海風
父が海の傍らで呑む日は、必ず昔話がはじまった。
「俺はむかしあの大女優、桃瀬花梨と付き合っててなあ」
そしてその日は、必ず母の命日であった。
「大好きでさあ、これ以上人を好きになることはないと思ったねえ。今でも顔が変わんないけどさ、若さって不思議で、ほんとうに内側から美しさが溢れていたねえ。幸せすぎて周りなんか全くみえていなかったよ。」
父がいうには、その大女優が売れ出して捨てられてしまった頃に母さんと出会い、支えられ、一緒になることになったらしい。
昔話は必ずこの大女優の話からはじまった。
「母さんはほんとうに立派な女だったよ。母さんだって学生時代クラスの男子に取り合いにされてたような美人な女だってのに、桃瀬花梨をいつも立てててなあ。俺の中から花梨の存在を消そうとなんてしなかった。むしろ自分はかなわないっていつも一歩引いた態度でいたよ。それがどんなに辛いことだったか当時の俺は全く気付けやしなかった。今覚えば自分のことばっかりだったなあ。」
父が母を思い返す日は、同時に桃瀬花梨を思い返す日でもあったようだ。
しかし、息子の俺は何年この話を繰り返し聞かされようと、全く信じていなかった。
目の前のくたびれた白髪のおじさんがあんな大女優と付き合えるわけがないとおもったし、何より父は作り話や冗談が大好きだったから。
しかし、この状況はどうだろう。
毎年年に1回海で飲む行事も忘れてガンに父が倒れて3年、町中が騒ぐ中、桃瀬花梨が父の病床にやってきたのだ。
「わたしのこと、覚えてる?」
テレビで見るより低くて年をとった女性の声だった。
「はてさて、こんなに綺麗な女性は知りませんねえ」
「ふふ、わたしは桃瀬花梨っていうんだけど、むかしあなたと似ている人と付き合ってたことがあってね、ずっとそのひとに謝りたいことがあったの。」
「それは残念です。他人のそら似でしたね。こんな田舎町に来てもらってすみません。」
「そら似でもいいわ。そっくりさん、きいてくれないかしら。」
「…僕でよろしければ。」
桃瀬は昔話をはじめた。桃瀬にはこれ以上人を好きになることはないと思えるような人と出会って付き合っていたこと。幸せの最中、仕事が軌道に乗りはじめたこと。男性よりも仕事を選んだこと。しばらくして男性が結婚してしまったこと。芸能界でおこったこと。そしていまの桃瀬について。
父は静かにきいていた。その目は輝いていた。
そしてその日は父の命日になった。
父のガンは最終ステージを通り越して今夜が山ですという日を何日も過ぎた状態だった。呼吸すら自力で行うのも苦しく会話なんて出来るような状態ではなかったのだ。
ところがどうだ。桃瀬花梨が来た途端、呼吸器なんて要らないとばかりにはずして、背筋をピンと伸ばしてベッドに座っていた。
これ以上人を好きになることはないと思ったという、初恋の威力ってとんでもねえなってただただ感心するばかりだった。
桃瀬がいなくなった後、父がこっそりつぶやいたことは、桃瀬が最後の恋だと思ったなら、母さんは最初の恋だと思ったそうだ。