑みを浮かべてこちらを見つめた。

 それが、僕に向けた初めての笑顔だった。



「でも、私はそっちのキミの方が好みかな」



 その表情に、僕は一生彼女には敵わないのだと思い知った。



 それからいくつかの月日が過ぎて、翌年の春に僕らは無事に同じ大学への進学を決めた。

 その頃には僕らの関係はもうすっかり変わっていて。卒業式の日、緊張で死にそうな僕の人生二度目の勇気を彼女は真っ赤な顔で受け取り、大学での学生生活を経てそのまま結ばれるまでにそう長い時間はかからなかった。







「でも、あの時はびっくりしたな。てっきり僕の告白なんて余裕の表情で受け流すと思っていたのに、あんなに真っ赤になるなんて。......意外と初心だったんだな。......まあ、僕には言えないけど」



 墓の前で過去を懐かしんでいると、ふいに、視界が真っ暗になった。瞼に手をやると、そこには視界を覆う小さな手。



「さあ問題です。私はいったいだれでしょーかっ」


「おかえりなさい、陽向」


「はい、正解~」



 ぱっと僕から離れる小さな両手。振り向くと、そこには彼女に瓜二つの少女、陽向(ひなた)がひまわりのような笑顔で立っていた。


 陽向は僕と陽和の娘だ。結婚してから三年目に生まれた、二人の唯一の子供。今年で11歳になる彼女は年々陽和に似てきている。艶のある黒髪、可憐な顔立ちに愛嬌のあるえくぼ。笑うと優しげに細まる目元の部分だけは僕に似ているけれど、(みどり)(いろ)の丸い瞳は彼女のものだ。



「ミッションコンプリートであります! 頼まれていたお線香に庭仕事用のスコップ、ちゃんと買ってきたよ。ふふん、私、できる娘でしょー?」


「はい、ありがとう。でも、本当に一人でよかったのかい? 僕も一緒に行くって言ったのに」


「いーのっ! だって、おとーさんも二人きりの時間がほしかったでしょ?」


「......。こりゃ一本取られたな」


 得意げに笑う娘に驚きながらも、苦笑を浮かべて頭に手を置く。わしゃわしゃと髪を崩さない程度に頭を撫でると、陽向はきゃーと言いながら嬉しそうに笑った。

 人の気持ちを敏感に汲み取り、お節介を焼くのはどうやら彼女の血を濃く受け継いだようだ。




 ...




 彼女の姓が“夏宮”から“蒼上”に代わってから三年目のこと。


 ある夜、仕事を終えて帰宅した僕を、彼女は玄関先で待ち受けていた。

 腕組みをしながら玄関マットの上に仁王立ちし、扉を開けた僕に声をかけることなく、何かをこらえるような険しい表情で僕を見つめる陽和。


 その姿に鬼気迫る何かを感じた僕は、何か怒らせるようなことをしただろうかと戦々恐々としながら必死に記憶を漁っていた。そんな僕の様子にはお構いなしに、彼女は立ちすくむ僕に近づき、ぽすん、と胸に頭突きをくらわした。



「......できました」


「えっ?」



 小さく呟く彼女の声は、珍しいことにひどく弱々しくて聞き取りづらかった。心配して妻の顔を覗き込むと、彼女は顔を真っ赤っかにしてうるんだ瞳でこちらを見つめ、こう言った。



「だから、ね。子供が......できました」



 その夜。

 僕が妻を抱きかかえたままリビングを踊り狂ったことは言うまでもない。




 ...




 その年の春に、娘は無事に産まれた。

 それからは激闘の日々だった。陽向は夜になってもなかなか寝付かなくて、僕と陽和は交代で娘をあやさなければいけなかったし、病気にかかったりすると我が家は阿鼻叫喚で急いで病院に連れて行ったりと、心の休まるときはほとんどなかった。

 けれども、陽向が何かをできるようになるたびに僕らは抱き合って喜んだし、彼女の笑顔を見るだけで僕らは満ち足りた気分になった。娘の成長を見守る毎日は非常に充実していて、幸福な日々だった。



 そんなある日、陽向が3歳になる年のこと。娘に本を読み聞かせながら、子供の成長は早いな、なんて感慨(かんがい)に浸っている際にふと、思ってしまったのだ。


 こうして過ぎ去る日々の先に、いつかは陽和も消えてしまうのだろうか。


 いつかは死ぬ、なんて当たり前のことだけど。僕の前から陽和が消えることを考えたとき、拭い去れない恐怖が襲った。

 それは遠い昔に味わった感触で、僕はもう大人になっているにも(かか)わらず、ひどく怖くなってしまったのだ。



 僕より先に死なないでください。


 娘が寝静まった後のリビングで二人。ソファに座ってテレビを見ている彼女の横顔に向けてそう言うと、彼女は驚いて数秒固まった後、勢いよく噴き出した。


「あっはははは!! もう、いきなり何を言うのさ、君は!」



 綺麗な瞳の上に涙を浮かべて笑い続ける彼女を、僕は不満げな顔で見つめた。



「だって。君に先に死なれたら、僕はその先生きていける気がしない」


「えーそんなことないと思うけどなあ。案外、人って図太いもんじゃないかしら?」



 怒って黙り込んだ僕を見て、彼女はようやく笑いを引っ込め、代わりに苦笑いを浮かべて僕の右肩に寄り添った。



「もー、ごめんって。君がそこまで私のことを好きだったとは知らなかったからさ」


「好きだよ。大好きだ」


「なっ......」



 真剣な表情で間髪入れずに答えた僕に動揺したのか、彼女はさっと顔を赤らめてうつむいた。そのまま少しの間黙り込んだ後、まだ頬をかすかに赤らめたまま、いつもの悪戯げな笑みを浮かべてこちらを覗き込んだ。



「......いきなりなんだもんなぁ。まったく、こんなにお嫁さん想いな夫を持てて幸せ者ですよ、私も」


「......じゃあ約束してくれ。君が死んだら僕も後を追ってすぐに死ぬから、君も僕より先に死なないって。できるだけ長生きするって」


「あーはいはい、分かったってば。じゃあ約束ね。私は君より先に死にません。だから君も、あんまり早くには死なないコト」



 僕の髪を撫でながら優しげに瞳を細めた君に、僕は渋々と頷いた。

 


 指切りげんまん。今まで色んな約束事をして、中には守れずに喧嘩になることもあったけれど。

この約束は、絶対に守れますように。




 ...




 その夏の初め、彼女は交通事故にあって亡くなった。




 どうやって彼女を葬儀したのか、よく覚えていない。

 黒い棺の中に納められた彼女の顔はとても綺麗で、今にも起きてこちらに笑いかけてきそうなほど自然な表情だった。僕はもう言葉もないままぽろぽろと涙をこぼしながらそれを見ていた。


 きゅっと手が握られた。それでようやく、僕は彼女の顔から目を話すことができた。右手には娘の手が繋がれていた。触れられない彼女の方に懸命にもう片方の手を伸ばしながら、ぎゅっと唇を結んで翡翠の瞳に大粒の涙を貯めていた。


 泣きたいなら声にだせばいいのに。

 そう言いかけて、それは僕も同じなことに今更気づいた。



 その泣き方を見て、この子は僕の娘なんだと改めて感じ、

 その瞳の色を見て、この子は彼女の娘なんだと改めて思い知った。


 陽向、と名前を呼んでこちらを見上げた娘のことを、強く、強く抱きしめた。

 そうすることでようやく、僕たちは声を出して泣くことができた。







 彼女の墓の両脇に植えられたアサガオの手入れをし終わり、最後に線香を立てて手を合わせていると、横で陽向がぽつり、とこぼした。



「ねえ、おとうさん。私っておかあさんに似てるのかな?」



 びっくりしてそちらを見ると、彼女は手を合わせたまま悲しげにうつむいていた。

 彼女の顔に視線を合わせるようにして屈み、両手を包み込んで優しく声をかける。



「うん、そうだね。顔も性格もすごくお母さんに似ていると僕は思うよ。本音を言うと、もう少し僕に似る部分があっても良かったのになーなんて思ってるぐらいにね。でも、どうして?」


「......うん、あのね。私はあんまり、おかーさんのこと覚えていないから......」



 少しだけ痛むように目をつぶる陽向。ああ、そうか、と僕も遅れて気づく。


 彼女は不安なのだ。多くの時間を共に過ごせなかった母親が、自分のことを愛していたのかを。

 陽和が生きていたならば、そんな心配をすることはあるはずはないのだけれど、今となっては叶うことはない。


 僕はゆっくりと陽向を抱き寄せ、安心させるように背中をさすった。



「大丈夫だよ。お母さんはおまえのこと、この世の何よりも可愛がっていたよ」


「......ほんとう?」


「ほんと。僕のことよりもずっと大事にしていたんだから」



 そう言うと、彼女は驚いたように僕を見上げた。



「“陽向”って名前をつけたのもお母さんなんだよ。『初めての子供には私の名前をつけましょう』なんて言って強引に決めたんだ。家族なんだからつながりのある名前を付けたいし、それと娘なら私のように綺麗な人になれるように、ってね。......まあ、僕としては後半の理由はどうなんだと思ったけれども」



 困ったもんだ、と肩をすくめると、その様子がおかしかったのか陽向はくすくすと笑った。その仕草に目を細めながら、彼女の頭を優しくなでる。



「だから、心配しなくて大丈夫だよ。お母さんはいつもおまえを見守っているだろうし、何よりも愛しているんだから。愛してるってとこに関しては僕も負ける気はないけどね」


「ふふっ、知ってる。おとーさん、()()()()ってやつだもんねー」


「おうともさ。娘を愛する気持ちじゃ誰にも負けないんだぜ、僕は」



 陽向はやっと元気になったのか、いつもの明るい笑顔を取り戻した。

 そんな彼女と並んで、白い石碑に最後の挨拶を済ませる。



「じゃあね、陽和。またくるよ」


「バイバイ、おかーさん。元気でね」



 荷物を担いで彼女の墓を後にする。


 陽向はさすが子供と言うべきか、ここに来るまでにへとへとになった僕とは違って元気があり余っているようだ。僕の手から重そうな袋を取り上げると、舌を見せてたたた、と階段の方へ駆けていく。

 その愛しい娘の後ろ姿を見ながら、僕は陽和がここにいたらどんな表情をするかな、なんて考えていた。



 彼女に背中を押され、あの閉じられた世界から足を踏み出してもう10年以上経った。

 陽和と一緒に道を歩き、たくさんのものを受け取って、たくさんのものを失ったけど。僕はやっぱり、あのとき彼女に出会えて本当に良かったと思う。


 本当は、今すぐにでも会いたい気持ちは、消えてくれることはないけれど。




 ───陽和さん。どうやら僕は、まだそっちに逝けそうにありません。

 僕たちの宝物が、成長して大人になるその日まで。いつか、君のように素敵な人になれるその日まで。悲しませぬように大切に、守り育て続けたいと思うのです。



 だから、ごめんなさい。

 キミとした約束は、まだ守れません。


 すぐに会いに行くって約束をしたけれど。君のもとに逝くには、重すぎる約束が僕の腕に抱かれているから。



 もう一度会えた時、彼女は怒っているだろうか。いつかみたいに拳を振り上げながらぷりぷり怒って、僕の身体を叩くのだろうか。

 

 そうやっていつもみたいに怒りながら、僕のことを待っていてくれるかな。



「おとーさーん、早く早くー!もうバスが来ちゃうよー」



 娘の声に手を振って応える。君に後ろ髪を引かれながらも、僕は小走りに階段を駆け下りていった。



 木の葉を揺らす風がふわりと僕の肌を撫でていった。

 ふと、僕の耳に懐かしい笑い声が聞こえた気がした。



 涙がこぼれそうになるくらいに透き通った青色の下を、(きみ)の風が流れる。


 今日も。君のいない日々を、君との宝物とともに生きていく。





ご読了、ありがとうございました!


日比野ヒビキの二作目、楽しんでいただけたのであれば何よりです。

本作はアニメイトブックフェア2021との合同企画、「耳で聴きたいコンテスト」用に執筆した短編小説です。『耳で聴きたい』には少々自信はないですが......、後味の悪くならないようにはまとめられたかなあ、なんて思っております。


まだまだ語彙も表現も未熟ではありますが、評価などしていただけると大変ありがたいです。


改めまして、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!

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