第二十二話 強火は初心者の思う中火
久しぶりに安眠できた気がする、というのが今朝を迎えてから初めての思考だった。
ニコルはベッドから上体を起こし、視界に散らばる前髪を軽く整えてから、おもむろに窓へと手を伸ばした。
眩い光と共に目に飛び込んできたのは、早朝の夢幻的な空気感の漂う小さな丘の連なる草原。見慣れない風景ではあるが、そこには思わず息を呑むほどに美しく壮麗な世界が広がっていた。
言いようもなく心が安らいでいるのはきっと、魔族である自分の存在をひた隠して生きていく日々が突然終わりを迎えたからだろう。
もし彼と出会わなければ……こうして穏やかな朝を迎えることも叶わなかったのかもしれない。
「……寝顔でも、拝みに行こうかしら」
そう言って、手元の蝋燭を引き寄せてベッドから抜け出した。
戸を開き、薄暗い廊下に出る。
天窓からは微かな朝日が差し込み、階段から居間にかけての吹き抜けを青白く照らしている。
ここはギルド上層部の最終判断を待つにあたり、フェルナンドから一時的に住まわせて貰っている彼の別邸だ。
試験を終えてから、一旦各自の拠点に戻って私物を持ち込み、ギルド加入に際しての煩雑な手続きをあらかた片付けた時には既に日は沈みかけていた。
そんなこんなで積み重なった疲労により、昨晩は両者とも半ば倒れるようにして眠りに就いてしまったのだが、今一度しっかり見てみると中々に立派な屋敷である。それ故に使用する部屋も選び放題だったし。
(いない……?)
という訳で、ハルが昨晩嬉しそうに選んでいた最もふかふかなベッドの部屋を訪れてみたのだが。そこには既に彼の姿は無く、あるのは使用された形跡を全く感じさせないほどにきちんと整えられたベッドだけだった。
ピシッと皺を伸ばされたシーツや毛髪一つ付いていない枕からは、借りた物を決して粗雑に扱わない彼の几帳面さが窺える。
……どうやらハルは私よりも早起きだったらしい。あんなに朝に弱そうな顔をしているのに。
若干の敗北感を感じつつ寝顔は諦め、素直に居間に降りることにする。
部屋を出てひたひたと階段を降りる最中、辺りに馥郁とした香りが立ち込めていることに気付いた。
「あ、ニコ。おはようさん」
「……おはよう、随分と早起きなのね」
ハルはどうやら厨房にいたらしく、挨拶を交わしながら二人分の器に盛られたライ麦のパンとスープをテーブル上に並べていく。
「わざわざ用意してくれたの?」
「おう、あとちょっとやから座って待っててな」
ハルはそう言って素早く厨房に戻ってしまった為、感謝の言葉を伝えそびれてしまった。とりあえず、言われた通り席に着いて待つことにする。
目前で揺らめくスープの湯気に気を取られそうになりながらも、ニコルは辺りを見回した。
高級感のある調度品や家具がいくつか目に付くが、それ以上に特段目立つようなものは無い。生活に必要な最低限の物品だけが整然と並んでいる。
とにかく無難な印象で、人が暮らせば必然的に漂う、ある種の生活感のようなものは感じられなかった。
「……綺麗なテーブルね」
そう言って表面をなぞっても、指先には埃一つ付かない。
────やはり、妙だ。昨日から薄々感じていたが、このテーブルに限らず、忙しい冒険者の別邸にしてはあまりに隅々まで綺麗すぎる。
使用人を雇っている訳でも無さそうだし、わざわざフェルナンド本人が別邸の清掃の為に時間を割くとも思えない。
というか、そもそもだだっ広い草原の中にぽつんとこんな屋敷が聳えているというのも奇妙である。恐らく、この屋敷は──
「なんか違和感あるよな、ここ」
あれこれ沈思黙考していると、背後から思考を読み取ったかのような声が聞こえてくる。
ハルが帰ってきたようだが、なにやら何かを誤魔化すような笑みを浮かべていた。
「いやぁ勝手に朝ご飯作ったんやけど……なにぶん初めての料理やからちょっと、食材いわしてもうて」
「何? 食材をいわすって」
彼の独特な言語感覚はさておき、躊躇いがちにテーブルに到着した最後の一皿は、炙りすぎたのか所々焦げ付いた塩漬け肉だった。
「ほんまごめんやねんけど、食えるとこだけ食ってくれや」
「いえ、作ってもらって文句なんか言わないわ。私も初めて料理した時なんかは酷かったし」
「へぇ、そうなんや? 器用そうやからちょっと意外やわ」
「……ええ」
苦い思い出だ。なんなら、あの時は食べ物としての体裁すら保っていなかった気がする。
それと比べれば、おこがましい言い方にはなるが初めての料理にしては良く出来ていると言えるだろう。
「あ、そういえばさ」
彼はパンを齧りながらそう言い、こくんと嚥下した後で言葉を続けた。
「北っ側の山越えた先にめちゃめちゃでっかい城塞都市見えたんやけど、あれって多分王都よな?」
朝食を用意しつつ山も越えてきたの……?
そう言いたくなるのをぐっと堪えつつ、私は黙って頷いた。
部屋の窓から北へ向かっていく商人の馬車も何台か目にしたし、地理的に見ても王都があるとすればこの近辺のはずだ。
「それで、さっき言ってた違和感やねんけど。ここは色々綺麗すぎるし、食料も揃いすぎてるよな……俺らがここに来ることを予め把握しとったみたいに」
途中で口に含んだスープに薄っ、と漏らしつつ、ハルは私に確かめるように結論を述べた。
「ここって多分、俺らを王都から監視する為の家なんちゃうかな。俺らみたいな危険な存在をこんな放っとくようなこと、まずせんと思うし」
「同感ね。一先ずはそう考えるのが妥当でしょう」
ハルも私と同じことを考えていたらしい。
ここはフェルナンドの別邸ではなく、ギルドが所有する言わば檻のようなもので、要注意人物の素性を探る為の場所なのだろう。
とすれば、ギルド本部が所在する王都に近く、見晴らしの良い平原に位置するこの立地もなんら不思議ではない。
「変に怪しまれてはいけないし、次の連絡が来るまではじっとしておきましょう」
「まぁでも敷地は広いし、ちょっと戦るぐらいやったらええんちゃう?」
そう言って、ハルは携えていた刀を持ち上げる。
「弓術士と戦うのは昨日が初めてでさ……イメトレにちょっと付き合うてくれん?」
「構わないわ。他にやる事もないでしょうしね」
「ありがとう! 助かるわ」
そう言って人懐こい笑顔を見せるハルに、こちらの顔も自然と綻んでしまう。
……初めて会ってからまだ数日しか経っていないのに、お互いに心を開きすぎているような。
まぁでも、多分大丈夫なんだろう。母さんからも『ありがとう』『ごめん』を衒いなく言える人間は大体信用できる、と教わったし。
「ふふ、こちらもありがとうね。美味しい朝ごはんを作ってくれて」
「お、皮肉か?」
「……そこは素直に受け取りなさい」




