2話 没落のはじまり
「サーシャ・ネザーランドとの婚約の破棄を宣言する!!」
セドリックが姉との婚約を破棄する場面だった。
あろうことか、その出来事は建国記念のパーティーで起こった。それも、王太子としてのスピーチという形で。
「セドリック様。御冗談がお上手ですこと」
サーシャは平然と彼に言い返す。
見た目的には平然と。ただ、シェリルは分かっていた。すでに近衛兵として姉の近くに寄り添っていたから、大好きな姉の身体が微かに震えていることが分った。
「婚約状態を破棄し、結婚するということですわよね?皆様を驚かすためのジョークですわ」
サーシャは冷え切った場を盛り上げ、セドリックの失態を消そうと言葉を重ねた。
「いいや、冗談ではない。この悪女め!」
だが、もう取り消せない。
セドリックの眼には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。周囲の貴族たちがざわつくのが分かった。
「セドリック様は、お酒を飲まれ過ぎたのですね。ちょっと、あちらの部屋に下がりましょう」
サーシャはまだ平然とした仮面をかぶっていたが、さすがに声が上ずっている。
冷静に考えると、これは賢明な判断だったといえよう。
婚約破棄なんて一大スキャンダルを貴族たちの前で公言することは避けるべきだし、それこそ、王家に泥を塗る行為だ。
これ以上、スキャンダルを重ねる前に退席し、互いに今後について話し合うのは正しい選択である。退席さえしてしまえば、あとは、他の者が場を納めてくれるだろう。
「いや、お前の悪事をここで皆に知らしめる。
……来なさい、ローゼ」
サーシャに対してとは打って変わり、甘く蕩けるような声色で女性の名を呼んだ。
貴族たちの中から現れた麗しい女性を見て、シェリルは「あっ」と声が出そうになった。
「ローゼ・ブロッサム男爵令嬢だ。お前も知っているだろう?」
「……ええ、存じております」
サーシャの眼がすっと細くなった。
ローゼのことは、シェリルも知っていた。
彼女はサーシャと同じ王立学校の出身だ。
ローゼはブロッサム家に養子入りした転入生で、よくいえば天真爛漫な美少女だった。
シェリルの騎士学校と王立学校は隣接していたので、彼女の噂は良くも悪くも耳に入って来た。
ローゼ・ブロッサム男爵令嬢。
人形のように美しい見た目、誰に対しても心優しく、控えめでありながらも、意見を言う時は強く発言できる。勉学に礼儀作法から裁縫など、貴族の娘として身に付けるべきものを全て完璧に備えていた。
貴族の子息たちどころか、騎士学校の男性までローゼの魅力に夢中になり、プレゼントを送ったり、デートに誘ったりしていた。
悪い噂では、彼女が学校の裏から仕切ろうとしていたそうだ。
裏では見た目や家柄の良い男を侍らせ、女学生は使える者のみ傍に置き、自分に歯向かう女学生を排除し、それでいて、表では非の打ちどころのない淑女として過ごしていたと聞く。
在りし日の昼餉、サーシャがシェリルに
『ローゼは、側妃を狙っていたのよ。私の婚約者にも魅了を振りまいていたもの。
もちろん、あの人は断っていたわ。だいたい、大勢男たちを侍らせている時点で王家に入れるのは危険よ。
妊娠したとしても、誰の子か分からないもの』
と教えてくれた。
そのときは、「さすが次期国王と正妃!」と感服したものだが、セドリックは、ころっと落ちてしまったようだ。
「ローゼは兄が崩御した時、共に悲しんでくれた優しい女性だ。
そして、私に誠に寄り添ってくれる女性である」
セドリックはローゼの小さな肩に手を廻した。
「私は、ローゼ・ブロッサム男爵令嬢を正妃として迎え入れる!!」
「「セドリック様!」」
サーシャとローゼが同時に叫ぶ。
前者は悲鳴。後者は歓喜の声で。
さすがに、サーシャもこれは想定外だったのだろう。ふらふらと後退したので、シェリルが背中を支えた。
姉の身体は思ったよりも軽く、弱弱しかった。
サーシャはシェリルに囁いた。
「ありがとう、シェリル。貴方は少し下がってなさい」
「でも、姉様」
「いいから。ここは、私の問題よ」
サーシャは目に力を込めると、セドリックと向き合った。
「彼女を愛するのは結構ですが、国王陛下からの承認は得ているのですか?」
「父上が帰国してから承認を得る。
それよりも問題は、お前の素行だ!」
ここから、セドリックは熱を込めて語り出す。
「ローゼの装飾品を奪ったり、教科書を破ったり、机に泥を塗ったり、挙句の果てには、ローゼを階段から落としたそうだな!」
セドリックが宣言すると、ローゼは僅かに顔を青ざめながら、ゆっくりとドレスの袖をまくった。腕には包帯が巻き付けられている。ローゼは目を瞑ると、細い指で包帯をめくろうとした。
「君の傷は私が確認している。醜い痣を皆に見せることはない」
「……セドリック様。お気遣い、ありがとうございます」
ローゼは安堵したように呟くと、袖を元に戻した。
「どうだ? 申し開きをしてみろ」
セドリックは憎悪に燃える瞳で睨み付けた。
サーシャはすべてを受け止め
「証拠はありますの?」
と、言葉を返す。
「私とブロッサム嬢ではカリキュラムが違います。すれ違うことすらありませんでした。私の周りの友人が証言してくれるはずです。
それに、私に関するスケジュールは王家に提出してあります。照合すれば、すぐに私がやっていないと分かるはずでしょうに」
「そのようなものは、改ざんすればいいだろう?」
「ありえませんわ」
サーシャは、まっすぐセドリックを見つめた。
そのことは、シェリルも知っている。未来の王妃になる者は、分刻みで管理される。幼いころから予定を王家に提出しているせいで、予定外の行動をすることが難しい。
予定外の行動をしたときは、ちゃんと変更届を提出しなければいけないほどだ。
「改ざんするためには、王家専用の書庫に入らなければなりません。
鍵を持つのは、選ばれた王族のみ。まだ婚約者に過ぎない私では、立ち入ることができません」
サーシャは声を震わせ、ぎゅっと拳を握る。
握りしめられた手は、もう誰が見ても分かるほど震えていた。
「ご存知ですよね? それとも、私が王家に嘘の予定を教えていると、本気で考えているのですか?」
サーシャの瞳は潤んでいた。
シェリルと同じ蒼い瞳は悲しみと絶望に濡れている。セドリックは彼女の視線を受け、「うっ」と呻いたあと、怯んだような顔を背けた。
「……ああ。ローゼが証言している。
彼女が、嘘をつくはずがない」
その言葉は、しんっと静まり返った広間に木霊した。
「詳しい取り調べを行う。その時の態度次第では、側妃として残すことも考えてやろう。……その女を地下牢へ連れていけ」
セドリックはサーシャを見ることなく、傍にいた近衛兵に命令する。
兵たちは一瞬躊躇したが、セドリックの
「早くいけ!」
という叫びで動き出した。
シェリルは腰の剣に手をかけ、サーシャの前に躍り出た。
「姉様、下がってください。いかに王太子の命令であろうと、伯爵家の令嬢を地下牢にだなんて!」
「シェリル、控えなさい!」
サーシャの凛とした声が広間を貫いた。
シェリルは弾かれたように、姉を見上げる。サーシャは一気にやつれたような顔をしていたが、立ち振る舞いは気丈を保っていた。
「王太子の命令です。私は従います。貴方たちは部屋で待機していなさい」
サーシャは宣言すると、兵たちの方へ歩き始めた。そして、シェリルの傍を通り過ぎる直前
「大丈夫よ、シェリル。陛下が帰国したら、きっと元通りになるわ」
と優しく囁いた。
「さあ、行きましょう」
サーシャは歩き始める。
自ら前に立ち、捕らえろと命じられた兵たちを引きつれて姿を消した。建国パーティーだというのに、もう誰の顔にも祝いの色など浮かんでいない。
貴族たちも、シェリルたち近衛も、セドリックでさえ、暗い顔をしていた。
「ありがとうございます、セドリック様!」
ローゼだけが笑顔だった。
セドリックの腕にすがりつくように抱き着き、愛しの王太子を潤んだ瞳で見上げた。
「私、あの人が意地悪してくるから怖くて……」
「……そうだな。しっかりこれから取り調べを行う。だから、ローゼは安心してくれ」
「セドリック様!」
ローゼの周囲が、わずかに色めき立つ。
シェリルはもう見ていられなかった。
次の日。
サーシャは自殺した。
誰もいない寂しい地下牢で、首を吊って。
ネザーランド家に遺体が戻ってきたのは、それから数日後のことだった。
「シェリル! お前がいながら、なぜ、止められなかったのだ!!」
父はサーシャの遺体を目の当たりにし、悲痛の叫びをあげた。
「……いや、仕方ない。それは分かってる。お前のせいではない。だが、あんまりではないか」
厳つい父の眼からは、涙がぼろぼろと零れ落ちた。
兄は愕然と座り込み、言葉すら出てこない。
父と兄は、建国パーティーに出席できなかった。
国王陛下と共に、隣国の王家の結婚式へ招待されていたのだ。外交が終わり、帰ってきたときには娘が婚約破棄された挙句、死んでしまっていたなんて、悪い冗談としか思えなかったのだろう。
「断固、王家に抗議する!
貴族の娘を地下牢へ連れて行くなど言語道断。城には、貴人を幽閉するための専用の部屋があるのに! これは、不当な仕打ちだと!」
父は、すぐに王城へと乗り込んだ。
怒りと悲しみで顔を赤らめ、外套を翻して玄関を出て行く。
これが、生きている父を見た最後の姿。
数分後、父は死んだ。
乗っていた馬車が横転し、川へ転落したのである。
父は命からがら川から這い上がったところで、浮浪児に刺されて死んだ。浮浪児はすぐに捕まったが
「こいつは自分の実の父だ。僕を認知せず、母を殺した悪人だ」
と、意気揚々に語ったらしい。
両親は政略結婚だったが、父は愛妻家で母が亡くなってからも女を作ったことはなかった。平民に手を出すような人でもなく、そのように浮いた話は一切なかった。
事実無根なのに、本人の供述だけで判断され、裁判官は「浮浪児に対する養育費を払え」と殺された側にもかかわらず、天文学的な賠償金の支払いをネザーランド家に命じた。
裏付け捜査もされないまま、事件は収束させられた。
ネザーランド伯爵家は没落した。
当主が愛人関係で死に、王家を辱めた娘を輩出した家。
貴族や友達も波が引くように離れていき、シェリルの婚約者も「婚約破棄」を告げた。
賠償金を支払い終えた我が家は、すっからかんになった。
「……シェリル。大丈夫だよ」
たった一人残った兄が、シェリルを慰める。
「爵位は残っている。領地だってある」
「ケイオス兄様……」
「大丈夫だから。悪い時は必ずあるけど、きっと今が最底辺だ。あとは上がっていく一方だよ」
ケイオスはニッコリ笑い、ぽんぽんっとシェリルの肩を叩いた。
「とりあえず、シェリルは領地に戻りなさい。あそこなら、まだ安心だ。今の王都は危険すぎる」
ところが、シェリルは領地に帰ることができなくなった。
王城から突然、ローゼが訪ねてきたのである。
「悪事を働いたのは、貴方の姉であって、シェリルではないもの。
だから、貴方を私直属の近衛兵として任命するわ」