3話 怪しい二人組
婚約破棄から二年。
シェリルは、ローゼ・ブロッサム男爵令嬢の近衛兵として仕えている。
ローゼはシェリルを朝から晩まで隣に控えさせた。彼女が寝るときすら
「傍に控えていなさい。うふふ、寝るのはダメよ。悪い人が入って来たら困るもの!」
と命令しているのだ。
彼女の命令に背いて立寝しても良いが、万が一それが露見して、ネザーランド伯爵家を陥れることになってはいけない。
この二年、ずっとその調子。ほぼ休みなく仕えている。たまに与えられる休みも短く、食事をとり、身体を清めて服を替えるくらいで終わってしまう。
おかげで、たまに頭がぼんやりしてしまうこともあったが、仕事は仕事だ。自分が逆らって、これ以上、家に迷惑をかけるわけにはいかない。
だから、我慢して、我慢して、我慢して……シェリルは彼女に従い続けていた。
「シェリル! ぼんやりしないっ!」
ぴしゃりっと紅茶を浴びせられ、記憶の海から意識が舞い戻った。
幸いにも茶は特に熱くはなかったが、給付された白い制服に茶色い染みが広がっていく。このように汚されるのも三着目。これで予備を含めて、全部汚されてしまった。
シェリルはずんっと心が落ちる。普通なら使用人に洗濯を任せればいいが、使用人がいないので、自分で洗わないといけない。
「本当にドジね。ちゃーんと話は聞いていなさい」
ローゼは「めっ!」と指を突き付けてきた。
「申し訳ありません」
シェリルは頭を下げた。
文句の感情ひとつも湧きあがらない。謝って済むなら何度だって謝ろう。そして、再び頭を上げた時、セドリックと目が合った。
「シェリル」
彼は憐れむような目をしている。セドリックは悩むように俯いた後、ゆっくりと口を開いた。
「大丈夫か?」
「お気遣いしないでください。私の不始末ですので」
シェリルは言葉を返す。
どこか事務的な口調になってしまった。セドリックもバツが悪そうに顔を背ける。
「シェリル。ローゼの近衛兵として残ってくれて礼を言う。だが、ここは君にとって辛い場所ではないか?領地に戻った方が――」
「シェリル! セドリック様に気を使わせるなんて……本当に、ダメな子ね」
シェリルがセドリックの問いに応える前に、ローゼが割り込んできた。
「この子の姉は、酷くて意地悪な人でした。ですが、妹にまで罪はありません。彼女が必死になってつかんだ仕事まで取り上げてしまうのは、可哀そうだと思いませんか?」
ローゼはシェリルを押しのけ、セドリックに歩み寄った。
「ローゼ。君は、何て優しいんだ!」
セドリックは感極まった声を上げる。
「結婚式は明後日だ。ああ、私は夢のようだ!」
「私もですわ! では、セドリック様。ドレスの衣装合わせがありますので失礼します」
ローゼは彼の頬にキスをすると、軽い歩調で東屋を後にした。
シェリルも一礼して、彼女の後を追う。セドリックは悲痛の欠片もなく、幸福感だけに満たされていた。
(腑抜けたね、セドリック)
義兄となる予定だった人を見ても、悲しみは沸き上がってこなかった。
もしかしたら、その次元を超越していたのかもしれない。
「うふふ、楽しみねー。私はついに王妃様! セドリック様は王様!」
ローゼは謳うように呟いた。
国王夫妻は御存命なので不敬に値するのだが、この城で彼女に誰も意見しない。
ローゼは城を裏から掌握していた。
彼女が通り過ぎると使用人たちは端により、頭を下げる。
たとえ未来の正妃とはいえ、まだ王太子の婚約者だ。
国王夫妻は
『彼女を王家に入れるわけにはいかない。百歩譲って、側妃にしなさい』
と嗜めていたし、サーシャとシェリルの父の死を嘆いてくれていた。
それも今は昔。
夫妻揃って病に倒れてからは、奥に籠りっぱなしで、もう何か月も姿は愚か、声さえ聴いていない。
あとは、ローゼの天下だった。
「ねぇ、シェリル。貴方は私のドレスをどう思う?」
ローゼは唐突に話しかけてきた。
シェリルは内心
(ドレスの出来より、王妃教育を真面目に受ければいいのに)
と思ったが、そんなことは口が裂けても言えない。
「とても似合っていると思います」
「もう、もっと良い褒め言葉がないのかしら! 語彙力がないのねー」
ローゼは右手で口元を押さえながら、くすくす笑った。
周囲の近衛たちも、追従するように笑う。
シェリルは奥歯を噛みしめ、じっと堪えた。
こんな女にコロっといったセドリックの気が知れない。突然転がり込んだ王を継ぐ重圧に耐えきれず、優しく愛を囁く野心家に騙されてしまったのだろうか。
シェリルが悲しい思いに浸っていると、廊下の向こう側から歩いてくる2人組に気付いた。
1人は小柄な美少年だった。
線の細い身体をしていたが、意志の強そうな紫の瞳をしている。銀色に輝く髪には金糸を結い込んでおり、純白の白いローブを羽織っていた。長く尖った耳には、これも純金のピアスを嵌めているが、まったく嫌味を感じさせない。むしろ、これ以上ないほど似合っていた。
もう1人は、金髪の偉丈夫だ。
短い黄金の髪を逆なで、やや目付きが悪い。その鋭い黄色の瞳は、どこか遠くを見据えているようである。護衛騎士らしく、がっしりと鍛え抜かれた身体が服の上からでも分かった。
見た目は対照的な二人組であったが、その圧倒的な存在感は廊下全体の空気を食っている。
とくに、シェリルは金髪の男に視線を奪われていた。
美少年の従者として半歩後ろを歩いている姿は、たいへん洗練されていた。主に何かあった時はすぐに牙を向けるような空気を醸し出している。まるで、見えない剣を握っているようだ。
シェリルは一瞬、仕事を忘れて見入ってしまった。
もちろん、見ていた時間は数秒で、すぐに仕事に集中しようとした。だが、その瞬間、男と目が合ってしまう。
「……っ!」
金髪はシェリルを見止めると、形の良い眉を持ち上げた。
信じられないものを見たような目つきをしていたが、シェリルが瞬きをする間に、目尻を緩めていた。心の底から嬉しそうにシェリルを見つめながら、口の端を釣り上げている。傍を歩く美少年が嗜めるように何か囁いていたが、偉丈夫の笑みは深まるばかりだった。
(あの人たちは一体……?)
シェリルが思考に耽るが、ローゼは彼らが「自分が通るというのに、道を避ける気配がない」ことに不貞腐れていた。
「もう、私を前にしているのよ。退きなさい」
ローゼは頬を膨らせると、いきなり走りだしてしまった。
「まずいっ!」
シェリルは廊下を蹴った。
ローゼの前に急いで飛び出し、彼女の行動を身をもって制した。具体的に言うと、彼女の前で跪いた。かなり屈辱的だが、ローゼが次にしでかす行動の結果、起こる最悪の事態を考えれば、まだ遥かにマシである。
「シェリルの馬鹿! さっさと退きなさい! 私は、そこの――」
「この方々は、フランベルク王国から参られた要人でございます」
「獣国!?」
ローゼの顔色が変わる。
彼女の顔色の変化を見て、シェリルは胸を下ろした。
フランベルク王国。通称、獣国の者は耳が尖っているので、一目でわかる。
銀髪の美少年も硬質な尖り方をしているが、金髪の方は尖った耳の先がふわりと柔らかそうな毛でおおわれている。
さらに、髪に金糸を結わせるのは、かの国の王族である象徴だ。
見た目こそ十代前半の少年だが、かなり上の身分であることには間違いないだろう。
この程度の知識は貴族としての常識……なのだが、ローゼから抜け落ちていたらしい。
それとも、一度は覚えたが、秒読みとなった結婚で舞い上がって忘れてしまったのか。
どちらでも良いが、とにかく、ローゼは相手の地位を理解したようだった。
獣国とは海を挟んだ同盟国だ。
海といっても果てしなく遠いわけではなく、船で渡れば一日ほどで着く。
そんな獣国には、あまり良い噂がない。
なぜなら、獣国に住まう者たちは「獣人」と呼ばれ、ヒトに擬態して生活しているからだ。
目の前の二人組も今はヒトの姿をしているが、本来の姿は獣に違いない。そのヒトと異なる生態から、かつては脅威とされ、迫害されて攻められたらしいが、その国々は返り討ちにされ、獣国に飲まれてしまった。
アネモネ王国は同盟国として友好的に接しているが、それでも、獣人を色眼鏡で見てしまう。
そんな両国だが、力関係は獣国の方が圧勝している。海によって隔てられているので軍勢を率いて攻め込まれることはないが、亡き姉から
『こっそり軍備を拡張しているって噂があるわ。貿易や外交は上手くいっているから問題ないけど、気を許せない同盟国ね』
と教えてもらった。
ローゼも軍事力の差くらいは理解しているはずだ。
獣人は侮っていい相手ではなく、むしろ、危機感を持ちつつ丁重に接しなければいけないことくらい、分かっている――
「まあっ。私たちの結婚式をお祝いに来てくださったのね」
と思っていた。
ローゼはシェリルをやや乱雑に退けると、頬を赤らめながら美少年に駆け寄った。
「遠路はるばるよく来てくださいました。私はローゼ・ブロッサムと申します」
「ああ、あなたでしたか!」
シェリルは立ち上がりながら、美少年の反応に目を向けた。
美少年は思ったより声が鈴のように軽く、まるで少女のようだった。
「フランベルク王国の現王、ジーク・フランベルクです」
紫色の瞳は驚いたように見開かれ、口元に微笑を浮かべていた。
ローゼは惹かれたように、ほうっと口元を開けたが、すぐに我に返ると、シェリルに厳しい目を向けた。
「王様がお見えになっていると知っていれば、もっと綺麗な服を整えたのですが。近衛は教えてくれませんでしたし、はしたない恰好をして……私に恥をかかせるつもりだったのかしら?」
「……」
そうきたか。
ローゼの贅を凝らした黄色のドレスは別にしても、たしかに、シェリルの今の服装は汚れている。具体的には、ローゼが浴びせた茶のせいで。
(というか、遭遇したのは偶然でしょうが)
度重なる仕打ちに、シェリルは諦観する。
完全に嫌がらせである。ここまで来ると、悲しみや辛さも感じない。
「謝りなさい、シェリル」
「申し訳ありません」
シェリルは謝ることにした。何がいけないのか考えたら虚しくなるので、何も考えない。心を殺して、この女の思い通りに動かなければ、ネザーランド家に迷惑が掛かってしまう。
自分一人が我慢すれば、家に迷惑は掛からない。
(……あれ?)
瞬間、刺すような感覚が身体に走る。
鳥肌が立つ感覚に、慌てて顔を上げた。威圧の方向から考えるに、間違いなく、金髪から向けられたものだったが、シェリルが顔を見たときには、すでに視線を逸らされていた。だが、視線を逸らされているのに、なんだか見られている感じがする。
シェリルが落ち着かない気持ちを抱いていると、ローゼの蔑視が飛んできた。
「本当に使えないわね。この国の質が疑われてしまうでしょうに」
「彼女を責めるのは、それくらいにしてください。
もとはといえば、私どもが『王城を散策したい』と客室を抜け出してきたのが悪いのですから」
ジークは目元を緩めながら、ローゼに話しかけた。
「それでしたら、私が案内しますわ。来賓を持て成すのは、王族として当然のこと。
では、庭までご案内しますね」
ローゼは歩き出した。
シェリルも続こうとして、再び二人組を怪訝な目で見つめる。
ローゼに忠告しても、まともに受け取ってくれないので、だんまりを決め込むことにするが、この二人は怪しい。
だいたい、獣国の者が二人でぶらぶら城内を歩いていることが異常なのだ。
ローゼのおかげで彼らを見張ることができるが、そもそも彼らは何故、城の者を連れずに歩いていた? 王の城は機密情報の塊だ。万が一、異国から攻め込まれた時は最後の要塞となる。異国人には間取りを知られてはいけないし、勝手に歩かせるなど言語道断。
招待客には、「ご滞在の間、仕えさせていただきます」と従者か近衛が付くはずなのだ。
なぜ、二人にはいない?
それとも、セドリックたちは彼らを配置することをしないほど腑抜けてしまったのか?
「シェリル!」
「はい」
シェリルは短く返事をすると、ローゼの後に続こうとした。
そのとき、金髪の偉丈夫がわずかに身体を傾け、
「我慢のし過ぎは、身体に悪いぜ」
とシェリルの耳元に囁いてきた。
シェリルが彼に視線を向ければ、にぃっと悪戯っぽく笑っていた。体格に似合わず無邪気な子どもみたな笑い方は少し意外だ。シェリルは、きょとんと見返してしまう。
シェリルの様子を見て、獣王は
「すみません、シェリルさん。コンラートは人をからかうのが好きなんです。大目に見てください」
と詫びるように話しかけてきた。
シェリルが応答する前に
「シェリル! 早く来なさい。愚図なんだから!」
と、ローゼの叱責が飛ぶ。
シェリルは小さく頭を下げると、ローゼの元へ急いだ。
後ろの獣人を警戒しながら。
※10月1日 一部訂正