4話 挙式前日の世間話
「つーかーれーたー!」
シェリルは、ベッドに倒れ込んだ。
どさっと音と共に薄らと埃が舞った。シェリルは咳き込みながら、どれだけ長い間、この部屋に戻っていなかったのかを実感する。
近衛の宿舎ですらこの有様。自宅の部屋がどうなっているのか、考えたくもない。
「……まっとうな仕事があるだけマシか」
あくまでも表面上は。
ローゼは、シェリルを「自分の玩具として」使っている。
こうして自分が大人しく従っている間は、兄に手を出すことはないだろう。
「私が頑張らないと、兄様に迷惑がかかる」
シェリルは天井を見つめながら、ローゼの行動を思い返した。
ローゼは、ジークに首ったけだった。
ジークに接触しようとしたり、甘い声や潤んだ瞳を向けたり。恋人の逢瀬のようなことを度重なって行うので、むしろ、相手側から
『私と二人でいると、他の方に誤解されてしまうのでは?』
と、やんわり指摘されたほどだ。
ローゼはやっと彼から距離を少し置いた。
『申し訳ありません。私としては、遠路はるばる来てくださった方を持て成そうとしたつもりでしたが……』
シェリルは呆れてものが言えなくなった。
どう考えても、獣国の王を篭絡しようとしていたようにしか見えない。ローゼの裏の顔を知っているからなのかもしれないが。
もっとも、彼らは怪しいので、ローゼの護衛という名目で監視できるのは願ったり叶ったりだ。
ローゼの一挙一動に注意しながら監視するのは骨が折れるが、彼らがシェリルに話しかけてきたのは最初だけ。時折、金髪がシェリルに視線を向けてきていたが、それ以外に変わったところはなかった。
「いや、今はあの二人より、あの女か」
シェリルは嘆息する。あの女は
『明日は結婚式だから、今日は休みなさい』
と、言ってきたのだ。
絶対になにか裏があるはずである。
しかし、下手に動いて何か不都合な事実を捏造されたくない。
だから、今日は一日、この部屋でのんびりするつもりである。
近衛待機所の出入り口には門番がいる。出門した記録がない限り、シェリルが外で悪さを働くことは不可能なのだから。
シェリルはそう思うと、瞼を閉じた。
ゆっくり、沼に引きずり込まれるように、眠りの海へ落ちていく……
とんとん。
扉を叩くかすかな音で目が覚める。
シェリルは目をこすりながら起き上がった。窓から差し込む陽光から考えるに、まだお昼過ぎくらいだろうか。
とんとんとん。
再び扉が叩かれる。
シェリルは首を傾げながら、扉に向かって歩き始めた。
嫌われ近衛兵かつ没落貴族に会いに来る稀有な人間はいない。
「はい、どちら様でしょう?」
シェリルは扉を開け、隙間から見えた人物に眼を見開いてしまった。
「じ、ジーク・フランベルク様!?」
「ジークでいいですよ。ふふ、驚いた顔は可愛いですね」
シェリルは愕然とする。
獣国の王が楽し気に微笑んでいたのだ。おまけに首元を小さな栗鼠がちろちろ動いている。
「ああ、この栗鼠はお気になさらないでください」
「は、はぁ」
シェリルは息の抜けた返事をしてしまった。
当然というべきか、獣王には護衛も付き従っていた。コンラートともう一人、ピンク色の髪をした騎士が控えている。スレンダーな美人で、ぱっちりとした大きな瞳が特徴的な女騎士であった。
「立ち話もなんですから、中に入れてもらえませんか?」
「は、はい。こちらへ」
シェリルは警戒しつつ、彼らを招き入れた。
(制服のまま寝込んだから良かったけど、何故ここに?)
ジークを椅子に誘導しながら、シェリルは疑念を募らせた。
「今日は休みでしょう?
ネザーランド伯爵家の娘と聞いています。遠慮することはありません。座りなさい」
「……はい」
シェリルは彼とテーブルを挟んだ反対側に座る。
「お茶も菓子も用意できませんが……」
「構いませんよ。世間話をするだけですから」
ジークはにこりと微笑むと、テーブルに右肘をついた。白い掌で頬を支えながら、どこか楽しむようにこちらを見てくる。シェリルは紫の瞳から目を逸らし、背後に控える二人に視線を向けた。コンラートは笑いかけてきたが、ピンク髪の女騎士はすました顔をしている。
「紹介していませんでしたね。こちらはヒルダ。私の騎士です」
ヒルダは一礼する。
完璧な一礼だった。王家に仕える近衛隊でも、あそこまで完璧な礼をする人は少ないだろう。さすがは、王の護衛だと感心しながら、シェリルは相手の真意を測ろうとした。
「陛下は、我がネザーランド家をご存じなのですか?」
「それなりに。たとえば、本来は貴方の姉が王太子妃になる予定だったこととか」
ジークの笑みに不穏な影が混じる。
「あの娘が王子の心を射止めたとはね。意外というべきか」
「あの娘?」
まるで、ローゼのことを知っていたような口ぶりである。
シェリルが問いかけると、ジークは口元に怪しげな微笑を浮かべながら目を細めた。
「賢者の街 エクシールは知ってますね。
同じ学校に通っていたのです。向こうは覚えていなかったみたいですけど」
賢者の街はいわば、学園都市である。
商売を学ぶ学校や王族が通うための学校など、それぞれの最優の学校だけで成り立つ町である。学園都市というのは簡単だが、その自治制度を考えれば、実質的には国だ。
シェリルが通っていた騎士学校もエクシールの騎士学校と交流戦をしたことがある。各国の新鋭騎士が集まり切磋琢磨しているだけあり、相手の力量は目を見張るものだった。
アネモネ王国の騎士学校から選び抜かれた精鋭が為す術もなく、時には相手に一撃も与えることができずに敗退していった。
騎士学校だけでも、それだけレベルが高いのだ。
きっと、他の学校も同じくらい高い水準なのだろう。
「陛下は、ローゼ様をご存じなのですね」
「いろいろと。
彼女のことは置いておきましょう。私がここで最も興味を持っているのは、貴方なのですから。
そうでなければ、ここまで足を運びませんよ。あの女と一緒に行動してくれたおかげで、探す手間も省けた」
ジークの瞳は獲物に狙いを定めたように細くなる。
嫌な予感がする。
シェリルは身体を強張らせた。まっすぐ紫色の瞳を見据えながら、視界の端で剣の位置を確認する。愛剣はベッドの脇に立てかけてあった。歩けば三歩の距離だ。ちょっと手を伸ばせば届く。
(でも、剣を取る前に殺られるな)
相手の力量を図る目は持っている。
コンラートとヒルダ、両者ともにシェリルと互角。下手したら半歩ほど及ばない。
二人同時に来られたら、シェリルに勝ち目はないだろう。
「警戒しないでください。
ただの世間話をしたいだけですよ。貴方がエクシールで見せた剣技について、お話しをしたい」
「交流試合のことでしょうか?」
「最終試合です。覚えていますか」
ジークの問いに、シェリルは頷いた。
忘れるはずもない。
交流戦の最終試合。
五人勝負の内、前の三人は敗北していたので、エクシールの勝利なのだが、「勝負の場が与えられないなど可哀そうだ」という救済措置で、シェリル達にも戦いの場が与えられた。
そして、前者が呆気なく負け、シェリルの試合になった。
対戦相手はエクシール騎士学校の首席で、シェリルを見ると嘲笑ってきた。
『アネモネも堕ちたな。お前みたいなチビが代表とは!』
観客からも野次や嘲笑の言葉が飛ぶ。シェリルは冷ややかに周囲を見渡し、
『これが、エクシールの作法なのですね』
と、正直な感想を呟いた。
前の戦いは酷いものだった。
開始から一分もしないうちに、アネモネの学生の手から剣が離れ、身体が宙を舞った。
それだけなら、まだよかった。
エクシールの学生は、そのあと脚を使った。剣を拾おうとする学生を足蹴りして、剣を拾わせないようにする。
何度も何度も、相手が降参しないのをいいことに足蹴りする。
足蹴りは悪くない。剣を使わない戦いがあることも知っているし、シェリルも嗜んでいる。
だがしかし、勝利が決まっているのに、執拗に痛めつけるのは許せなかった。
こちらも国の威信を背負ってきているので、自ら白旗を上げるのは難しい。そのことが分っていて、なお、痛めつける行為を楽しんでいる。シェリルにはそれが腹立たしかった。
『先ほどの選手と貴方。どちらがどれだけ強いのでしょう?』
『もちろん、俺だ。俺の方が三倍強い』
『三倍、ですか』
シェリルは一旦、口を閉じた。
『分かりました。それでは、10秒で終わらせましょう』
シェリルは右手で木剣を握る。
いきなりの勝利宣言に、首席は気分を悪くしたらしい。眉間に筋をたて、侮蔑の視線を向けてきた。
『試合、開始!』
審判の旗が振り下ろされた途端、首席は地面を蹴り飛ばした。
シェリルは構えもせずに、急速に迫ってくる敵を睨み付ける。首席は好戦的な笑みを浮かべ
『もらった――っ!!』
と叫びながら、剣を振り下ろしてきた。
シェリルは半歩ほど身体を反らす。そのまま左手で首席の腕をつかむと、右足を思いっきり振り上げ、彼の背中を地面に叩きつけた。背骨にひびが入るほどではないが、相当の痛みが走ったことだろう。だが、そこはエクシールの首席。まだ戦意を折るまでに至らず、右手で剣を握りしめていた。
だから、シェリルは、そのまま掴んでいた左手の親指を下にして、首席の手を外側に捻り上げる。
『ぁああ――ッ!』
首席は激痛のあまり、叫び出した。
背中と手に奔った強烈な痛みに屈服し、右手の力も抜け、からんと剣が地面に落ちた。シェリルは彼の背中に跨ると、左手で両腕をつかみ、木剣を首元に突きつけた。
『終わりです』
ここまで、5秒。
目が慣れていない一般人には、首席がシェリルに切りかかったと思ったら、地面に叩き伏せられていた、としか見えなかったかもしれない。
「トーナメント形式だった場合は、貴方の一人勝ちだったでしょう」
「買いかぶり過ぎですよ」
ジークの批評に、シェリルは微笑で返した。
「相手が油断していたおかげです」
「油断しなかったとしても、貴方の勝ちに変わりがなかったのでは?」
シェリルは答えなかった。
だが、意思は伝わったのだろう。ジークの笑みが深くなった。
「だから、驚きましたよ。
あれほどの実力者が、あんな女の近衛をしているなんて」
ジークの言葉で、シェリルの身体は更に固くなる。
「彼女は国の重要人物です。それなりの腕前の人物が護衛するのは当然かと。むしろ、幸せ者です」
「幸せ者? あの扱いでですか?」
シェリルはすぐに答えることができなかった。
シェリルが回答を悩んでいると、ジークはずいっと顔を前に突き出し、こんな言葉を投げかけてきた。
「この国以外でしたら、もっと良い就職先が見つかりますよ。
そうですね……率直に言います、シェリル。我がフランベルク王国に嫁ぐ気はありませんか?」