7話 平常心が保てない
「シェリル、あの者と一体どこで知り合ったんだ?」
朝食の席で、兄のケイオスが尋ねてきた。
シェリルはスクランブルエッグを匙ですくう手を止め、正直に首を横に振った。
「いいえ。私には心当たりがなくて……」
「はぁ、既に婚約が破棄されていて良かったが、なぜ……?」
ケイオスは食事に手を付けず、腕を組んだまま息を吐いた。
「あの後、獣王と話をした。二週間後にはお前を連れて、故国へ帰りたいそうだ」
「二週間後?」
シェリルは素っ頓狂な声を出してしまった。
貴族の娘として、輿入れの準備とか諸共を考えれば、せめて、一か月くらい期間が欲しいところだ。あまりにも早すぎる。
「獣国へ行くためには、海を船で渡らなければならない。
これ以上季節が過ぎれば、海が荒れて酷く揺れるだけではなく、慣れぬ者には辛くなるらしい」
「しかし、それだけの理由で?」
「裏がある。そう考えた方がいいな」
ケイオスは断言した。
シェリルと同じ赤い髪を神経質に触りながら、まっすぐこちらを見つめている。
「我が家は伯爵家とは名ばかりで、没落した貴族だ。表向きには、未来の王妃を貶めようとした悪役といってもいい。
少し調べれば、我が家が没落したと分かっているはず。その娘をわざわざ娶ろうなど何を考えているのだ? それも、あのような場で……一歩間違えれば、国際問題だぞ」
シェリルは何も答えられなかった。
匙によそったスクランブルエッグのぽたぽたと皿に垂れる音だけが、異様なまで耳に届いている。シェリルは匙を皿に戻すと、何気なく黄色の海を掻き混ぜた。
「コンラート様は……私のことを前から知っていたみたい」
スクランブルエッグの黄は彼の金髪とは程遠い色だったが、この状況で想起させるには十分だった。もちろん、こんな食べ物より、彼の髪の色は気高く、太陽をいっぱいに浴びて蓄えたような輝きを感じさせた。
あのような輝きの持ち主と出会っていれば、絶対に覚えているはずだ。
それなのに、シェリルの記憶に彼の存在は出てこない。
「っく、父上がいれば……」
ケイオスはぐっと拳を握ると立ち上がった。
「昼頃には、一行が来る。
詳しい話を聞けるだろう。だが、シェリルのためにならない婚姻だった場合は、私はお前を是が非でも守り、結婚を阻止する」
「兄様、それは!」
「私はネザーランド家の当主だ。大事な妹が危険な目に合うのを見過ごすわけにはいかない」
兄は話を終えると、つかつかと部屋を去った。
シェリルはその背中を目で追いかける。
兄の背は父の背中より狭い。狭くて小さい。その上に圧し掛かった重圧と責務は、どれほど彼を苦しめているのだろうか。
(兄様、ありがとう)
自分も兄の重圧の一人だ。
それなのに同時に、シェリルの心にぽっと灯火が生まれる。
自分を政治的な駒としてではなく、たった一人残された家族として扱ってくれることが、とっても暖かくて、嬉しく思えた。
「なぜ、近衛の制服なのだ!!」
それから、数時間後。
こうして兄が顔を真っ赤にして怒ってくれたことも嬉しく感じたのは、たぶん自分は末期なのだろう。
「獣国の王をお迎えするのだぞ!? いや、正確には、夫となる男と王だが……」
「はい。だから、正装でお迎えするのが筋だと」
「それは近衛兵としての正装だ! もっと、女性らしいドレスがなかったのかい?」
「普段着ばかりでした」
シェリルはクローゼットを思い出して、苦笑いを浮かべた。
無論、シェリルだって着飾りたかった。
お淑やかなドレスを着て、髪は流行りの編み込みを入れたかった。
しかし、肝心のドレスがない!
10歳から騎士学校で寄宿舎生活を送り、卒業と同時に近衛兵となった。
12歳で社交デビューはしたし、夜会にも出たことはあったが、そのドレスは売り払ってしまっているので、手元に残っているのは、普段着用の飾り気のないワンピースだけである。
シェリルが説明すると、ケイオスは疲れ果てたように近くのソファーに座り込んだ。
「それなら、姉さんのドレスを……いや、無理か。背丈がまるで合ってないし、胸回りはぶかぶかだ」
「兄様、失礼ですよ。それに、尻だけは姉様より大きい自信があります」
「それは良いのか悪いのか……だが、姉さんのが使えないとすると、母さんのドレスはな……型落ちしているし、探すのに時間がかかり過ぎる。無理やり着せるか? 使いを出して、既製品を買いに行かせるか?」
ケイオスがうんうん唸っている。
だが、現実とは非情なものだ。悩んでいる間、時は止まってくれない。
「旦那様、お嬢様。お客様がお見えです」
侍女が来客を告げる。
残念、タイムリミット。もう服を替えることはできない。
「はぁ……シェリル、行くよ」
「はい、兄様」
どこか疲れたような兄と一緒に、玄関ホールへと向かった。
「ようこそ御出でくださいました」
兄は、先ほどまでの様子はおくびも見せず、完璧な笑顔で獣国の一行を出迎える。ジーク、コンラート、ヒルダの三人組だったが、主人であるはずのジークが半歩、コンラートの後ろに下がっているように見えた。
さすがに、栗鼠はいない。
「ネザーランド伯。シェリル嬢」
コンラートはシェリルに微笑を向けたあと、丁寧に頭を下げた。
「昨日の今日でおしかけてしまい、申し訳ありません」
「とんでもありません。さあ、こちらへ」
居間に着くと、ジークとコンラートだけが椅子に座った。
ヒルダは護衛の仕事に徹するようだ。
「私は一国の王である前に、今日は彼の付添い人です。お気になさらず」
ジークは悪戯っぽく笑った。白い髪に金糸を編み込んでいないし、清潔なシャツにグレーのズボンといったラフな服装である。ヒルダも同じく市井に紛れるような服装だった。
コンラートの方はというと、きっちり軍服を纏い、ケイオスだけを真剣に見ていた。ケイオスもコンラートを推し量るように見返している。
「貴方が、コンラート・ライラプス侯爵でしたね」
ケイオスは膝の上に手を置きながら、しげしげと彼を見つめた。
「26歳でしたっけ? その年で将軍を拝命しているとは恐れ入りました」
ケイオスが話し始めた。
そこではじめて、目の前の青年が将軍だったことを知る。声はギリギリ抑えられたが、驚いて数度、瞬きをしてしまった。
「貴方は歴代最年少で就任したとか」
「四大将軍でも序列は低い方です」
彼は謙遜するように笑う。
「無我夢中で剣を振るっていたら、この地位になっていました」
シェリルは彼の話に耳を傾けた。
今日のコンラートの話し方には品位を感じた。昨夜の馬車で交わした砕けた話し方が素で、こちらは外向けの話し方なのだろう。
だが、特に裏表があるようには感じず、どちらも真っ直ぐ心に入ってくる。
彼の隣でニコニコしている王も聞きやすい声をしていたが、あちらは常に神経を張って探りを入れて行かないと、隙を突かれて、彼の良い方向へ持っていかれるような恐ろしさを感じた。
「しかし、私は分かりません」
ケイオスが本題に切り出すのが分かった。
シェリルも心を引き締め直す。
いくら真っ直ぐな人だと思っても、それは演技の疑いもある。いや、シェリルの直感では嘘を言っているようには思えないのだが、シェリルの直感に過ぎない。
あの王よりも巧妙に嘘を仕込まれているかもしれないのだ。
だいたい、女っ気の欠片もない自分を嫁に望む時点で、裏があるに決まっている。
あの優しさも気遣いも、嘘に見えないだけで、本当は違うかもしれないのだ。
「将軍ともなれば、自国で嫁になりたいと願う令嬢は多いのではないでしょうか?
貴方の国にも見目麗しい女性が多いと聞いておりますが」
ケイオスは口調こそ柔らかかったが、眼が笑っていない。シェリルには『妹を女癖の悪い将軍の正妻にさせるものか』という副音声が聞こえた気がした。
「それなりに縁談はあります。ですが、シェリル嬢がいいのです」
「その理由は?」
「非常に、言いにくいのですが……」
コンラートは言い淀んだ。
絶対にされる質問だと、会いに来た段階で分かっていたはずなのに、どこか恥ずかし気に視線を泳がせる。しかし、さすがは武人だ。わずか数秒で気持ちを整え直すと、どこまでも真摯な目をシェリルに向けてくる。
「彼女の目に、惹かれました」
コンラートは照れくさそうに、シェリルを見つめていた。
「エクシールの親善試合。
あそこで、シェリル嬢を垣間見ました。俺、いや、私は貴方の力強く、凛々しい瞳に釘付けになったのです」
シェリルは黄色い瞳を見返しながら、記憶を辿った。
しかし、記憶にコンラートの姿はない。そんなシェリルの表情を見て、コンラートは苦笑を零した。
「分からないのも無理はありません。私は観客席にいましたから。
貴方は相手を叩きのめした後、その場でスカウトされていましたよね?」
「ええ、はい」
表彰式の直前、シェリルはエクシール騎士学校の校長から
『ぜひ留学を。ゆくゆくは我が都市の騎士隊へ将校として迎え入れたい』
と勧められた。
破格の待遇である。エクシールは各国から選りすぐりの者たちが集まってくるので、一度揉め事が起きると国際問題やらなにやら大きく膨れ上がってしまう可能性が高い。
よって、あの都市の騎士隊は、各国から引き抜いた選りすぐりの者たちによって構成されているのだ。
だが、きっぱりと断った。
「「私の剣は、姉のために捧げると決まっております」」
シェリルの声とコンラートの声が重なる。
シェリルは事実を受け入れるのに、瞬き二回ほどかかった。
あのやり取りは表彰式の直前だったが、会場の端っこの目立たない場所で交わされていた。それも本当に数分もかからない短い交渉だった。
それを、ここまで完璧に覚えている相手が当事者以外にいるとは、まったく思っていなかったのだ。
「貴方の戦いが気になったので、観客席を出て、そちらへ向かったら、その話が聞こえました。
それで、貴方への興味が、更に膨らんだんです。
しかし、表彰の後に姿を見失ってしまい、必死に貴方を探して、やっと脇にはいった廊下で見つけました。
すぐに話しかけたかったのですが、家族と笑い合っている姿が、とっても幸せそうで……声をかけるのが野暮な気がしまして」
これが戦場であれば、冷静に剣を構えることができた。ローゼの虐めだったら、いつも通り心に蓋をして耐えきることができた。
しかし、経験したことのない熱い視線と照れくさそうな笑顔を向けられて、シェリルはなかなか平常心を保てない。
「幸せそう、ですか」
シェリルは恥ずかしさを誤魔化すため、彼に質問をする。
「家族と一緒にいましたけど、声をかけることを躊躇うほどではないかと思います」
「どう表現したらいいのか……ずっと悩んでいたんですけどね。なかなかしっくりくる言葉が見つからない。シェリル嬢の花が綻ぶような、この世の幸せを集めたような笑顔が、誰よりも可愛いなと。
あんな素敵な笑顔を家族に向ける人は、きっと素敵な人だと思いました」
「か、可愛いですか?」
シェリルは声が少し上ずってしまった。
確かに笑っていた。大好きな家族が自分の晴れ舞台を見に来てくれたことに喜び、年甲斐もなくはしゃいだのは事実だ。だが、その笑顔を見られていただけでなく、可愛いとか至上のもののように表現されて、シェリルは穴にあったら入りたくなった。
あまりに照れ恥ずかしくて、ぼんっと破裂しそうになる。必死に膝の上で拳を固め、顔を覆いたい気持ちを堪えた。
「あの場では立ち尽くしてしまいましたが、後日、貴方の父上に『彼女を嫁にください』と頼みに行きました。
そうしたら、
『獣人に娘はやれん。
だがまあ、五年以内に将軍の座に上り詰めたら、考えてやらんこともない』と」
「それって……かなり難しい条件ですね」
シェリルは息を飲んだ。
わずか五年で将軍になれるほど、世の中は甘くない。将軍とは剣に優れているだけではなれないのだ。
『個人で敵の大半を殲滅したけど、友軍を一個師団巻き込んで皆殺しにしてしまいました』
では、話にならない。
よって、軍略に関する知識や自国だけにとどまらず、国際法令から政治的観念に部下の扱い方まで、さまざまな要素を必要とされる。
ましては、四大将軍になるなんて、計り知れない努力があったことだろう。
それを為しえてなお「考えてやらんこともない」レベルなのだ。婚約が結ばれるとも限らないし、事実、シェリルには婚約者がいた。
おそらく、彼も感づいていただろう。だがしかし、彼は一心で努力した。
そのことが、何より凄いと感心してしまう。
「なるほど。それが、将軍になった目的か……」
兄が難しい顔のまま頷いていた。
険しく眉間にしわを寄せ、どことなく厳つい顔でコンラートを見据えていた。
「……分かった、ライラプス殿。妹を嫁に出そう」
「兄様っ!?」
シェリルは素っ頓狂な声を上げてしまった。
ケイオスは、睨み殺さんばかりの勢いでコンラートを見ていた。
「だが1つだけ、条件がある」
ケイオスは、静かに口を開いた。
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※次回更新予定は30日の16時を予定しています。