17話 流星
「――ッ」
シェリルの反応が半歩遅れた。
シェリルの肩をナイフが掠め、熱を帯びるような痛みが奔る。シェリルがよろめくと、再び赤毛の男がナイフを向けて突進してきた。
シェリルは唇を噛みしめると、ナイフが顔に突き刺さる前に左手を伸ばし、男の右手をつかみ上げる。ナイフの刃先は逸れて、わずかに上を向いた。シェリルは空いた右手でナイフを下に向けるように抑えながら、そのまま勢いよく捻り込みをかけ、背中から地面にたたきつけてやる。
「ぁあああ!」
男は何が起きたのか分からず、突然の痛みに顔を歪ませていた。その隙に、シェリルはナイフを左足で蹴り飛ばし、右足で仰向けになった男を転がし、うつ伏せにする。
「兄様の服をどこで手に入れた!」
シェリルは、赤毛の男を取り押さえたまま、声を荒げた。
「ッ、は、はは。この服の主が気になるのか?」
男は痛みに呻きながら、にたりと下品な笑みを浮かべる。
その顔を見た瞬間、シェリルはぞくりと全身に鳥肌が立つ思いがした。朝、兄が着ていた服を見間違えるはずがない。では、その兄はどこへ行ったのか。どうして、その服をこの男が着ているのか。
「今夜、王都へ帰らないっていうなら、教えてやるぜ?」
「それは――ッ!」
シェリルは頷こうとして、ぐっと言葉を飲み込んだ。
ローゼの企みを阻止するためには、いまから馬を全速力で奔らせないといけない。しかし、兄の安否も同じくらい気になる。
「何を躊躇っているんでやんすか!」
リッパーがシェリルを叱責する。
彼はシェリルを押しのけると、取り出した縄で男を拘束し始める。
「貴方がするべきことは、馬を奪って逃げることでやんす」
「でも、兄様が!」
「貴方が城に戻らないと、あの女の思い通りになるでやんすよ!」
リッパーはシェリルに鋭い眼差しを向けると、シェリルの身体を持ち上げた。シェリルの肩ほどまでしかない小柄な身体なのに、一体、どこに力が眠っていたのだろうか。シェリルが抵抗する間もなく、ひょいっと馬の背に乗せた。
「チムリさん!?」
「次に会う時は、気兼ねなく『リッパー』と。貴方のお兄様は、必ず探し出してみせるでやんす」
リッパーはそう言うと、馬の尻を勢いよく蹴り飛ばした。
馬は高らかに鳴くと、シェリルの意思とは別に走り始める。あっという間に厩を飛び出して、木立の中を駆け始めた。
「……ありがとう、リッパーさん」
シェリルは手綱を握ると、まっすぐ前を見据える。
兄のことは気がかりで、心に棘が刺さっている。本当は自分で探し出したい。だが、自分の身体を二つに分けるなんてことができない以上、どちらかは人に頼まないといけない。
そうなったら、おのずと答えが見えていた。
「私は……城に戻る!」
馬を走らせる。
そのたびに振動で身体が揺れる。肩の切傷は頭に残る歪な疼きに勝ち、その痛みで意識がはっきり保てるような気がした。
離宮の見取り図なんて、頭に入っていない。
だが、厩から外に出る道は覚えている。セドリックとの遠乗りは離宮を覆う森を一周しただけに終わったが、その時、門が視界の端に映っていた。
(このまま進めば、門に出る。門を跳び越えれば、こっちのものだ)
森の木々を軽やかに避けながら、馬は突き進む。
すでに森には陽光が差し込まず、薄暗いなかに梟の光る眼が見えた気がした。焦りが募ってくるが、その緊張を馬に気取られるわけにはいかない。シェリルはこの二年間、すっかり慣れたように感情に蓋した。
ただ心を無にして、記憶を頼りに馬を走らせていていると、森の隙間から光が差し込むのが見えた。光の向こうには、鉄の格子門が飛び込んでくる。
当然、門の傍には兵士が待機しているだろう。
厩に兄の替え玉が待機していたのだ。シェリルが逃げ出すことは算段に組み入れているに違いない。
だが、この馬の速度なら問題ない。剣や矢も手綱ひとつで軽くかわせる。その覚悟を抱き、森を出た瞬間だった。
「いまだ、放て!」
一斉に弦の弾かれる音がした。
その音と共に矢が降り注いでくる。シェリルは離宮の二階から狙ってくる姿を確認すると、避けるように手綱を引っ張った。馬は避けた。ところが、シェリルの命じたようには避けなかった。こちらに向かってくる矢に怯むと、まったく見当違うの方向へ走りだす。
(この馬、調教してない!?)
敵は、二手、三手、先を打っている。
厩で止められなかった時点で、シェリルが馬を奪って逃げるのは必定。そして、シェリルの技術なら、この程度の矢は避けることができると踏み、すべて調教が済んでいない馬を厩に揃えていたのだろう。
こちらの実力を認めてもらったと喜ぶべきか、悲しむべきか。
とはいえ、いまは逃げることが最優先だ。なんとかして、怯え切った馬で逃げ切るしかない。幸いなことに、矢は横側から、つまり離宮の屋敷側から放たれてくる。
(だったら、このまま柵に沿うように並走して……)
怯えた馬を柵の方へ誘導する。馬は怖い矢から離れることができるので、素直に従った。
そこに従ってくれれば、あとは何とかなる。馬が自分の意思で走っていると錯覚させるように、シェリルは柵と柵の角のところまで誘導する。柵と柵に挟まれ、逃げ道がないと分かれば、この子が取るべき方法は一つだ。
「跳べっ!」
シェリルの叫びと同時に、馬は地面を勢いよく蹴った。
前から吹き付ける風と浮遊感。馬は背後から迫る矢から逃れるように、離宮の柵を軽々と越えていく。
問題はここからだ。
馬を跳ばすのは簡単だ。今やったように、馬とタイミングを合わせて手綱を引けばいい。
しかし、着地はそう上手くいかない。
馬が着地に失敗して足を崩し、転倒することがある。他にも馬が着地時につまずいてしまい、騎手がバランスを崩して落下してしまうこともある。平地を走らせているときよりも、こうした着地で落馬するケースが多いのだ。
ましては、調教していない馬だ。慣れないことなので、着地に失敗してしまう可能性が高い。
(上手くいきますように)
シェリルは祈りながら、着地の瞬間に息を飲む。
どんっと鈍い音と振動の後、馬は地に足を付けた。そのまま勢いを削ぐことなく、まっすぐ離宮を囲む森を駆けおりていく。
シェリルは安堵した。
あとは、このまま森を抜け、丘を下りながら王都を目指せばいい。丘の周囲は川で覆われているが、この調子と速度なら、跳び越えることができるだろう。
そう、思っていた。
「え……?」
叫ぶような鳴き声と共に、ぐんっと速度が上がる。
速度が上がるのは嬉しいが、このような上がり方は珍しい。というか、異常だ。馬は頭を震わせながら、どんどん速度が上がっていく。馬の口から白い泡が噴き出しているのを確認すると、シェリルは息を飲んだ。
「まさか……毒が盛られてる?」
馬は、死ぬまで走る。
たとえ、毒を盛られていても、身体が苦しくても、一度走りだせば止まることができない。ましては、理性を失ってしまえば、先程のように誘導するのも難しくなる。
馬とヒトとでは身体の造りが異なるとか、限界を超えて走ってしまうとか、騎士学校で習った。
いまは、その習性が仇となっている。
(あの女! ここまでするの!?)
シェリルは怒りを抑えるように奥歯を鳴らした。
可哀そうだが、このまま走り続けてもらうしかない。
シェリルは、理性を失った馬を止める方法も毒を抜く方法も知らなかった。ならば、せめて、王都まで走り続けさせるしかない。
王都に着いて、ローゼにこの仕打ちを叩きつけてやる。
『獣国に嫁ぐ令嬢が婚約破棄を強要された挙句、拉致監禁され、逃げ出そうとしたら、馬に毒が盛られていて、殺されかけた』とか、最低最悪な事実が盛りだくさんだ。
(それが、この子に対する供養になると良い)
シェリルは振り落とされないように、手綱を握る指に力を込めた。
出血のせいで、文字通り、血の気が引いて行く。
気のせいか、振動に合わせるように出血が酷くなっていく気がした。代わりに毒が血と共に流れ出たのか、頭はハッキリしてくるが、気をしっかり保っていないと、指の力が弱くなる。
(ここで死んだら、都合よく事実を改変される)
その一心で気を張っていた。
だが、身体は言うことを聞かない。
荒々しい走り故に振動が激しく、姿勢を保つのもやっとだ。悪条件が重なり、離しては駄目だという思いとは裏腹に、シェリルの指は手綱から離れそうになる。
やっとの思いで森を抜け、馬は丘を全速力で駆けおりる。
その先には、夕日を浴びて、ちらちらと赤く輝く川があった。川を越えた先に、花が揺れる野原が広がり、その向こうに高らかとそびえたつ城と街並みが見える。視界を遮るものはなく、気が遠くなるような距離だ。
「あっ!」
瞬間、シェリルは目を見張った。
蜜色の世界に、ひときわ輝く黄金が迫ってくる。太陽の残滓を身体一杯に浴びて、今まで見た黄金よりも輝いた獣だった。金の残像を尾のように引きながら、夕焼け色の川を悠々と跳び越え、一秒ごとに距離を詰めてきた。金色の狼の黄色い双眸は、まっすぐシェリルを見据えている。
(この子と彼とでは、彼の方が断然速い)
シェリルは考えた。
馬の瞳には理性の欠片も残っていない。
この馬には、もう走ることしかできない。
川を跳び越えることは、きっと難しいだろう。自分のせいで犠牲になった姿に心を痛めながら、シェリルは確実に近づいてくる狼に視線を戻した。
黄金の瞳を見つめ返す。シェリルは互いの速度を計算すると、口の端を持ち上げた。
「私は……貴方と私の勘を信じる!」
シェリルは手綱を離した。
瞬間、身体が後ろに跳ぶ。
正確には、後ろに向かって宙を跳ぶ。
数秒のはずなのに、異様なほど遅く感じた。
この勢いで受け身を取ることなど、さすがに不可能だ。辛うじて成功し、死を回避できたとしても、全身骨折か打撲は免れない。
無謀だ。暴挙だ。馬鹿げた行いだ。例え川を越えられずとも、馬が死する瞬間まで走らせた方が良い。
けれど、シェリルは信じていた。
少しの浮遊感の後、殺しきれない勢いで、シェリルは黄金のうちに飛び込んだ。
「おまっ、危ないだろ!」
すぐ耳元で、怒るような慌てたような声が聞こえてくる。
シェリルは金髪の青年に横抱きにされていた。余程、焦ったのだろうか。髪は乱れ、前髪が顔にかかっていた。額には汗が滲んでいる。
「無茶するなって。馬から飛び降りるとか……俺が間に合わなかったら、怪我どころでは済まないぜ」
コンラートは大きなため息の後、今度は安心したように肩を落とした。
「すみません……でも、貴方なら助けてくれるって、信じてたから」
シェリルが正直に伝えた。
とはいえ、少し怖かったのも事実だ。このまま地面に降ろされたら、生まれたての小鹿のように足が震えて立てない気がする。
「……そんな顔されたら、怒るに怒れないだろ……ったく」
コンラートはシェリルから顔を背けると、疲れたように頭を掻いた。
シェリルは馬を見つめた。
騎手のいない馬は川に突っ込むと、そのまま前足を動かすようにもがいていたが、流れに逆らえず、下流へと消えていった。
「……あの子、毒を盛られていたんです。私が逃げ出さなくても、きっと……」
シェリルは、その先の言葉を飲み込む。
胸元をぎゅっと握りしめ、あの子や厩の残された子たちのことを想う。
「酷い真似だ。なおさら、城に戻るぞ――ッ、その傷は!」
コンラートはシェリルの肩を見下すと、険しい表情に変わった。
「大した傷ではありませんよ。ちょっとヘマしただけで」
「大怪我だろ! あー、くそ。応急措置できる物持ってくれば……」
「大丈夫ですって。すぐに止血して、城に向かいます」
シェリルはドレスの裾を引き千切った。
「シェ、シェリル嬢!?」
「他に布がないので」
裾を引き千切ったとはいっても、足が少し見える程度だ。ドレスがもったいないが、他に止血布がないので、仕方あるまい。そこまで大げさに驚かなくてもいいと思う。
そう思いながら、自身の肩に布を巻こうとしたが、コンラートが待ったをかけた。
「自分でやるのは大変だろ。俺がする」
彼はシェリルを降ろすと、慣れた手つきで布を巻く。
シェリルが自身で止血するより、遥かに早く応急措置が終わった。
「この傷も含めて、あの女に叩きつけてやる。シェリル嬢、俺に乗れ」
コンラートはぶるりと震えた。
金の髪が全身を包み込むように広がり、身体は膨れ上がって、馬よりも一回り大きい金狼へと変化する。牙は噛まれたらひとたまりもないくらい鋭く、獣の息遣いがすぐ近くで聞こえた。
ただ、怖くはない。
怖さよりも王者のような気高い美しさを感じた。
獣は唸りながら、シェリルを乗せやすいように伏せた。
シェリルは慎重に彼の背に乗る。馬に乗るより視界が高く、世界が広く感じた。手綱はないので、申し訳ないが、彼の毛を握りしめる。
すると、コンラートは一吼えし、地面を勢いよく蹴った。
「うわっ!」
速い。
まるで、疾風になったかのように速い。シェリルは身を前に屈め、少しでも風が顔に直接当たらないように気を付ける。
先ほどの馬より断然速いが、包み込まれているような感覚と表現したらよいのだろうか。振り落とされる心配は全くしなくてよい程、安心感を抱いていた。
「……」
世界が蜜色から藍色へと変わっていく。
そろそろ、ちらほらと星が瞬き始めることだろう。前方の街には明かりが灯り始め、天に流れる星の渦のようだった。
(……空から見たら、彼も星に見えるのかな)
こんな状況なのに、くだらないことを考えてしまう。
黄金の獣が何もない草原を奔る様は、夜空に流れる一筋の流れ星かもしれない。
(披露宴に間に合いますように)
シェリルは流れ星に希望を託すと、金色の毛を硬く握りしめた。




