16話 におい
アネモネ王国の王城。
獣国の二人組は、広すぎる廊下を歩いていた。
「はー、疲れた。二度と御免だ」
コンラートはがっくりと大きく肩を落とす。
その顔には疲労の色が濃く滲み出ていた。そんな彼の様子を見て、ジークは窘めるように笑った。
「こらこら、王太子妃の妹君から誘われたお茶会を悪く言わない」
そう言いながらも、ジークも内心はうんざりしていた。
この二日間、リリー・ブロッサムからお茶の誘いを受けている。名目上ではジークを誘っているが、実際はコンラートに向けた茶会である。
リリーはジークには申し訳程度に、ほとんどコンラートに向かって話している。
「彼女も読書が趣味だとか。話を合わせてあげればよかったのに。貴方も本が好きでしょう?」
「余計な勘違いされたくないっての」
ジークが面白がって水を向けると、彼は心底うんざりした表情で吐き捨てる。
「あいつの眼を見たろ。表面上は取り繕ってるが、俺たちへの蔑視が見え隠れしてた」
「それには同意します」
さすがは、ローゼの妹。
男心をくすぐる視線や仕草、言葉選び、声の調子など、ありとあらゆる手段を駆使して篭絡にかかっているようだったが、いかんせん。ちょっとした拍子に、獣人への嫌悪が滲みだしてしまっていた。
「そもそも、あんな女に俺が尻尾を振るわけないだろ。それなのに、懐柔できると思っているのが腹立つ。
あー、シェリル嬢に会いたい」
コンラートは嘆く。
ジークは苦笑いをした。茶会の途中、ヒルダがジークたちの上空を舞っていた。つまり、シェリルも登城しているのだろう。披露宴に招待されていると聞くので、別に気になることではない。彼女が城に入った場合は、リッパーに警護を代わる取り決めになっているので、なにかあればすぐに分かるはずである。
「はいはい、愚痴はあとで聞いてあげますから。
それよりも、いまは仕事の時間。貴方の鼻が役に立つときですよ」
「承知してますよ、陛下」
コンラートは大きく嘆息すると、自身の主より一歩先を歩き始めた。
見た感じは普通に歩いているが、よく注視してみると、本当に鼻が微かに動いているのが分かる。狼系の獣人である彼は、臭いを嗅ぐのに長けている。彼は頭に叩き込んだ地図と臭いを頼りに、城の奥へと進んでいた。
「ん?」
そんな彼が立ち止まる。歩みを止めるには、いささか早すぎる。ジークは首を傾げた。
「ここですか?」
「あの匂い」
コンラートが前から歩いてくる男を見据えている。薄茶色の髪に緑の瞳をした男だった。目元はきつめだが顔立ちは良い。
(シェリルさんに関する報告書に載ってた人だ)
シェリルの元婚約者のブルータスだったか……と、ジークは記憶をたどる。そして、自分の部下の嫉妬深さに呆れ果てた。元婚約者より遥かに勝っているのに、相手にするとは子どもではあるまいし……と、思ったが、それにしては相方の様子は違うように見える。
一方のブルータスはジークたちが見ていることに気付くと、ややバツが悪そうな顔になり、すっと壁に避けた。
「お前」
コンラートがまっすぐ男に近づく。
ブルータスはあからさまに動揺を隠せない。けれど、腐っても騎士だ。彼は最後の気力を振り絞るように、コンラートを見上げた。
「なにか、御用でしょうか?」
「シェリル嬢の匂いがする?」
「は、はあ? シェリル? なんのことやら」
「シェリル嬢の匂いが身体中に付いてる。ただ会って話した程度で、これほど匂いはつかない。貴様、あの娘に何をした?」
コンラートの全身、細胞の一つ一つから肌を刺すような殺気が膨れ上がる。
真面に殺気を浴びた男はひぃっと縮こまり、首を千切れそうな勢いで横に振った。
「な、なにもない! 三日前に中央広場で会った時以来、彼女と何もない!」
「だったら、この匂いはどう説明する? 今日、何をしてた?」
「俺は夜会の警備の確認をして……そしたら、ローゼ様から荷物を離宮に運ぶように言われて、運んで、いま戻ってきたところだ」
「嘘を言っているようには見えませんね」
ジークは人差し指を唇に添える。
ブルータスの恐怖に震えた瞳に嘘の色は一変たりとも見えなかった。というか、この状況で凄まれて嘘を堂々と言うほどの強者には見えない。
「リッパーに警護を頼んでいたはずでしたが……連絡する時間がなかったのでしょう」
「とにかく、その荷物が怪しいな」
コンラートが黄色い双眸を細めた。ブルータスは蛇に睨まれた蛙のように呻くと、ますます身体を縮めた。そして、壁に溶け込んで消えそうなくらい下がる。
「どんな荷物だ?」
「絨毯だよ。やけに重い絨毯」
「そこに、シェリルさんを隠していたのかもしれませんね」
「その離宮とやらは、ここからどのくらいだ?」
コンラートが尋ねると、ブルータスはさらに震えあがった。
「う、馬で片道3時間」
「往復6時間。急いで助けに行かないと、披露宴に間に合いません」
「分かってる。だが、俺たちにはするべきことが残ってる。救出は……ヒルダに任すしかない、のか」
コンラートは苦しそうに呟くと頭を掻いた。
すぐに跳び出して行きたい気持ちと職務との合間に挟まれているのだろう。ジークは幼馴染の苦悩する姿を見て、仕方ないなと一肌脱ぐことにした。
「ブルータス、でしたっけ? ここから先の案内をお任せします。この二日の調査で、だいたいの場所は割り出せていますから。
だから、貴方はシェリルさんのところへ行きなさい」
「ジーク!?」
「匂いを辿れば、ヒルダより早く離宮まで行けるでしょう。
ああ、もちろん。貴方が行くとなると、そこの縮こまった男の協力が不可欠になってくるのですけどね」
ジークは口の端を上げる。
ゆったりと口元に弧を描きながら、残酷なまでに笑っていない紫の瞳を怯え切った男へ向ける。
「ブルータス、でしたっけ? 私に協力しなさい」
「こ、断ったら?」
「這い上がれないほど深くまで落としてあげましょう。命の保証もしかねますね」
ジークの声色は恐ろしいまでに明るく、それでいて真冬の湖よりも冷ややかだった。
ブルータスは騎士にあるまじきほど震えながら、獣王の要望を受諾する。それを見届けると、ジークは小さな扇子を取り出し、幼馴染に温かな微笑みを向けた。
「ほら、さっさと行く。披露宴までに戻ってくるんですよ」
「――ッ、感謝する!」
ジークが促すと、コンラートは険しい表情で駆けだした。瞬く間に廊下を駆け抜け、姿を消した幼馴染を見送る。
「ま、これも、彼とリッパーで概ねの場所を割り出せたおかげ。やっぱり、事前準備は大事ですね」
ジークは窓を開け、ひゅるりと口笛を吹く。
ブルータスはへなへなと座り込むと、そんな獣王の行動を奇怪そうに見上げていた。
「ほら、貴方もぼさっと座っていては駄目ですよ」
「ど、どこへ案内すればいい?」
「先へ」
ジークの桃色の唇が短く呟く。
「最重要人物の幽閉先へ」
時は進み、リコリスの離宮。
すっかり蜜色に染まった離宮では、シェリルが身を潜めながら行動をしていた。
牢の見張りから拝借した剣を握りしめ、柱の影から様子を窺う。
サーシャやローゼの近衛として離宮に何度か訪れたことはあったが、いまは王族がいないからだろう。警備は緩かった。
それでも、要所要所には配置されているので、細心の注意を払って進んでいる。
「チチッ」
シェリルが隠れていると、栗鼠状態のリッパーが向こうの廊下から戻って来た。
この身体では話せないが、手や足を動かして色々と意思を伝えようとしてくれる。シェリルはリッパーの様子を読み取りながら、うんうんと頷いた。
「二つ先の角を曲がったら、出口がある。そこから外へ脱出できる」
「チ!」
リッパーは指を立てた。
どうやら意思疎通は出来たようだ。シェリルは視線を柱の向こうに戻した。後ろを向いた瞬間に一撃食らわせれば容易に突破できるが、万が一の時があると面倒だ。具体的には、倒れた騎士を他の騎士が見つけるとか。
「よし、行こう」
シェリルはリッパーを肩に乗せると、騎士の隙を見計らいながら素早く前進する。
廊下の蜜色が濃くなっていくのを見ると、焦りが募っていった。
離宮から城まで、馬の足で3時間程度。
このまま守備よく馬を拝借し、全速力で駆け抜ければ、披露宴には辛うじて滑り込める。シェリルは呼吸を整え、心を落ち着かせながら、一歩、また一歩と先に進む。
そして、ついに裏口に到達した。
鍵はかかっておらず、扉は音もなく開いた。リッパーが少し開いた隙間から外の様子を確認しに行き、問題ないと戻ってくる。シェリルが外に出ると、そこには小綺麗な水辺や小さな森が広がっていた。
「ここ……知ってる」
シェリルの記憶がよみがえる。
水辺のほとりに布を敷き、サーシャと当時の王太子、そして、セドリックが午後のお茶を楽しんでいた。シェリルは姉の付添い。初めて入った離宮で落ち着かず、そわそわしていると、セドリックが勝負を挑んできたのだ。
『シェリル、馬の扱いについて勝負したことはなかったな?』
今思えば、シェリルの緊張を取り除こうとしてくれたのかもしれない。
セドリックは木陰の向こう側を指さして言ったのだ。
「厩はあっちだ。ついて来い」
シェリルはセドリックの言葉を繰り返す。
リッパーが再び周囲の様子を確認しに行こうと進み始めていたが、シェリルの言葉に気付き立ち止まる。
「チムリさん、厩はあっちです。森の向こう側」
シェリルはリッパーを肩に乗せると、勢いよく地面を蹴った。
厩はこの裏手だ。こっそり回り込む方法もあるが、日が暮れてしまう。窓から見られている可能性はあるが、全速力で走って木陰に滑り込めば、発見されるリスクも減る。
さすがは叔母の作ったドレス。羽のように軽く、とても動きやすい。裸足なので下草に足が食い込み、くすぐったさを感じたが、ヒールよりずっと走りやすかった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
シェリルは木の陰に隠れる。
いきなり動いたせいか、じんっと頭が鈍く痛む。普段よりも息が上がるのも早い。その呼吸音が頭の中を異様なまでに反響するように聞こえた。シェリルは肩を上下させながら、屋敷の様子を窺い見る。特に騒ぎになっているようには見えない。窓の向こうから、こちらを凝視している者の姿も確認できなかった。
「チチ?」
「大丈夫。平気です」
自分に言い聞かせるように立ち上がると、厩への道を急いだ。
小さな森を抜けると、そこには記憶通りの厩があった。馬たちが足踏みする蹄の音やいな鳴く声が耳に届く。
見張りはいない。だが、わずかに人の気配がする。
(嫌な臭い……確認しないと)
シェリルは厩の扉に手をかけた。軋む音を立てぬように細心の注意を払いながら、拳一つ分ほど開ける。厩の壁に姿を隠し、そっと隙間から覗き見て、息を飲んでしまった。
縄で縛られた人が倒れている。
赤髪の男が伯爵家の紋が入った服を纏い、ぐったりと倒れ込んでいる。
「兄様っ!?」
シェリルは警戒も忘れて、そのまま駆け込んでしまった。
薬や疲労、そして、家族の危機という驚きが重なり、緊張が途切れてしまったのかもしれない。シェリルは一歩厩に踏み込み、すぐに抱き起そうとする。
「兄様……?」
「――ッ、危ない!」
リッパーの叫び声が耳を貫く。
それと同時に、赤髪の男が銀のナイフを翻し、シェリルに襲いかかった。




