24話 幸せな日々
ながらくお待たせしました。
これから番外編となります。数話続く予定ですが、本編よりも短い話になる予定ですので、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
鐘の音が聞こえる。
遠くから響く重たい音が耳に入った瞬間、シェリルは飛び起きた。鐘が鳴る前には起きないといけないのに、すっかり寝過ごしてしまったことに背筋が凍る。すぐに支度を整え、ローゼのもとに出仕しなければ――……と、ベッドを降りてから、ここが騎士の詰め所でないことを思い出した。
「……そっか。もう、騎士じゃないんだ」
シェリルは力なく座り込み、安堵の息を零した。
ローゼ・ブロッサムこと意地悪な元王太子妃に仕えていたのは、1か月ほど前の話。騎士の職を辞したうえ、隣国に嫁いでしばらく経つというのに、身に沁みついた習慣はなかなか消えそうになかった。1か月前よりずっと幸せな現実を思い出したというのに、身体の震えが止まらない。シェリルが腕をさすっていると、控えめに扉を叩く音が聞こえた。
きっと、侍女のラウラが朝のお茶を持ってきてくれたのだろう。
シェリルは何事もなかったかのように立ち上がり、ベッドに腰をかけてから口を開いた。
「どうぞ」
「おはようございます、奥様。本日もよろしくお願い致します」
案の定、ラウラが茶器と共に部屋に入って来た。
ラウラは普段通りの朗らかな笑顔だったが、シェリルを見るなり一変する。見る見る間に顔を青ざめると、こちらに駆け寄って来たのだ。
「奥様っ!? どうかなさいましたか!? 汗、びっしょりですよ!」
「え……あー……ちょっと夢見が悪かっただけです」
シェリルは彼女から目を逸らすと、急いで笑顔を作った。
「その、久しぶりに一人で寝たものですから」
「なるほど……ふふっ、その言葉、旦那様にお伝えしたら喜ばれますよ」
ラウラはシェリルの言い訳に納得したのだろう。安心したように胸をおろすと、いつもの笑顔に戻った。いや、いつもより眼差しが温かいのは気のせいでないだろう。ここでようやく、シェリルは恥ずかしいことを口にしたと気づき、かあっと頬が熱くなるのが分かった。
あの言い訳では、コンラートがいなくて寂しかったと言っているようなものだ。
「い、いえ! コンラートさんに伝えなくて結構です……っ!」
「では、そうしておきますね」
ラウラはお茶を淹れながら楽しそうに笑った。
シェリルは茶器が触れ合う音を聞きながら、両掌ですっかり火照った顔を隠すように覆うと、大きく肩を落とした。
そういえば、コンラートと一緒に寝ている間は、鐘の音で飛び起きることはなかったことを思い出す。毎朝の鐘は聞いていたし、恐怖で身体が反応してしまうのだが、そのたびに肌と肌が触れ合うほどの距離に愛する人が寝息を立てていることに気づき、安心して再び眠ることができるのだ。
だから、今日は飛び起きてしまったのか……と頷く一方、ぽっかり胸に穴が開いたような寂しさを感じる。
「奥様、そんな寂しがられなくても、旦那様は1週間後にはお帰りになりますよ」
「なにか誤解しているみたいですが、私は寂しがっていませんよ」
シェリルは手のひらに顔をうずめたまま、自分に言い聞かせるように答えた。
「コンラートさんは四大将軍。視察で家を空けるくらいで寂しがっていたら、この先やっていけませんもの」
将軍ともなれば忙しくて当たり前。遠方地での演習があれば軽く1か月は留守にするだろうし、それこそ有事の際には前線に出て戦うことだって考えられる。そうなれば、数か月は帰ってこなくてもおかしくはない。だから、たった7日留守にするくらいで寂しがっていたら、将軍の妻は務まらないのである。
なので、この程度の別離で寂しがってはいけないのだ。
「さてと、今日も一日頑張りますか」
シェリルは頬を軽く叩くと、気持ちを前を向かせる。
今日は3週間後に迫った結婚式の準備や打ち合わせがあるし、獣国に関する歴史や政治などの勉強にも励まなければならない。この国の作法を学ぶため、リッパ―が来てくれる予定になっている。コンラートの不在を寂しがっている暇などないのだ。
この屋敷の使用人たちは、シェリルを女主人として認め、優しく接してくれるが、それはコンラートの教育が行き届いているだけのこと。将軍であり侯爵家の妻ともなれば、社交の場に出なければならないし、そのときに夫を辱めないよう正しい知識を身につけなければならない。
「奥様、やや忙しないのではありませんか?」
ラウラはそう言いながらお茶を差し出して来た。
「もう少し、ゆっくり過ごされてもよいのでは?」
「ありがとう。でも、これは私のやりたいことだから」
ラウラからお茶を受け取ると、にっこり笑って返した。
「私、少しでもコンラートさんにふさわしい女性になりたくて」
とはいえ、コンラートはシェリルが忙しくしているのを快く思っていない。
心配そうに目を細めては、『そんな熱心に歴史書やら経済書なんて、読まなくてもいいんじゃねぇか? 俺はシェリルが隣にいるだけでいいんだ』と嬉しい言葉をかけてくれるが、こればかりは首を横に振って返す。
これまでずっと――……ローゼの勉強も教養も身につけず、王太子妃としての権威と権力に酔いしれていた姿を真横で見ていた。あのような堕落した姿には絶対になりたくない、という気持ちが根強く、苦手な勉学にも励もうと思えるのだ。
改めてそう思いながら、お茶をゆっくり口に含む。ふわっとした甘さと程よい渋みが口の中に広がり、冷え切った身体をゆっくり温めていく。
「美味しい……これがあれば、今日も一日頑張れます!」
「お褒めの言葉、ありがとうございます……ですが、ご無理だけは禁物ですよ。お疲れになったときは、しっかり休んでくださいね」
「もちろんです」
実際、この程度で疲れるはずがない。
ローゼに仕えていた期間は、寝ずの番なんて当たり前。たまに詰め所のベッドに戻れても、多くても2,3時間しか眠れない上に、朝の鐘が鳴ってから10分以内に出仕しなければ、そこから数日は酷いなんて言葉では表せないほど辛い仕打ちが待っている。
だから、この程度はまったく心配はいらないのだ。
心配ない、はずなのだが……。
「シェリル姐さん、疲れてるんではないでやんすか?」
それから5日後、リッパ―からそんな言葉をかけられてしまう。
リッパ―に獣国における社交やマナーを習っているのだが、彼はシェリルと顔を合わせて早々、けげんそうに眉を寄せるのだった。
「別に疲れてなんかいませんよ」
「いやいや顔が青いでやんすよ! 今日は休んだ方がいいんじゃないでやんすか?」
リッパ―に言われ、シェリルは苦笑いで返す。
確かに朝から身体が怠く、やや熱っぽい感じもしたが、まだまだ身体は動かせるし、喉の痛みや鼻の違和感もない。朝食もなんとか全部食べることができた。たぶん、ちょっと疲れている程度なので、ちゃんと寝れば治るだろう。
「全然問題ありませんって。それより、早く始めましょう。今回は確か手紙の書き方でしたよね?」
シェリルが教本を用意しながら尋ねるも、リッパ―は深刻な表情のままグイっと顔を近づけてくる。
「今日の勉強はナシでやんす! ページめくる指に、まーったく力が入ってないじゃないでやんすか!」
「そんなことは……」
「そんなこと、あるでやんすよ!」
シェリルは誤魔化そうとしたが、リッパ―がぶるりと身震いした。
「いいでやんすか? シェリル姐さんに無理させて体調が悪化したとなれば、あっしの命が危ういでやんす! 姐さんは、あっしが狼野郎に殺されてもいいでやんすか!?」
「それはちょっと……」
「なら、今日は休むでやんす!」
リッパ―はそう言うや早く、部屋の入り口で控えていた侍女に合図を出す。侍女もこちらの会話を把握していたのか、すぐに駆けつけると、シェリルの制止を待たずに片づけを始めてしまった。
「奥様、今日はもうお部屋へ」
「ですが、このあとドレスの最終打ち合わせがあります。それに、プロキオン伯爵夫人からお茶会に招待されていますし……」
シェリルが説明しようとするも、リッパ―も侍女たちも頑として首を縦に振らなかった。
「こちらから理由を説明して後日に変更させていただきます。いま、奥様に必要なことは休息です!」
「プロキオン夫人なら、キャンセルしても大丈夫でやんす。狼野郎の姉貴殿でやんすし、良識もあるでやんすから」
彼らはそう言いながら、シェリルの背中を押し始める。
シェリルも抵抗しようとしたが、なにを言っても聞いてくれる気配はない。しかたない、と肩を落として、彼らの提案に従うしかなかった。
「……この程度、大丈夫なのに」
数分もしないうちに寝巻に着替えさせられ、ベッドに押し込まれてしまう。
獣国のマナーをしっかり覚えておかないと恥をかいてしまう場面が出てくるだろうし、結婚式で着るドレスの丈合わせも一日ずれるだけで制作進度に影響が出るだろう。プロキオン夫人はいくらコンラートの姉だからといっても、弟に嫁いできた異国の嫁が体調不良を原因に当日になってお茶会をキャンセルしてきたら、嫌な思いをするのではないだろうか。「理由をつけて、自分に会いたくないのでは?」とか、誤った印象を能てしまうのではないか。
シェリルはベッドに横たわりながら、ラウラに向かってやんわりと伝えてみるも、彼女の反応はよろしくなかった。
「いまはその程度でも、のちのち悪化してくるかもしれませんよ」
ラウラはきっぱり言い切った。
「健康第一です。すぐに、お医者様もお呼び致しますので……」
「そ、そこまでしなくても平気です!」
シェリルは半分起き上がると、慌ててラウラを呼び止める。さすがに、そこまで大事にするほど具合が悪いわけではない。
「寝れば治りますから! 本当です!」
コンラートが帰宅したとき、医者まで呼ぶほど具合が悪かったと心配をかけてしまう。それだけは、どうかやめて欲しかった。
シェリルはラウラに「明日になっても熱が下がっていなければ、必ず医者を呼ぶ」という約束を取りつけ、なんとか引き下がってもらった。
「では、なにかありましたら、すぐにベルをお鳴らし下さいませ。扉の外で待機しておりますので」
ラウラが心配そうな顔のまま一礼し、部屋を出るのを見届けると、シェリルは小さく息を吐いた。
「……はぁ」
シェリルはベッドに横たわりながら、窓の外を眺める。
それ以外、他にやることがなかった。ゆったりと雲が動く様子を目で追いながら、こうして横になりながら雲を眺めたことはなかったな……と、薄ぼんやり思い出す。そもそも、昼間っから寝る以外やることがないこと自体が初めてなのでは?と気づく。
ローゼに酷使されていた頃は休む暇などなかったのは当たり前として、騎士の仕事を辞めてからも結婚の準備や花嫁修業で忙しかったし、こちらに来てからも朝から晩まで予定が詰まっていた。
「2年ぶり? ……いや、違うか」
騎士学校に通っていたときも、昼間っから休むなんて選択肢はなかった。
授業がない日は朝からずっと剣の稽古に励んでいるか、ブルータスに剣の修行をみっちりつけるかのどちらかだった。そうなると、騎士学校に通っていない時代――……本当に幼少期までさかのぼることになってしまう。昼間っから部屋でゆっくり過ごすのなんて、下手したら10年以上なかったかもしれない。
「……」
そんなことを考えていたら、気が抜けてきたのだろうか。だんだんと身体の四肢が怠くなってきた。倦怠感が連れてきた眠気が一気に押し寄せ、いろいろと考えるのも億劫になるくらい頭が働かなくなっていく。
これは、もう寝た方がいい。
夕食まで少し寝れば、治るはず……とだけ思い、そのまま眠りについた。
※
「……んっ、うん……」
寝苦しい。
身体が火照るのが苦しくて、意識が浮上する。前髪や服が汗で張りつき、ちょっとだけ気持ち悪い。重たい瞼を頑張って持ち上げ、薄く目を開けてみるも、視界はひどく薄暗かった。どう考えても、夕食の時間を過ぎている。それなのに、まったくお腹が減った感じがしない。ただただひたすらに怠くてたまらない。自分が思った以上に、熱が出てしまったのだ。
「……」
実に面目ない。
シェリルは再び目を閉じながら、心の中で嘆息する。
嫁に来たばかりなのに、ラウラを始めとした使用人たちに心配をかけさせてしまった。今まで、ちょっと無理したくらいで熱が出たことなんてなかったのに、と自分に嫌気がさしてしまう。
「……っ」
嫌気を自覚すると、ますます怠さが加速する。
食欲はわかなくても、喉がひりついたように渇き、水が飲みたくてたまらない。
こんな時間に起こすのは申し訳ないが、水差しを持ってきてもらおう。確か、ベッドサイドの机にベルが置いてあったはず……と、思い出しながら、億劫な瞼を開ける。ぼやける視界の向こうに、ベルのシルエットらしきものが見えた。身体を起こすのも辛くて、なんとか右手だけを伸ばす。その手がベルに触れる前に、とても温かなものに包まれた。
「……へ?」
驚きのあまり、変な声が口から零れ落ちる。
柔らかく握り返され、誰かの手であることはすぐに分かった。この1カ月あまりで握り慣れてしまった、大好きな人の手のひらを間違えるはずがない。だけど、そんなはずがない。彼が帰ってくるまでに、あと2日もあるのだ。
これは、熱にうなされる夢なのだろうか? と困惑していれば、ひそめた声が耳に届いた。
「なにか、必要なものがあるのか?」
ぽつり、と降ってきた優しい言葉は、やっぱり大好きな人のものだった。
「なん、で?」
かすれた声が出る。
夢だと思うのに、目を頑張って見開いて、その人の姿を探してしまう。つないだ手の先を目で追ってみれば、すぐそばに誰かがいることが分かった。夜の闇のせいでその人の顔は見えないのに、金色の髪だけはぼんやり薄く見えた。
「コン、ラートさん?」
これが熱に侵されたときに見る夢でも構わない。たった5日しか離れていないはずなのに、言葉にできないほど会いたかった人がいる。自分の手を握ってくれている。それだけで、目元に涙がにじんだ。涙のせいで、視界がより一層ぼやけてしまう。それが悔しくて、もっと彼をはっきり見たくて、眉間に皺を寄せながら必死に目を細める。
「シェリル」
彼は空いている方の手を伸ばすと、シェリルの汗ばんだ髪を慈しむようになでる。
「熱いな。医者を呼ぼう」
「だい、じょうぶです。水が飲みたい、だけ」
なんとか伝えれば、彼は「待ってろ」と短く告げると、手を繋いだまま動く気配が伝わってきた。すぐ近くから水がこぽこぽ流れる音が聞こえてきたと思えば、左手に冷たいコップを押しつけられる。
「ほら、飲め」
「……ん」
シェリルがコップを受け取ると、彼はそっと背中に手を回し、ゆっくり身体を起こしてくれた。シェリルはぺこりと頭だけ下げると、水を口に含んだ。ひんやりとした感触が喉を伝い、潤していくだけで、全身を覆っていた怠さが緩和されていく気がする。
「……ありがとうございます」
シェリルは息をつくと、コンラートに顔を向ける。あいかわらず、暗闇のせいで表情をうかがい知ることはできないが、そこに彼がいてくれるだけで心が落ち着いた。
「でも、どうして? だって、まだ帰ってくる日ではないですよね?」
いまだにぼやっとした頭で必死に考える。少なくとも、あと2日はあったはずだ。それとも、自覚がないだけで、2日も眠りこけていたのだろうか?
「なに、ちょっと仕事が早めに片付いただけだ。予定より早めに帰って驚かせようと思ったが……まさか、寝込んでるとはな」
「ごめんなさい……」
「いいんだって。この機会にしっかり休め」
コンラートの優しい言葉をかけてくれる。いくら仕事が早く終わったからといっても、かなりの夜更け。彼だって疲れているに違いない。申し訳なさが募っていく一方、そんな彼が自分の傍にいてくれることが嬉しいと感じてしまう不思議な自分がいた。迷惑かけているのに、この胸が熱くなる感じはどうしてなのだろう? と困惑してしまう。
「あの……コンラートさんも……しっかり休んでください」
コップを手近な場所に置き、もぞもぞと毛布に身体を潜らせる。
「私は、もう大丈夫ですから」
「嘘つけ。声が辛そうだぞ。いまさら我慢してもいいことないぜ」
「それは……」
シェリルは言葉に詰まってしまう。どうしても、我慢という単語には弱い。その言葉を出されてしまったら、もう言い返すことはできなかった。
コンラートは、そんなシェリルの前髪を愛おしむように撫ではじめた。
「気づけなくて悪かったな。シェリルにとっては住み慣れない場所だから、きっと疲れが出たんだ……もうおやすみ、シェリル」
「……おやすみなさい」
シェリルはくぐもった返事を返すと目をつむる。
何度も何度も緩やかに繰り返される撫でられる感覚と繋いだ手のぬくもりは、シェリルを緩慢な眠りへと誘い始める。
大丈夫、きっと朝になったら熱は下がっている。
そうしたら、夜中に傍にいてくれたことの感謝を伝えて、一緒に朝食をとりたい。せめて、それが今の自分にできる精いっぱいの礼になると思って。
こんなに苦しいのに、不思議なくらい幸せだった。
これからどんな苦しいことがあっても、乗り越えていけると思ってしまうくらい幸福感が心に満ちている。もっとも、ローゼに仕えていた二年間を思い出してしまうほど大変なことなんて、そうそう起きるはずがないけど……と、心の中で苦笑いを浮かべるのだった。
この時のシェリルたちは、まだ知らなかった。
すっかり忘れていた悪意の亡霊が、背後に少しずつ迫ってきていることに。




