2.Eat mud and be mad.
「なんて悪い冗談なんだ……いやこれは悪夢に違いない! 影しかない男に寄りそうう影ができたなんて、この世の果てと果てがやさしく手を取りあって泥と泥とにまじりあいながら睦みあっているようなものじゃあないか。」
昔馴染みの相変わらずいろもなければぴくりともさざめかぬ横顔を見て、ヨハネスは心底呆れ果てましたといわんとばかりの間抜けた顔をした。否、そこには驚嘆と否定と敗北と諦観とがちりちりと散りばめられていて、ご覧、彼の汚れをつけすぎて堅くなりつつある頬の肉は小さく歪んでいる。
「冗談じゃない。」
「冗談ではない。」
「正気か、全く信じられん。」
「正気だ。」
「呆れた。どうしようもない。」
「そうか。」
「ああ……。」
その分厚く、しかし長年の努力の賜物ということで齢五十を越えてなおきれいに引き締まった肉を一切れ剥がしてみれば、彼のうちがわではからっぽの熱がくるくると血管を走りまわっていている真っ最中で頭のてっぺんの小さなところだけがキーンと冴え渡っているという次第。五十を越えてこのざまだ。しばらくの間興奮、いや動揺覚めやらぬといった風情で膝に肘を置いて頭を抱え込んだり、使い古されてすっかりぺしゃんこになってしまったソファに深くもたれてお世辞にも綺麗とは言いようもない天井を仰いだりしていたが(因みに彼は身長ニメートルを越す巨漢なのでソファは非常に窮屈で、昔馴染みと隣同士に座ればすでに足も体も溢れている)、それから更に口のなかで言葉にもならない未分化な感情をもごもごと舌で転がしてみたり空色の目を現実をシャットアウトするかのように何度か瞬かせてみたりして(その間も換気扇は痛快に回っていてプロペラの影は無数回新聞の上を通過した)、最後にこれは世界の崩壊だ、と叫びにならない叫びを一つほど天窓の向こうの憎々しい青空にむけて打ち上げると清々しく未練タラタラなまま現状を受け入
れることにした。今日は良い日だ、銃声の聞こえないよく晴れた日で青空の切れ端は無言のまま落ちてくる。
……ほんとうに崩壊だ、振り返ってみれば二十年あまり機嫌よく止まっていた時計の針がこんな思いがけない瞬間に動こうとしているのだから。二十年前を思い出しても十年前を思い返しても生活すらまともにしない彼のために食べ物を届けたつい一週間前の金曜日をひっくり返してもどこからもそんな予兆は出てこなかった。まさか贄島が幼い少女をその懐に導きいれるなんて!
ヨハネスはソファの背もたれごしに幼女が土で遊んでいるのをいささかの憂いをもって観察する。ともすると気品すら身につけている小さな子は黒を負って、彼が現れてからというもの延々と割れた植木鉢からあぶれた土をいじっていていつからそうしていたのか分からない。ひょっとすると星が生まれてからずっとそうしているのかもしれないぞ。実のところその観葉植物を持ち込んだのはヨハネスで、少しは窒息に引きこもってしまった贄島の生活をマシにしてくれるだろうと期待していたのだが鋭く、なまめかしく光を弾いていた枝葉はついに何になるということもなく彼女に木っ端微塵にされてしまった。ご愁傷様だ、葉も自分も。それよりも気にかかるのは土と睦みあう彼女のあどけない手だ。少し病めいた白色をしていて、丸くふくらんだ指の腹が土のいのちにふれてはやわらかに押され押しつぶしどちらが肉だったかなどとうに分からなくなっていて、土は黒っぽい茶色で水とも養分とも油ともわからないものでいっぱいになって湿っぽくなっている。その天使の午睡のような指のなかでくっついたり離れたり潰れたり膨らんだり乖離したり吊るされたり自殺的なありとあら
ゆることをしていてる形には境界線というものがきれいさっぱりなくなっていて、人間という生き物のようだ、とヨハネスは思う。ぺたんぺたんくちゃり。……人間を弄ぶならこの子は悪魔だろうか……くちゃ。人間も木も土くれに漂うかすかの憧憬として、この街の無意味の前には等しく晒される。
「わかった。お前を信じよう。」
ヨハネスは敗した。
「ありがとう。」
ありがとう?
カチカチカチと不意に時計の秒針が二人の間に突き刺さる。それが嫌に気になって酷い部屋をいっぺん見回せば隅っこのほうの物の掃き溜めのようなところに他諸々の無意味と一緒くたになって、青く平べったい円柱形の一面に文字盤を貼り付けて赤い足を持ったともするとファンシーな時計が転がっていてしきりに口を歪めて笑っている? 世界があんまりにこうふくなもんだからまっさらに笑っているのさ、全ての子どもらと白痴とは今日この時も昇天しつづけているのでその福音をこの虚無のうちにももたらしてやろう。ご覧、お前の恋はどこにいった、その子どもだけは地獄に落ちるぞ! ……
カチカチカチ、カチンと止まらない運針は遅くなったり早くなったりしながらリビングルームを悠然と横切っていって最後には壁のどこかに頭をぶつけて墜落死したが音は止むことなく断裂していた。高くなったり低くなったりして耳のなかに潜り込み、三半規管を犯し、ああ時計の針が動きだしてしまったのだなとヨハネスは思った。ありがとう? 馬鹿げてる。屋根の上に青空が死んでいるのと同じくらい馬鹿げてる。贄島の横顔は相も変わらず彫像のように硬直して一ミリたりとも動こうとしないのに小さく皺の寄りはじめた目元や、いつも通り手入れのされない灰色の髪や、殺人者にしてはあまりにも抱きやすそうな細い肉や、年の波に犯されてくたびれた指先や、喪失さえ失った輪郭が今日は変によそよそしい。まるで。カチカチ、カチカチ。ああ耳が痛い、頭が痛い、心が痛い、脳髄が、痛い。
ヨハネスは首を横に振って、何かから逃れるように立ち上がる。潰れたソファーは彼の体を押し返すこともなくひしゃげたままそれを見返していた……腐れた花のような女々しさだ、未だ自分は身一つのまま現実のあまりの極彩には勝てやしない……自嘲の吐息は落下のいろ。怪訝そうでもない視線を向ける贄島にはどうせまたろくに何も食べてないんだろ、何か作ってやると言い彼は頷く。徒夢の分も。分かってるって。ああ。
小さな冷蔵庫を開けてそのがらんどうの度を越えた冷たさにヨハネスは眉を潜め、黄色いライトが照らすなかから辛うじて残っている卵と牛乳を取り出すと容赦なく捨てて(賞味期間なんかとっくに過ぎている)代わりにいつものように持ってきた食べ物を詰めてやる。卵や野菜なども生物は少なめに、燻製にした肉や干し魚などの保存がきくものを多めに、肉も鉄も粉塵も区別することなく口にしてしまう贄島が少しでもまともなものを食べるよう配慮しながら丁寧に並べて、瞬く間にしたいの列でいっぱいになった四角い箱を満足しながら見る……食べ物はしたいだ……その上にいつまでに食べるように、付け合わせには何がいいか、などなどとにかく細々と書いたメモを貼りつけてやると最後に徒夢のために用意させた林檎パイを入れてやり仕事の下準備は完了する。ほんとうにどうしようもないやつだ、今も昔も……そんな昔が生まれてしまった。
「爆弾を拾った。」
「は? 爆弾?」
「爆弾。」
「……。」
「爆弾、みたいな子どもだ。子どもと呼ぶにはあまりにも終わっていて、ハルマゲドンのようなんだ……何もかも失われている……。」
「……終わっているのはどっちだ。」
「……。」
「……。」
「助けてくれ、ヨハネス。」
(……爆弾……。)
とんとんとんとしたいのなかでも特に命が危ういものを、つまり冷蔵庫に入れなかった生鮮食品の類をまな板の乗せて切りながら耳のうちに蘇ってくるのはこの酷い家に来る前に電話口で交わした会話で、切れない包丁が若々しいキャベツの繊維や細胞壁をとんとんと叩き壊していきバラバラになった緑色の亡骸が散らばる軽快なリズムにあわせてそれはヨハネスの脳裏で踊る。とんとんとん、幼女は悪魔か、爆弾か、滅亡か、破戒か、ひょっとするとくるっているのか、おわっているのか、もう死んでいるのか……しかし生ける者が皆死体なんて信仰はあんまりにもありきたりだ。キャベツや諸々の野菜を皿に乗せると今度は買ってきたばかりの新鮮な肉を丁寧に寝かせてさっき野菜を刻んだばかりの包丁を差し入れる。最近では南区でしか売られなくなった良質なそれは生まれたばかりの暗鬱な赤色をしていて、ぬめりと白色蛍光灯の目に痛いくらい平らなひかりを弾き返す様はいかにも旨そうだ。筋を切る。脂身は取らない。塩胡椒を軽くふる。自分もこうやってあの悪魔のような子に刻まれるのだろうかとふと考えて思わず苦笑を零した。いつかまな板の上にうやうやしく捧げられ
、ひそやかなナイフに肉を犯されるのは自分かもしれないということはこの街の住民の誰も彼もが知っていることで、パララタタという銃声の笑い声がしない日にはきっと誰かが不条理や無意味の食卓の上にあがるからそれはなんだっておかしなことではない。可笑しいのは自分のあまりの未練がましさで、まだ何も失うと決まった訳でもなければそもそも何かを手に入れてすらいないというのにこうも回りだす焦りだ。とん、とん。多分自分の時計もまた動き出してしまったのだ。
ちゃんと洗っているのかいまいち信用ならないフライパンをコンロに置き、何度かスイッチを押して青い火をつけると少量の油を流しこんだ。するといかにも悲惨といった様相で熱が走りだして、フライパンの淵から宙に飛び出そうとするたびに潰れていく。ジューという氾濫のような音が流れていくさきをなんとなしに見れば、台所の隅のあたりには錆と塩とが物憂げにわだかまっていて、そのかすかにうつつに足をつけている退廃が彼らしいと思うがそれに欲情するほど自分ももう若くはない。パンに肉を置けば音はよりいっそう激しくのたうちまわって女の肢体のようだと思った、けれどもヨハネスは女など知らないからひょっとするとそれは自分かもしれなかった……贄島かもしれなかった。贄島だったらよかったのに。台所にはぶら下がったまま手にされなかった銀色の調理器具が環視するなかヨハネスが一人で立っていて、その前には切り分けられた死体が今まさに焼かれて美味しくなっている。ジュー。
昔、自分は犬なのだと贄島に言ったことがあってその時彼はまだ若く生鮮なひかりを帯びた肌のうえになにかを乗せることもなくただ、そう、と一言言ったので自分は惨めだと思った。今またそれを繰り返したところで歳月を経た彼の乾いた目は同じ虚無を寄越すだけで、けれども前と違うのはそこにもう一つ無邪気なふりをした邪気が視線に重ねられたということなのだろう。二人三脚でやってきたなんていう睦言は吐かない、二十年に渡る協調のなかでついぞお前が私を見ることも殺すこともなかった。だがあの徒夢を見るお前の目がとうとう狂ったのを私は知っているよ……私がどれほどお前に欲情していたかをお前は知らない。
ヨハネスはまた苦く笑う。
ジュー。
と焼かれているのはやっぱり自分かもしれない。
肉が焼きあがると手早くそれを皿に移し(意外と贄島の持つ食器類には暖色のものが多い)、野菜を乗せ、買ったばかりパンと自宅で作っておいたスープと一緒に盆に運んでいった。手抜き極まりないがまぁ仕方あるまい、ついさっきまで驚きに打ちひしがれていたせいで思いのほか時間が経ってしまったのだ。下手すると幼女は彼女が来たという昨日からろくな食事を食べていないだろうから(卵焼きトーストはまともな食事とは言わない)今はできる限り早く、早く彼女らの腹と心を満たしてやることが最優先だ。
「できたぞ。」
徒夢は相変わらず泥による創造主ごっこをしていた。贄島はあれから一ミリたりとも動いた様子もなかった……いつものことだ。これが、これからのいつもになるに違いない。かちゃりと食卓に盆を置けば、空腹という概念すらないかもしれない二つの人影がやってくる。嫉妬は、しない。
「いただきます。」
私のような肉切れが徒夢の口に運ばれていく。そのさきにはどんな虚無があるだろう……あがくだけあがきまわって、結局泥にしかならない惨めな犬だ。いかにも私といった、行くあても死ぬあてもない全く以て哀れな有り様で小さな喉にこくりと飲み込まれていくのを眺めてふうと一つ息を吐く。手にしたナイフの切っ先に徒夢の顔が写っているのを見つけて思うことにはしかし私は何一つ切り捨てられやしないだろうということで、彼女はその存在において一抹の太陽さえ許さないほどに残酷だけれども私は恐らくそれに甘死してしまうだろうということだ。彼女が悪魔なのも、爆弾なのも、滅亡なのも皆贄島にも当てはまることで、だとしたらどうしたってそれを拒絶はできない。
「……美味しい。」
後悔は、するかもしれない。絶望は、している。
けれど私は私でしかない。絶望は絶望でしかない。
「それはよかった。」
だから、今できるせめてもの遠吠えは、二つならんだ兵器に精々うまい飯を食わせてせめて生きられるようにしてやることくらいだ。