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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

まんま

作者: 満月小僧

 ある年のある月のある日、ある病院にて、ある幸せな家族のもとに、新しい仲間が生まれました。小さな小さなとても可愛いお母さんに似た女の子でした。


 お母さんは産後の疲れもあろうに幸せそうな顔で今生まれたばかりの小さな生を抱いて、お父さんはその横で頑張った妻を労い、妹が一人増えた十代に成ったばかりのお兄ちゃんは何処か感動を覚えた顔をしながら新しい妹と両親を交互に見つめ、たった今姉と成った小学一年生の妹ちゃんは眼を丸くしながら兄に抱きついていました。


 ああ、何と、生の誕生という物はとても素晴らしく、美しいのでしょう。出産を手伝って服を真っ赤に汚れた衣服を着替えた医者と看護師達が、彼らが関わった新しき生の誕生に感謝さえ覚えながら、何処か絵画の様に完結したその家族を見つめていました。


 お母さんは忘れません。お父さんも忘れません。お兄ちゃんもお姉ちゃんになった妹ちゃんも勿論です。彼らの新しき家族の産声を、この世に生を受け、初めて彼女が世界に刻みつけた声を絶対に忘れないでしょう。


 何処か動物染みたその泣き声は、この世界に生まれた事に歓喜した笑い声の様に聞こえました。





 お日様が高く昇ったある時間。


「まん、まー、まんまー」


「はいはい。ちょっと待ってねー」


 言葉を覚え始めたでしょう。舌足らずの可愛らしい声で、一人の赤ちゃんが彼女のお母さんを呼んでいました。お母さんは愛しき娘の考えを読み取り、自分特性の愛情を込めた離乳食をスプーンで掬い、愛娘の口元へと運びます。


「はい、あーん」


「キャッキャ」


 愛娘はお肉が好きのようで美味しそうに頬張るので、お母さんとしても料理のし甲斐ありました。


 三人目となる子供を生んで早くも一年半年。お母さんは幸せでした。愛する夫は自分達のために朝から晩まで働いて、長男であるお兄ちゃんは少し生意気盛りだけど、母の日等の記念日は忘れずに祝ってくれ、長女のお姉ちゃんは、初めて出来た妹分にお姉さんぶり、見ていてとても愛おしいからです。


 ああ、私はなんて幸せなのかしら。最近の彼女はよくそう思っていました。


「まーまー、まーまー」


 綺麗に離乳食を平らげると娘は母に何かせがむ様にぐずります。お母さんは微笑みながら娘の望む物を取り出しました。何処にでも売っていそうなプリンです。一転して赤ちゃんの顔は可愛い可愛い笑顔になりました。天使の笑顔とはこの事でしょう。


「はいはい。すこーし待ってねー」


「キャッキャ! プーリー!」


「そうねー。プーリーねー」


 この赤ちゃんのお気に入りはお肉とプリン。その二つがあればとっても幸せな顔に成るのでした。





 夕方になり、幸せな家族の家に、お父さんが帰ってきました。


「パパ!」


「パパ!」


 お兄ちゃんとお姉ちゃんは玄関のドアが開く音を聞くと弾けた様に仲良く走って玄関に向かいます。お父さんに抱っこをしてもらうためでした。


「ただいま。今日も良い子にしてた?」


 赤ちゃんを抱いてお母さんも夫を迎えに玄関に行くと、愛しい夫が可愛い息子と娘の両方を抱っこしていました。


「おかえり、あなた。今日もお疲れ様」


「ああ、ただいま。今日も問題は無かったかい?」


「ええ。後で私も抱っこしてくださいな?」


「勿論だとも。おチビちゃんも一緒にね」


「ぱーぱー」


 赤ちゃんも笑顔です。


 お母さんは玄関に置かれた夫の鞄を持って、お父さんは息子と娘を抱っこしながら、リビングに向かいます。そこにはお母さん手作りのとても美味しそうな料理が広がっていました。勿論赤ちゃん用の特製離乳食も一緒です。


「おお、美味しそうじゃないか。待っててくれたのかい?」


「はい。今日は早く帰ると聞いていましたから。ね?」


「「ねー」」


 お母さんが茶目っ気を入れてウインクをするとお兄ちゃんとお姉ちゃんもニッコリと笑います。


 お父さんは心底幸せそうな顔をして、抱っこしていた子供たちを床に下しました。


「僕は世界で一番幸せな男だよ」


「あら、じゃあ私は宇宙で一番幸せな女だわ」


 お母さんの返事に赤ちゃんも「キャッキャ!」と笑います。


 お父さんは洗面所でうがいをして、リビングに戻りました。家族は皆テーブルについてお父さんの事を待っています。


 笑顔を浮べながら、お父さんもお母さんの横に座って、それを合図に幸せな家族達は手を合わせました。


「「「「いただきます」」」」


「たーだー」


 赤ちゃんはまだまだ舌足らずでした。



 お日様は沈んで、お月様が空のとっても高い所で笑っていました。お父さんとお母さんとお兄ちゃんとお姉ちゃんと赤ちゃんは同じ部屋で眠っていました。お父さんとお母さんだけがまだ起きています。


「あなた、明日は何時頃に帰れるの?」


「ごめんね。明日は会議が長引きそうでその後飲み会なんだ。多分帰るのは深夜になるから先に寝ててくれて構わないよ」


「明日は思いっきり甘えようと思っていたのですけど、残念だわ」


「明後日は休日だから、その時に、ね?」


「はーい」


 お父さんとお母さんは幾つになってもラブラブです。お父さんとお母さんは微笑み会いながら同じ布団に潜りました。


 アカチャンガマダオキテイタコトハダレモシリマセンデシタ。



























「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 つんざく様な悲鳴が鳴り響きました。血塗れです。真っ赤です。いえ、赤だけではありません。黄色とか白とか黒とか、肌色とか色々な色がごっちゃになって真っ赤です。


 今日は土曜日です。この悲鳴は幸せな家族達のリビングから聞こえてきます。昨日もお母さんと子供達で楽しくご飯を食べていました。


「あなた! あなた!」


 お母さんはオトウサンに駆け寄ります。オトウサンは椅子に座っていました。テーブルの上では赤ちゃんが泣いています。


「まん、まー。まん、まー!」


 けれど、お母さんにそれを気にする余裕はありません。


 オトウサンはとても椅子に座ってテーブルに鼻をくっつけていました。テーブルは赤ちゃんと一緒で血塗れで真っ赤です。


 お母さんはオトウサンに駆け寄って、その肩を揺すります。机に突っ伏して見えなかった顔がゴトッと動いて、何処も見ていない紅く濡れた目がお母さんと合いました。

だけど、お母さんには分かっていました。オトウサンはもうお父さんじゃありません。ただのお肉になっていました。


 お母さんはこれが夢だと願いました。ただ、願っただけで信じた訳ではありません。お母さんはどうしようも無いほどに、愛する男の人がただの肉に成った事実を受け入れるしかありませんでした。


 だって、もう、


 オトウサンには、脳みそが無かった、からです。


 血塗れで「まん、まー。まんまー」と泣く赤ちゃんのすぐ近くには、べっちょりと髪が貼り付いた骨があって、それはオトウサンの物です。


 まるでお椀みたいになったオトウサンの頭の中には、なんにもありませんでした。綺麗に綺麗に、真っ赤なお肉が広がっているだけでした。





 おまわりさんが幸せな、いえ、幸せだった家族の家に来ました。今、お母さん達は警察署に居ます。お兄ちゃんとお姉ちゃんはまだ何があったのか分からないみたいで、お母さんはぼーぜんとしていました。ただ、その口は「あなた、あなた」とおんなじ三文字を繰り返していました。


 上手く話せないお母さんにおまわりさん達も困ってしまいました。


 しばらくの時間が経って、おじいちゃんとおばあちゃんが来ました。おじいちゃん達はオトウサンがお肉に成ったのを聞いて田舎からすぐにこっちに来たのです。このおじいちゃん達はお母さんのお父さんとお母さんでした。オトウサンの方は早くに亡くなっていたのです。


 おじいちゃんはお母さんを抱き締めました。強く強く抱き締めました。ぼーぜんとしていたお母さんは少しずつ、目に光が戻って、クシャクシャに顔を歪めて、おじいちゃんの胸の中で泣きました。お母さんが泣いたのを見て、お兄ちゃんとお姉ちゃんも泣きました。おばあちゃんも泣きながら三人の可愛い孫達を抱き締めました。


 赤ちゃんは何があったのか分からないみたいで、キョトン、としています。





 お母さんと子供達はしばらくおじいちゃんとおばあちゃんの家に住む事に成りました。幸せな家族の家には、おまわりさん達が集まっています。オトウサンがお肉に成った理由を探しているのです。


「今日はもう寝なさい」


 おじいちゃんの言葉にお母さんと子供達は寝る事にしました。後少しで明日に成る時刻です。お母さんはお兄ちゃんとお姉ちゃんを促して、皆で一つの布団にもぐりこみました。


「ママー。パパは?」


 お姉ちゃんの言葉にお母さんは言葉が詰りました。真実を告げるべきか分からなくて、それを口にしたら、愛する夫が物言わぬ肉に成ってしまった事を認めてしまいそうだったからです。


 いえ、お母さんはもう分かっていました。オトウサンともう話せない事も、彼に甘える事も出来ないのだと。だけど、それを口にする事はまだ、お母さんには出来ませんでした。


 一体何で、オトウサンの脳みそが綺麗に無くなっているのでしょう? 誰がそんな残酷な事をしたのでしょう?


「……オトウサンはね、ちょっと遠い所に行ったのよ」


 子供たちにそう言うのがお母さんの精一杯でした。お兄ちゃんとお姉ちゃんは何かを察した様で眼を閉じました。


「おやすみなさい。愛してるわ」


 お母さんの言葉にお兄ちゃんとお姉ちゃんが「おやすみ」と返しました。


 それを見届けて、お母さんは赤ちゃんを見つめました。お母さんと目が合った赤ちゃんはにんまりと笑います。お母さんもそれにぎこちなく答えましたが、笑い返す事は出来ません。


「まん、まー」


 お母さんはそのまま胸に抱かれた我が子が眠るまで起きていました。








 季節が一つ進むぐらいのしばらくの時間が経ちました。お母さんと子供たちはおじいちゃん達の家に住む事に成りました。


 お母さんは毎晩毎晩隠れて枕を濡らしていましたが、少しだけ立ち直ってきました。ぎこちなくですが笑えるようになったからです。


「ただいまー」


「ただいまー」


「おかえりなさい」


 お兄ちゃんとお姉ちゃんが黒と赤のランドセルを背負って学校に行きました。家にはおじいちゃん達とお母さんと赤ちゃんだけが残りました。


「ママー。今日はね、学校でねー、ミキちゃんがねー」


 お姉ちゃんがお母さんに今日の出来事を話します。お母さんは、うんうん、と赤ちゃんを抱きながら、その話を聞きました。口元は小さくですが笑えています。


 ランドセルを置いてきたお兄ちゃんもその話に加わりました。お母さんは相槌を打ちながら、静かに聞きます。その間におばあちゃんが夕ご飯を作っていました。ご飯はお母さんとおばあちゃんの交代で作っていて、今日はおばあちゃんの番なのです。カレーの美味しそうな匂いがします。





 夕ご飯になりました。おじいちゃんとおばあちゃんとお母さんとお兄ちゃんとおねえちゃんが椅子に座って、赤ちゃんはお母さんのお膝の上です。赤ちゃんはお母さん特製の離乳食、他の皆はおばあちゃん特製カレーライスを頬張っています。スパイシーでとても美味しいです。


「まんまー。おーかー」


 少しだけ舌足らずが無くなってきた赤ちゃんが空になった離乳食を指差します。


「あらあら、おかわりが欲しいみたいね」


 おばあちゃんが眼を細めます。一杯食べる赤ちゃんが可愛くてしょうがないのです。


 オトウサンがお肉に成って、悲しみに明け暮れていた家族を癒してきたのは赤ちゃんの笑顔でした。笑顔には人を幸せにするエネルギーがあるのです。


 お母さんは特製離乳食を装い、スプーンですくって赤ちゃんの口元に運びました。


「はい、あーん」


「あー」


 赤ちゃんは目一杯に小さな口を大きく開けました。





 さて、日曜日になりました。今日はお母さんとお兄ちゃんとお姉ちゃんと赤ちゃんでピクニックです。雲一つ無い青空の中、お母さんが運転した車に揺られて三十分、おじいちゃん達の家に一番近い自然公園にお母さん達は訪れていました。


 灰色の都会の景色に慣れ親しんだ子供達にとって、緑と茶色で作られた公園の景観はとてもとても新鮮で、綺麗にも見えました。


 絨毯みたいに生えた草々の上に敷かれたレジャーシートに座ってお母さんは、辺りを走り回るお兄ちゃんとお姉ちゃんを見ていました。最近はいはいを覚えた赤ちゃんがシートの上を行ったり来たりしています。


「ままー! でっかい虫居たー!」


 お兄ちゃんの大きな声にお母さんは微笑みます。オトウサンがお肉に成る前にはよく家族みんなで着ていたピクニック。寂しさと悲しみが今でもお母さんの胸をぽっかりと埋めていますが、何とかお母さんは笑えるように、楽しいと感じられるように成りました。


 お兄ちゃんとお姉ちゃん、そして赤ちゃん達のおかげです。きっと子供達が居たから、お母さんはこの悲しみと苦しみと寂しさに耐える事が出来たのでしょう。


 さて時間はそろそろオヤツの時間です。お母さんは走り回っているお兄ちゃんとお姉ちゃんを呼びました。


「そろそろオヤツよー!」


「「はーい!」」


 子供達は勢い良く、全力疾走でお母さんの元へと走ってきます。


 お母さんは笑いながら、近くに置いたバケットからオヤツを取り出そうとして、その瞬間、ピピピ、と電子音が聞こえました。どうやらお母さんの携帯電話から鳴っているようです。


「あら? ちょっと待ってね」


 子供達にそう言って、携帯のディスプレイを見てみると、どうやら電話はおじいちゃんからのようでした。


「はい。もしもし、お父さんどうしたの?」


『今、家に警察の方が来てな。どうやら進展があったらしい。お前と話したいそうだ』


 お母さんは瞬時に悟りました。オトウサンがお肉に成った事で何か分かった事があったらしいのです。


 そしてチラッと自分を見つめるお兄ちゃんとお姉ちゃんと赤ちゃんを見ました。子供達に出来ればこの様な話は聞かせたくありません。


「お兄ちゃん、お姉ちゃん、ちょっとお母さんは電話に出てくるから、少しだけ待っててね。何かあったらすぐに呼んでね」


「「オヤツは?」」


「お母さんが帰ってきたら。それまで良い子で待てる?」


「「はーい!」」


 子供達の笑顔に見送られ、お母さんはレジャーシートから子供達に声が届かなく成る場所まで離れました。





 お母さんはおまわりさんと電話をしています。


「何か分かった事があると聞きましたが?」


『はい。あなたの夫を殺した犯人の物と思われるDNAが採取できました』


「本当ですかっ? 一体何処にそんな物が?」


 お母さんは興奮しました。今まで何の進展も無かった、オトウサンがお肉に成った理由がやっと少し分かりそうだったからです。


 オトウサンがお肉に成った日、家に全ての窓とドアは閉じられていて、無理に開けた形跡も在りませんでした。おまわりさんもオトウサンをお肉にした犯人がどうやって家に入ったのか検討がついていなかったのです。


 けれど、お母さんの質問におまわりさんは少しの間何も言いませんでした。


「……あの、どうしました?」


 電話の奥のおまわりさんは小さく息を吐いて口を開きました。


『奥さん。夫さんの、脳が綺麗に無くなっていたのは知っていますよね?』


 忘れるはずもありません。お母さんはその目ではっきりと、お椀みたいに綺麗に抉られたオトウサンの頭骨を見ていました。あの透明な液体と真っ赤な水が混ざった生臭い匂いをお母さんは思い出しました。


「……はい。覚えています」


『犯人の物と思われるDNAは唾液から採取され、それは夫さんの頭部から検出されました』


 お母さんは自分の肌が鶏肉みたいにブツブツに成ったのが分かりました。脳みそが無くなったオトウサンの頭から唾液が見つかったのです。


「……それは、つまり?」


 おまわりさんは言い難そうにしばしの沈黙を挟みました。


『犯人は、夫さんの脳を食べたのだと、思われます』


 きっとピチャピチャと水音を立てながら、オトウサンの脳みそをもぐもぐと食べたのでしょう。その光景を想像してしまい、お母さんは吐き気を覚えて、目に入った一番近くの公衆トイレに駆け込みました。



 便器にドロドロとした蛹の中身みたいなサンドイッチだった物を吐き出して、お母さんは携帯を握り締めて息を整えていました。電話からはおまわりさんのお母さんを心配する声が聞こえます。


『奥さん。大丈夫ですか?』


「ええ、少し気持ちが悪くなってしまって。すいません。時間を取って」


『いえ、こちらこそ配慮が足りませんでした。申し訳ありません』


 お母さんは左手でまだドクドクと鼓動を打つ心臓を抑えながら、一度眼を閉じました。


「……夫から犯人のDNAが見つかったのでしたら、後はそのDNAの持ち主を探すだけなのですね?」


『はい。目下捜索中です』


「分かりました。ではまた何か分かり次第連絡をお願いします」


『はい。ピクニックをお邪魔して申し訳ありませんでした』


 おまわりさんが電話を切るのを待って、お母さんは公衆トイレから出て、子供達からは見えない場所で空を見つめました。空の綺麗過ぎる蒼さに目が痛くなりました。


 子供達に今の顔を見せたら心配させてしまいます。気持ちが落ち着くまでお母さんはそうして空を見上げていました。


 ですけど、やはり、ここでお母さんは間違えていました。


 子供達を目に届かない所に置いておくなんて危ないじゃないですか。





「え?」


 早足で子供達の所に戻って来たお母さんが一番に言った言葉はこれでした。


「オニイチャン? オネエチャン?」


 レジャーシートが見えた時、お母さんはオニイチャンとオネエチャンは待ちくたびれて寝ているのだと思っていました。


 けれど、お母さんの言葉に横になったオニイチャンとオネエチャンは身動ぎ一つしません。


 ええ、当たり前です。お母さんには分かっていました。つい半年前に同じ様なお肉を見たばかりです。


 お母さんの目はわなわなと震え、足はがくがくと揺れて、それでも一歩一歩踏み出して、レジャーシートにそのスニーカーを踏み出しました。


 ピチャっと水音がします。足元に眼を向けたらそこには綺麗な綺麗な赤色のお水が広がっていました。近くにはオヤツのプリンが入っているはずのバケットが置かれ、その下も赤く染まっていました。見る見るとその真っ赤なお水がお母さんのスニーカーを染め上げて行きます。


「オニイチャン? オネエチャン?」


 お母さんは膝を付いて、紺色のジーンズの膝を紅く染めながら、オニイチャンとオネエチャンの肩に触れました。


 すると、


 ゴロン、と、向かい合うように横になっていた兄妹が同時に仰向けになって、お母さんと目が合いました。


 真っ赤に成ったお洋服、紅い雫が付いた白魚のような首、真っ赤な線が何本も引かれたプクッした可愛い桜色のほっぺ、イチゴみたいに摘めそうな小さなお鼻、眠っているように閉じられた目、


 そして、そこから上は在りません。


 何にもありません。


 可愛いおでこも、ちょっと癖気の入った髪も、


 脳みそも


 何も在りませんでした。


「……いや」


「……いやよ」


「嘘よ、こんなの嘘よ」


 いくら行ってもお母さんの目の前にある二つのお肉はオニイチャンとオネエチャンには戻ってくれませんでした。


 お母さんは自分の髪を抜けるぐらい強く握り締めました。細かに揺れる視線が在る物を捕らえます。


 そこには紅いお水をふんだんに含んだ黒い糸を束ねた物がくっ付いた器が二つあって、近くに赤ちゃんがいました。赤ちゃんのために買ったふわふわのお洋服は真っ赤に成っています。


「赤ちゃん」


 お母さんは四つん這いになって、ピチャピチャと水音を立てながら、赤ちゃんの所に向かいました。


「赤ちゃん?」


 赤ちゃんはスースーと寝息を立てていました。


「ああぁ」


 お母さんは赤ちゃんを抱いて、泣きました。赤ちゃんはまだお肉に成っていなかったからです。


 それがお母さんの希望になりました。


 希望は守らなければなりません。


 そうです。この近くにはオニイチャンとオネエチャンをお肉にした誰かがいる筈なのです。何で赤ちゃんがお肉に成らなかったのかは分かりませんが、ここから離れないと危ない事に変わりは無いと、お母さんは思いました。


 お母さんは赤ちゃんを抱いたまま勢い良く立ち上がりました。バチャッと足元から大きく水の跳ねる音がします。


「オニイチャン、オネエチャン、ごめんね」


 お母さんはお肉になった我が子達を見つめて、ボタポタと透明なお水を足元の真っ赤なお水に落としながら、その場から走り出しました。


 赤ちゃんを抱えてその場から逃げようとしました。





 何故か今日の自然公園には誰も人が居ません。走り始めて本当に少しして、揺れたから起きてしまったのでしょうか。赤ちゃんがぐずりながら眼を覚ましました。


「まーまー?」


「大丈夫よ。守るからね。絶対にあなただけは守るからね」


 一刻も早く、お母さんはここから離れようとしました。逃げ切った後におまわりさんに連絡しようと思っていたからです。


 お母さんに抱かれて、赤ちゃんは周りを見ました。急に景色が変わってびっくりしているのでしょうか?


 赤ちゃんは二回か三回、眼をパチクリさせました。


「まーまー、まんまー」


「大丈夫よ。大丈夫よ。守るから。守るからね」


 お母さんはそれしか言いません。赤ちゃんの言葉は続きます。


「まーまー、まんまー、まんまー!」


 少しずつ赤ちゃんの声が大きくなっていきます。


「大丈夫大丈夫守るから守る大丈夫」


 それと一緒にお母さんの言葉が徐々にぼそぼそとした物になっていきます。


 お母さんは何としても赤ちゃんだけはお肉にしたくなかったのです。


「まーまー、まんまー! まんまぁー!」


 とうとう赤ちゃんの声が叫びと呼べる物にまで変わりました。


 それでもお母さんはぼそぼそと同じ言葉を繰り返すだけでした。


「まーまぁー! プーリィー! まんまぁー! プーリィー!」


 お母さんは赤ちゃんの言葉が変わっていく事にも気付いていませんでした。


 と、唐突に赤ちゃんは叫ぶのを止めました。


 それに気付いたのでしょう。お母さんは胸に抱く赤ちゃんに顔を向けました。


「赤ちゃん?」


 赤ちゃんは笑っても泣いても怒ってもいませんでした。ただ、不自然に無表情でお母さんを見つめていました。


「赤ちゃん?」


 お母さんの二回目の言葉に赤ちゃんは言いました。


「まんま、プリン」


 赤ちゃんは両手がお母さんの顔に伸びて、


「……え?」


 それがお母さんの、お肉になる前に、最後に見た光景になりました。



















 クチャ、ピチャ、プチュ、と湿った音が聞こえます。


 赤ちゃんは仰向けに寝ているオカアサンの側で何かを口に運んでいました。その両手はオカアサンの頭と赤ちゃんの口元を行き来しています。


 クチャ、


 クチャ、


 ピチャ、


 クチュ、


 湿った音が鳴り響いて、赤ちゃんはその顔をオカアサンの頭に近づけました。


 オカアサンはもうお肉に成っていて、おでこから上が綺麗になくなっていました。


 いえ、綺麗さっぱりではありません。まだ頭の中に少しだけプリンが残っています。


 ピチャ、


 クチャ、


 チュチャ、


 赤ちゃんは残ったプリンをペロペロとしていきます。


 お肉味のプリンは最高でした。


「…………」


 赤ちゃんはただ黙ってペロペロを続けて、オカアサンの頭の中は何も残らないぐらい綺麗に成りました。


 だけど、赤ちゃんはまだ、お腹が減っていました。たった今お肉味のプリンを食べたばかりなのにまだ足りなかったみたいです。


 きょろきょろと周りを見ましたが、何処にも、あのお肉味のプリンは在りませんでした。


 赤ちゃんが始めてお肉味のプリンを食べたのは大体半年ぐらい前、夜にオトウサンが帰って来た時でした。


 オトウサンのプリンは、ちょっとだけ苦かったけど、弾力がありました。


 赤ちゃんが二回目にお肉味のプリンを食べたのは二時間ぐらい前、オニイチャンとオネエチャンと一緒にお母さんを待っているときでした。


 オニイチャンとオネエチャンのプリンは、とっても甘くて柔らかかったのです。


 そして、たった今、赤ちゃんはお腹が減って三回目、四つ目のお肉味のプリンを食べました。


 オカアサンのプリンは、お父さんよりも甘くて、弾力がありました。


 どれもこれも、全部のプリンも赤ちゃんは気に入ったのですが、一番食べたい味では在りませんでした。


 赤ちゃんは、もっと柔らかくて、もっと甘い、そんなプリンを食べたかったのです。


 でも、お腹を空かせた赤ちゃんがいくら探しても、何処にもお肉味のプリンは見つかりませんでした。


 赤ちゃんは考えました。


 何処にプリンがあるんだろう?


 どうやれば食べれるんだろう?


 考えて考えて、赤ちゃんはふと思いました。


 あ、こんなに近くにプリンがあった。


 そうです。これ以上無いほど近くに、赤ちゃんの側にはお肉味のプリンが在ったではありませんか。


「プーリー!」


 赤ちゃんは自分の両手を頭に当てて、ギューッと押しながら勢い良く上にピンッと伸ばしました。


 するとどうでしょう。メキメキとギチギチと音を立てながら、それでもまるで初めから切れ込みが入っていたみたいに、赤ちゃんの頭がおでこから上に綺麗に取れたではありませんか。プルプルとしたプリンがそこにはありました。


 ダバーッと紅い水が溢れて赤ちゃんの顔を染めますが、赤ちゃんにとってそんな事はどうでも言い事でした。


 早く、すぐ近くのお肉味のプリンを食べたかったのです。


 赤ちゃんはその両手をズボッと頭の上のプリンに突っ込みました。


 グチャッと音が立ちます。


「キャッキャ!」


 赤ちゃんは笑いながら、グチャグチャと握り締めたプリンを口元に運んで、大きく口を開きました。


「あーん」


 そして、口一杯にプリンを頬張りました。


 オトウサンのプリンよりオニイチャンのプリンよりオネエチャンのプリンよりオカアサンのプリンよりも柔らかくてフワフワでとろける様に甘いプリンでした。


 本当に本当にとっても柔らかくてフワフワでとろけるように甘いプリンだったので、赤ちゃんは一生懸命頭の上のプリンを口に運びました。


 グチャ、


 ピチャ、


 プチャ、


 ニチャ、


 チュチャ、


 ミチャ、


 ひとしきり食べ終わって、その両手の動きが止まった頃、赤ちゃんは始めてお腹が減らなくなりました。今まで毎日毎日、ずっとお腹が減ってしょうがなかったのです。


 赤ちゃんは最後にもう一回少しだけ残ったプリンを頬張って、もぐもぐして、ごっくんしました。


「おいち」


 赤ちゃんの顔は今まで一番の天使の笑顔でした。


 初めて、赤ちゃんは(まんま)に満足できたのでした。

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― 新着の感想 ―
[一言] どうも、こっちの方には初めて感想を書かせて頂きます。 去年の作品らしいですが、なかなか面白かったです。 いやー、それにしても あの赤ちゃん……どこのボビィ・バロウズだよと(ぉ ……どうでも…
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