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23話 もう我慢ばっかりしてられない


 数日後、シェリル達は港にいた。

 鉄のような生臭いような不思議な匂いが海から風に乗って漂ってくる。これがおそらく「潮風」に違いない。

 シェリルが髪を押さえていると、すすり泣く声が聞こえてきた。

 視線を向ければ、叔母とマルゲリータがハンカチで目を拭っていた。


「うう、シェリルがついにお嫁に行くなんて……」

「ああ、感慨深いことであります」

「叔母様もマルゲリータも大袈裟な……」


 シェリルは苦笑いで返すと、二人はますます涙を流した。


「ドレスも着ないで、剣ばっかり振るっていた子がねぇ」

「スカートを捲り上げて木に登っていた子がねぇ」

「……叔母様たち」

「まあ、私としては、シェリルを着飾ることができたから万々歳なんだけどね!」


 叔母はきらんと目を光らせる。

 先ほどまでの涙はどこへやら。すっかり商売人の顔に早変わりしていた。


「いいこと、シェリル。貴方の服は我が商会の宣伝になるの。しっかり宣伝、よろしくね!

 『この素敵な衣装はどこで手に入れたのですか?』っと言われたら、笑顔で答えるのよ。いいえ、向こうから言われなくても『この衣装素敵でしょう?』とぐいぐい宣伝してくださいな」

「叔母様……」


 シェリルは嘆息交じりに言うと、右手で額を押さえた。

 このまま海を渡れば、滅多に戻ってくることはできない。それを知っているはずなのに、ここまで商魂を押し付けてくるなんて……と呆れてしまう。


「シェリルお嬢様。先方のお屋敷には、お嬢様が買い食いに出かけても余計な買い物をしに行っても、黙って見逃して言い訳まで考えてくれる……このマルゲリータのような者はいないと考えてくださいね」

「いや、マルゲリータ。それは子どもの頃の話でしょう?」

「私にとっては、今も昔も変わりありません。シェリルお嬢様は、シェリルお嬢様です」


 マルゲリータは優しくシェリルの手を握った。

 子どもの頃よりも皺の増えた手を見ていると、シェリルの目尻まで緩んでくる。


「行ってらっしゃい、シェリルお嬢様」

「……うん、行ってくるね、マルゲリータ」


 シェリルが別れを惜しんでいると、兄の呼ぶ声に気付いた。


「それでは、叔母様、マルゲリータ。行ってきます!」


 シェリルは彼女たちに手を振ると、元気よく走り始めた。

 ところが、走り始めた矢先、海からの風が赤髪を勢いよく揺らし、スカートをふわりと膨らませる。シェリルは慌てて手で抑えたが、兄の目に留まってしまった。


「シェリル、はしたないぞ」

「これは風のせいです」


 シェリルは言い返してみたが、兄のお気に召した回答ではなかったらしい。眉間にしわを寄せると、不機嫌な顔で文句を言い始めた。


「令嬢とは、みだりに走らないのが鉄則だ。

 足を見せるように走らず、口を開けて笑わず、剣を振り回さない。それから――」

「兄様は女性に対する意識が高過ぎます。だから、結婚ができないのです」

「お前だって、ライラプス殿が運よく惹かれてくれなかったら、行き遅れになっていたはずだ」

「いえ、私には一応、婚約者がいましたよ」

「破棄されただろ。それに、あの小僧は好かん」


 兄は憮然とした顔のまま腕を組んだ。


「最終的に国王陛下に忠義を誓うところは褒められた点だが、後は駄目だ。美しいだけの女に心を惹かれて奪われるようでは、まったくもって話にならん。向こうから婚約破棄の話が来て正解だった」

「確か、ブルータスは……」

「我がネザーランド家に対し、婚約破棄の賠償金を払うことになった。向こうから支払いを命じた額の倍額だ。当然だ。真偽を見極めることができず、嘘に踊らされて婚約破棄してきたのだからな。 

 そんなことよりもだな、お前の態度だ!」


 ケイオスは思い出したかのように、話を切り替えして来た。シェリルとしては、そのまま元婚約者の話の流れから別の方向へ持って行きたかったのだが、そう上手くいかないものである。


「やっぱり、伯爵令嬢としての躾が足りなかったんだ。

 っく、父上が早々と騎士学校へやっていなければ、こんなことには――」

「義兄さん、それだと困る」


 シェリルたちは顔を上に向けると、停泊している船上から、こちらを見下す人影があった。逆光のため表情は分からないが、陽光を浴びて髪が金色に輝いているのが見える。


「俺が、シェリルと会えなかったではありませんか!」


 青年はとんっと船の縁を蹴り飛ばし、しなやかな獣のように地面に降り立った。


「俺はシェリルのすべてが好きなんで、ケイオス義兄さんの求める令嬢らしさとか求めてないんですよ」


 コンラートはそう言いながら、シェリルの腰に腕を廻してくる。シェリルが頬を赤らめる前に、ケイオスの方が顔を上気させていた。


「に、にいさん?

 い、いいえ。僕は、ただのケイオスで結構です。ライラプス殿より年下ですので」

「シェリルの兄ですから、俺にとっての義兄ですよ。それに、どうかコンラートと。義弟になりますから」


 ケイオスは、こんらんしている。

 シェリルの眼から見ても明らかだった。シェリルに対しては兄ぶっているが、長子力は圧倒的にサーシャの方が上であった。サーシャからは「兄」と呼ばれていたが、実際は弟のように扱われていたし、ケイオス自体、それで満足しているようだった。


「兄……僕が……兄?」


 コンラートから正式な婚約話を持ち込まれた時は「伯爵家の当主」として平静を保つことができていたようだが、今回は不意打ちかつ兄扱いされたことで、予期せぬ事態に脳がパンクを起こしているようである。

 もしかしたら、妹の結婚が現実味を帯びていなかったのかもしれない。


「あのー、兄様? ケイオス兄様?」


 こういうところを見ると「一人でアネモネ王国に残しておいて大丈夫だろうか?」と気がかりになる。もちろん、最低最悪の二年間、ほぼ一人で没落したネザーランド家を切り盛りしていたので、まったくもって不安な要素はない。

 だが、ローゼを筆頭に王国中から攻撃されないように、ずっと張り詰めた気が抜けたのだろうか。こうして、昔のように少し間の抜けた感じな兄に戻っている。


 嬉しいような、やっぱり心配なような。

 シェリルが微妙な顔をしていると、兄は徐々に現実に戻って来たのか、こちらを睨んできた。


「シェリル……なにか良からぬことを考えていただろう?」

「いいえ、兄様。お気になさらず」

「いいや、絶対に馬鹿にしてた。絶対に!」

「義兄さん、すみません。そろそろ出航の時間なのですが……」

「え、あ、ああ。そ、そうか……」


 コンラートが促すと、ケイオスは咳払いをする。ケイオスは先ほどまでとは打って変わり、どこまでも真剣な顔をした。


「シェリル、彼に迷惑をかけないように。それから、二か月後の結婚式の時までに、貴族の娘らしく淑やかに振る舞えるようにしておくこと。いいな!」

「もちろんです。兄様もお身体にお気をつけて」

「お前もな。……では、妹のことをよろしく頼みます。えっと、その…………ライラプス、さん」

「義兄さん、安心してください。彼女のことは命をかけて守り抜きますので」


 コンラートはそう言うと、シェリルと共に歩き始めた。

 コンラートは真っ赤になって凍り付いている義兄(ケイオス)から聞こえない距離まで来ると、くっくと笑った。


「ああいうとこ、兄妹で似てるよな。

 だけどさ、良いのか? あんなあっさりした別れで」

「ええ。たった二か月の別れですから」


 シェリルも滅多に見えない兄の動揺振りを思い返し、ちょっとだけ笑ってしまう。


 結婚式まで、たった二か月だ。

 伯母やマルゲリータは来れなくても、ケイオスは出席する運びになっている。

 地獄のような二年間に比べたら、二か月なんてあっという間だ。きっと、二か月後には今のように憮然とした態度で小言をたくさん言われ、コンラートに兄扱いされたことに混乱して……そして、瞬く間に帰る時が訪れる。


 そのときは、時間をかけて別れを惜しむに違いない。


「シェリル、足元に気をつけろ」


 気が付けば、船の乗船口まで来ていた。

 船と陸とを木製の橋が繋いでいるが、波と風のせいだろう。橋はゆらゆら不安定に揺れて、隙間から海が白く波打つ様子が見てとれた。


「不安なら、俺が抱いて運ぶか?」

「ありがとうございます。でも、平気です」


 シェリルは固唾をのむと、とんっと地面を蹴った。

 橋に足を乗せれば、地が揺れている。同じリズムで揺れているのではなく、不規則な波に揺れているので、身体が落ち着かない。シェリルは橋の桟に手をかけながら、ゆっくりと甲板へ上った。


「酔い止めは飲んだ?」

「はい、1時間ほど前に」

「それなら安心だ。航路は荒れがちだからな。ちゃんと飲んで備えないと、食事も喉を通らなくなる」


 シェリルは潮風で髪がなびくのを感じながら、ふと、浮かんできた疑念を問おうとした。


「あの……コンラートさん」


 シェリルが彼に語りかけようとした、その瞬間だった。

 地鳴りに似た低い響きの後、世界を震わすような轟音が周囲一面に響き渡る。シェリルが身体を強張らせると、コンラートが耳元で


「大丈夫だ」


 と囁いてきた。

 彼は上を見上げている。シェリルも釣られて上を見上げてみると、ちょうど黒い影が青空を覆いつくしていた。

 漆黒のドラゴンだった。

 大型船を丸々飲み込むほど巨大なドラゴンは、シェリル達の遥か上空で旋回している。

 大きく開いた羽の辺りは太陽の光を一身に受け、黒い鱗が反射して白く輝いていた。腹の部分だけ若干色素が薄いな、と思っていると、煉瓦造りの家でも貫きそうな爪の先がちらりと光った。なにやら、ちっぽけな箱を器用に抓んでいる。


「あれは、陛下だ」

「ジーク様!?」


 そういえば、初めてのデートの際、「陛下はドラゴンだ」という言葉を聞いた気がする。

 それにしては、彼……いや、彼女だけ獣の姿で空の上に留まっているとは、おかしな話である。


「私たちと一緒に帰国すると思っていたのですが……?」

「シェリル、足元をよく見ろ」

「足元? 何か抓んでいるように見えますが……」


 シェリルは目を細めて注視する。

 箱のようだった。上空との距離感が上手く測れず、大きさはつかめないが、小型の馬車くらいの大きさだろうか。シェリルが悩んでいると、ジークリンデとの目が合った気がした。彼女は紫色の瞳を楽しそうに緩ませると、風を巻き起こしながら海の向こうへ飛び去って行った。

 

 みるみる間に彼女は小さくなり、点となって青い海の彼方へと消えていく。


「箱のようでしたけど?」

「護送だよ。あの女(ローゼ)のな」


 コンラートはさらっと答えてくれた。


「ほら、一緒の船で行きたくないだろ? だから、陛下があの女を連れて、一足先に帰国することになったんだ。陛下の速度なら、丸一日で本国へ着くはずだ。

 見ものだぜ。あの速度で風を受けながらすっ飛ぶんだ。身も凍る思いだろうよ」


 コンラートは愉快そうに口元に笑みを携える。


「私がコンラートさんに乗った時は、心地よかったですよ? むしろ、風と一体したような……」

「それは良かった。あれくらいなら力の入れ具合で変えられる。ま、あの女相手に、陛下が加減するわけがないからな」


 シェリルはジークが飛び去った方向を眺めた。

 彼女の慈悲を願ったのは、ただの自己満足。ローゼのことだから一生反省しないし、ずっとシェリルを恨み続けると思う。それと同じで、シェリルもあの女を一生許さないし、恨み続ける。

 シェリルが淡々と考えていると、隣でコンラートがもぞもぞと動く気配を感じた。 


「さてと……あった、これだ」


 コンラートは紙製のリボンを取り出すと、シェリルに渡してくる。


「これは?」

「別れの儀式だよ。リボンの端を持ちながら、岸に向かって投げるんだ」


 周囲を見ると、他の乗船客もリボンを岸に向かって投げている。

 シェリルも倣って投げると赤いリボンはころころ地面を転がり、ちょうど兄の足元で止まった。兄はリボンの束を拾うと、こっちをじっと見つめてくる。

 兄の口が動いた。シェリルはその口の動きをなぞるように呟いてみる。


「『辛いときは、帰ってこい』、か」


 シェリルは口元を綻ばせると、大きく頷いて返した。


 桟橋が岸から外され、ゆっくりと船が大海原へ乗り出し始める。シェリルは赤いリボンを握っていると、兄が持ったリボンがしゅるしゅると伸びていくのが分かった。船と岸とを結ぶリボンは尾を引くように少しずつ、けれど、確実に離れていくことを物語っていた。

 兄の手に握られた赤いリボンは厚みを失い、ついには彼の手から名残惜しそうに離れる。しばらくの間、リボンは海を漂う草のように底で揺れていたが、白い波に押し流され、シェリルの手からリボンの端が離れると、あっという間に消えてしまった。


「兄様、ありがとう」


 シェリルは目の奥が熱くなるのを感じた。

 そのまま桟に顔を乗せるように伏せ、とうとう嫁に行くのだと実感する。


「あー……こういうときは、泣いても良いと思うぜ」

「……ありがとうございます、でも、今は大丈夫です」


 シェリルは目元を拭うと出来る限りの笑顔を浮かべてみせる。


「涙は、もっと別の時に取っておかないと」


 たとえば、二か月後の結婚式の時。

 もしくは、二か月後に訪れる別れの時。


 泣く機会はこれから先にもあるのだから、今は涙は残しておこうと思う。

 とはいえ、辛いものは辛い。シェリルは思考を切り替えようと悩んでいると、コンラートの少し不安そうな顔が目に飛び込んできた。そこで、先程聞きそびれたことを思い出す。


「そういえば……コンラートさんは、その髪型で良いのですか?」

「ん? ああ、これか」


 披露宴の一件以来、彼は髪型を変えていた。

 後ろに逆立てることはせず、前髪は降ろしており、シェリルが渡したピンで止めているのだ。地味な黒ピンも爽やかな金髪と端正な顔にかかれば、一級品に見えてくるから不思議である。むしろ、色気が増した気がする。随分と印象が変わり、かっこよすぎて目に毒である。

 シェリルが思っていると、コンラートはあけっぴろげな笑顔になった。


「前々から前髪が邪魔だと思ってたんだよ。だから髪を後ろにやってたが、それはそれで面倒だったから丁度良かった。この髪留めも気に入ってるし、なにより――」


 コンラートはそう言うと、シェリルを軽々と抱き上げた。シェリルは必然的に逞しい腕に座っているような状況になってしまうが、態勢よりも顔の距離が近くなったことの方に恥ずかしさを感じていた。


「シェリルの顔がよく見えるからな」

「あ、ありがとうございます。でも、その……今度、別のピンを渡しますので」


 地味なピンでは申し訳なさすぎる。


「それは、プレゼントってことでいいんだよな?」

「は、はい。ちゃんとしたお礼をしていなかったので……これまで、ずっと貰いっぱなしでしたし」

「気にしなくていいんだぜ。俺はシェリルが傍にいることが、十分以上に礼になってる」

「……でも、本当に私で良かったのですか?」


 シェリルは心の中に棘として残っている言葉を口にする。


「貴方が私のことを想ってくれていることは、とっても伝わってきます。ですが、笑顔が素敵な家族想いの女性なんて大勢いますし、剣術を極めた凛とした女性もたくさんいます。

 そのなかで、どうして私を選んでくれたのですか?」


 シェリルが尋ねると、彼は少しばかり虚を突かれたような顔になった。そのまま空いている方の手でがりがりと頭を掻きつつ、一瞬、なにかを考えていたようだが、結局、諦めたように頷いた。


「……匂いだ」

「匂い?」


 彼は少しばかり頬を朱に染めながら、そっぽを向いて答えてくれた。


「戦いが終わって、エクシールからの勧誘されたとき、シェリルが『姉のために剣を振る』と言った時の笑顔と一緒に、ふわっと漂ってきた香りが心地よかったんだ。

 強くて甘いのに、胸やけがまったくしない爽やかな匂いに頭がいっぱいになって、だから、姿を見失った。それで、匂いを頼りに何とか探し出したら、花が綻ぶような笑顔の貴方がいて…………」


 コンラートの顔は夕焼けに照らされたように紅色になっていた。もちろん、まだ昼間なので、夕陽を言い訳に使うことはできない。シェリルも彼の言葉一つ一つに耳を傾けているうちに、少しずつ顔に熱を帯びていく気がした。


「すまない! 匂いで好きになったなんて、気持ち悪いと思われるだろうから、ずっと黙っていた。

 シェリルは……俺が嫌いになったか?」


 シェリルは告白を聞きながら、ズルい人だなーと思っていた。

 もうとっくに船から降りられず、獣国へ行くだけというときに、重大なことを明かすなんて。逃げるに逃げられないではないか。


 もっとも、シェリルに逃げる気なんてさらさらない。


「私は……コンラートさんが助けてくれたあの時から、ずっとずっと……貴方のことをお慕いしています」


 シェリルは心からの言葉を口にする。


「ローゼやリリーより私を選んでくれて、本当に嬉しかったです。コンラートさんを嫌いになることなんて、絶対にないです」


 シェリルはそう言うと、少し前屈みになった。彼が自分を落とすことはないと分かり切っていたが、念のために彼の両肩に手を乗せて、すっと唇を頬に落とした。


「その…………私は、あなたといるだけで、十分すぎるくらい幸せです」


 自分の気持ちに嘘をつかず、我慢せずに衝動的に動いた結果だが……気恥ずかしいことこの上ない。シェリルは慣れない行為に恥ずかしさで胸がいっぱいになっていると、コンラートは口の端を上げ、とんっと額を突き合わせてきた。


「良かった」


 彼の囁く声が、心が跳ね上がるくらい近くで聞こえる。

 上機嫌で目を細めながら、ごろごろと喉の奥を鳴らしている。


「シェリル、ありがとう。いまの嬉しかったぜ」

「……もう、我慢ばっかりしてられないって決めたので」


 シェリルがもぞもぞと口にすると、コンラートはますます満悦したような顔になった。


「ああ、俺も我慢なんてしないぜ」


 シェリルが返事をする前に、コンラートによって口を押さえられてしまう。

 自分の体温とは異なる熱い感覚に蹂躙され、シェリルは目が白黒した。コンラートは最後に唇のふっくらした部分に舌をなぞらせると、シェリルはいつの間にか上がってしまった息を整えながら、相手の顔を恐々見上げる。


「こ、こういうことは、我慢しても良いかと……?」

「そうか? それなら、シェリルに合わせて気長にやっていこうか」


 コンラートはにぱっと笑っていた。狼らしく尖った犬歯を見せて、とても晴れやかに。黄金の獣はたっぷり遊んでもらって満足したとでもいうような笑顔で、シェリルを照らしていた。

 そんな顔で見られたら、頷かないわけにはいかない。


「……分かりました」


 だけど、嫌な感じはしなかった。

 ローゼに仕えていた時のように、心が氷のように固まることはない。お日様の光を一心に浴びているような幸福感に包まれていた。




 没落したから、彼と出会うことができた。

 没落したから、獣国の将軍に嫁ぐことができた。

 没落していなかったら、結局はブルータスと結婚していた。ローゼに入れ揚げていた男との結婚が幸せなものとは限らなかっただろうし、上手くいかなかったかもしれないなーとさえ思えてしまう。

 それに、コンラートの想いどころか存在自体を一生知ることがなかったかもしれない。


 不謹慎な話だが、サーシャと父の死のせいで巡り合えた奇跡だ。


「本当に、ありがとう」


 これまでの積み重ねが報われたようで、胸がいっぱいになる。

 今まで出会ったすべての人、すべての出来事を想起させながら、シェリルは感謝の言葉を口にした。




 海がちらちらと太陽の光を反射させる。

 白い波は馬のように青海を奔り、船を左右へ揺らしていた。

 

 シェリルを乗せた船は、初めての地へ進んでいく。

 そこに、恐怖はない。



 シェリルは一人ではなく、何があっても助けてくれる夫が傍にいるのだから。








これにて、完結させていただきます。

もしかしたら、番外編やその後の話を執筆するかもしれません。

ここまで読んでくださった皆様、シェリルの物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。



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― 新着の感想 ―
[一言] きっと、お父様とお姉様が見守ってくれてたんですよ。 凄く凄く感動しました! 泣けました。
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