第三話 風呂入らんからハゲるんちゃうん?
「おい、聞いたか? 昨日ギルドの冒険者採用試験に、やべぇ奴が志願してきたんだとよ。あの“暴君”エドガルドを一撃で沈めたらしいぜ」
酒場のへべれけが、隣の友人にふとそんな話題を振ったのが聞こえた。比較的酔いの浅い男の方はあぁ、と相槌を打ちつつ、
「そりゃ知ってるぜ。“名無しの天才剣士”だろ? 頑なに本名を語りたがらず、その度にふざけた事ばかり言うらしい。全く変な奴だよな」
そう言って両者がガハハと卑しく笑うのを、少年はカウンター席の一番端で片肘をつきながら眺めていた。
天才剣士。そう言われる事に関しては正直悪い気はしないが、その前の“名無し”という枕詞がどうにも気に入らない。
(あんなに必死に、何遍も何遍も説明したのにな)
……里を出てからもう数日が経過した。山を降りた後、夜が明けるまで馬鹿みたいに一心不乱に走り続けていたら、知らない土地の知らない町に辿り着いた。
その町にある安い宿で逗留しながら自分に合いそうな仕事を探していたところ、強さが金に直結する“冒険者”という職業を知った。
こんなん天職やんけ、とその日の内に意気揚々とギルドに向かい、試験に応募したのだが……その際に少々、というか色々ガッツリやらかしてしまったのだ。
「……マスター、のむヨーグルトを下さい」
虚空を見つめるかのように茫漠とした表情をキープしたまま、目の前のマスターに声をかける。まだ未成年なので酒は飲めないが、この酒場は宿の物凄く近くにあるので、最近暇つぶしで通っているのだ。
「良いけど……やばお前……酒場にのむヨーグルトが当然あると思ってるの怖すぎる」
「のむヨーグルトで粉薬とか飲むんすよ俺」
「こわ……ダメなんじゃないのそれ」
そう言いながらテキパキと用意を進めるマスターを尻目に、俺は昨日の事を思い返しつつ長い嘆息を溢した。
「あー恥ずかし、思い出したないわぁもう」
◇◇◇◇◇
あの日、ギルドには異様な空気が立ち込めていた。
受付嬢の冷ややかな目線の先には、今にも泣きそうな顔をして必死に頭を下げ続ける少年がいる。
さっきまで愉快そうに笑っていた周囲の冒険者達は不思議と静かになり、まるで部屋の隅に幽霊でも見つけてしまったかのような目で、或いは押し潰した羽虫の死骸でも睨むかのような目で少年をじっと観察していた。
「……もう誰も笑ってませんよ。本名をお願いします。そろそろ追い出しますよ」
「いえあのマジで……マジで“ネオ膝枕ヤンキー”は本名なんです。信じてください、ほんまです」
ついに涙を滲ませ始めたネオ膝枕ヤンキーの様子に痺れを切らし、受付嬢は短く溜息をついた。可愛らしくハーフアップを施した焦茶色のセミロングが微かに揺れる。
「……ほんま、ですか?」
俺の特徴的な方言のアクセントを軽く真似つつ、皮肉るような微笑を浮かべる。綺麗な臙脂色の瞳から繰り出されるジト目は可愛らしくも、当時の俺にはひたすら残酷だと思えた。
こういう場合に珍妙な名前を名乗ると無駄な猜疑を生む事になるのでなるべく控えたかったのだが、世間知らずの俺に偽名を使う度胸は無く、かといって柊を名乗る訳にもいかないので、もはや“ネオ膝枕ヤンキー”で果敢に激突していく他なかったのだ。
「ほんまにほんまなんです!」
「……分かりました。特別にその名前で試験には仮登録しておきますね。 今回は事情を察しておきますが、本登録の際は偽名でも何でも良いので、とにかく分かりやすい名前を用意しておいてください」
そんな状況だったのだが、彼女は相変わらずの冷淡な物言いでとても寛大な処置を下してくれた。
「あ、ありがとうございます……! もし合格したら、僕の身の上も軽く交えて全部説明しますんで!」
「そんな時間は無いので結構です……と言いたい所ですが、個人的に少し興味があるのでまた今度聞かせてくださいね」
惰弱っぽい受付嬢はまた僅かに微笑んでそう答え、走り書きで名前を記した小さな紙を手渡す。
それを受け取ろうとした瞬間、視界がうっすらと暗くなるのを感じた。
「冒険者試験ねぇ……」
「おっ誰や」
「……あら、何しに来たんですか?」
手渡された紙は、突如現れた巨大な腕により視界の斜め上へと持ち去られてしまう。
そのまま背後に視線を移していくと、二メートルは悠に超えているであろう巨躯を持つ男がニマニマと気色の悪い笑みを浮かべ、俺を見下げていた。
「お前みたいなガキでも、一応志願はできちまうんだもんなぁ……」
「うわくさっ ヴッ え、何者なんすかこのデブは」
「……この町のギルドで最も腕の立つ、“Aランク冒険者”のデブのエドガルドさんです。本当に臭くて困ってます」
「ヤバいっすね」
そんな両者のヒソヒソ話が聴こえたかは不明だが、エドガルドというらしい男は驕慢な態度を隠す素振りもなくカウンターへとにじり寄った。
「……おいペトラぁ、お前も少しは志願者の選別ぐらいしろよ? 弱ぇ奴はこれ以上ギルドに要らねぇ、こんな雑魚なんざ門前払いでいいんだよ」
男はネオ膝枕ヤンキーを乱暴に払い除け、受付嬢の目の前に立つ。
「用が無いなら帰って下さい、貴方に任せられそうなクエストは今日もありませんので」
ペトラと呼ばれた受付嬢は、先程の問答とは比べ物にならない程に凄然とした目付きで男を睨んでいた。臭いだろうに。
辺りには一瞬で張り詰めた空気が漂い始め、その場にいた殆どの冒険者達が足音を殺してギルドから出ていくのが見える。
「ええからはよその紙返して下さいよ……てか腕毛えぐ むちゃくちゃ黒アリ這うてんのかと思った一瞬」
指摘された腕毛をちらりと一瞥した後、エドガルドはネオ膝枕ヤンキーを睨みつけ、小汚い髭を蓄えた口角を更に吊り上げていく。
「ハッ、弱っちいクソガキほど威勢だけは良いんだよな。……“ネオ膝枕ヤンキー”、なんだこの名前。冒険者舐めてんなら俺が殺してやるぜ?」
背負っていた巨大な戦斧を片手で構え、ネオ膝枕ヤンキーの眼前に突きつける。碌な手入れもされていないどす黒い鉄塊は既に光沢を失い、彼の姿を一切映さない。
「……ネオ膝枕ヤンキーさん。悪い事は言いません、早く逃げて下さい。本当に殺されますよ……!」
先程まで割と冷静に対処していたペトラが、かなり真剣な表情で警告してくる。
このギルドで最も腕の立つ冒険者、という肩書きはどうやら間違いでもないようだ。
「ハッ、ビビって声も出ねぇか。話になんねぇな……ガキはギルドに必要ねぇ、ここで死ぬか、黙って出てくかどっちか選べよ」
軽く頭をはたかれたが、ヤンキーは意に介さず高く跳躍して素早く紙を奪った。
「……あ?」
「っよいしょ……あんま調子乗んなよおっさん。ギルドという名のウンコにハエみたいに集っとるだけのショボい冒険者風情がガタガタ抜かすなや」
「なんかしれっとギルドにも攻撃しましたよね今」
流石に少々イラついてきたので、殊更分かりやすく煽り文句を言い放ってから出口の扉へと向かう。
今日はもう疲れたのでさっさと宿に戻って休みたい。面倒な事になる前に早く帰……いやでも腹立つなぁアイツ。もうちょっと言っとこ。
「あとお前ちゃんと風呂入れやハゲコラァ! 泣かすぞォォ!!!」
「……あぁ? この、クソガキァッ!!」
「ヤンキーさん! 危ないッ!」
多分ハゲが地雷だったようだ。
エドガルドは巨大な戦斧を丸太のような腕で軽々と操り、周囲を薙ぐようにして思い切り振るった。
餌食となった木製の丸テーブルや椅子の一部が砕け散り、空間に木片混じりの埃が舞い上がる。
「っと……すんません、関係無いのにいらん迷惑かけてもて」
だが少年は、その場から一瞬で消えるようにして、悠々とエドガルドの一撃を躱してみせた。
「……え?」
────回避のついでに、エドガルドの攻撃の軌道上にいた一人の少女を救け出しながら。