閉じ込められた客③
「ねえ、名前なんて言うの?」
「は?」
ピンクの髪をした女子高生は、唐突に質問を投げてきた沙希に眉をひそめた。切羽詰まった顔で一度犯人の様子を窺うと、それから小声で言う。
「このタイミングでっすか」
「このタイミングでっすよ。そろそろ人質にも慣れてきたし」
「慣れるとかあるんすか」
「そりゃあ、何にでも慣れはあるんじゃない? お風呂だって最初はお湯が熱くても、入っちゃえば平気でしょ」
沙希が言うと、ピンクの髪をした女子高生はふっと表情を緩めた。
「それと同じレベルっすか」
「私はそう思ってる」
嘘ではなく、沙希はそう言ってのけた。ピンクの髪をした女子高生は一度目を大きくし、それから口元に小さく笑みを浮かべた。
「名前、佐倉っす」
「佐倉さんね。ありがとう。私は浅岸沙希。佐倉さんは何で今日ここに?」
「特に理由なんてないっすよ。家が近いんで、たまたま。運悪いっすね」
「お互いね。ちなみにその恰好って校則とか引っかからない?」
「うちは緩いんで、たぶん。あんま頭のいい学校じゃないっすからね。変っすか」
「いや、私はむしろ賛成派だけどね。お風呂入ってないとかならどうかと思うけど、そういうわけでもないでしょ」
「当たり前じゃないっすか。入らない人とかいるんすか?」
「ま、一部いないこともない。たまに面倒臭いなって時はあるけどね。なんか画期的な人体洗浄装置でも発明されないかな」
「なんすかそれ。たぶん発明されても高いっすよ。場所取りそうだし」
「そうだね。宇宙旅行と一緒か。庶民には夢だね」
「そんな次元の話っすか、これ」
言って、佐倉はくすくすと笑う。
「心配しなくても、何とかなるよ」
虚をつかれたように佐倉はまた目を大きくした。目尻を下げて、小さく頷く。
「沙希さん。一緒にいた人は彼氏っすか? さっきトイレに行った」
「へ? ああ、成瀬? ないない。本当ない。他の人にもちょっとお薦め出来ないな、あれは」
「どういう人なんすか?」
「どういうって言われても。今年で二十四歳の大学四年生で、二浪してる。でも、二浪期間は日本を放浪していただけらしいから、普通の浪人生とは少し意味合いが違うかな。それと、人を見る目は割と確か。ま、表面的にはそんな感じ」
「分かったような、分からないようなって感じっすね」
「そんなもんだよね。話聞いただけで分かるんなら、誰も苦労しないって。十人十色なんて言葉があるけど、実際は一人十色でも少ないくらいだしね」
そう言うと、沙希は悪戯っぽく笑う。
「おい!」
犯人の男が出し抜けに叫び、持っているナイフの柄を力の限り陳列棚に叩き付けた。衝撃で棚が揺れ、並んでいた商品が派手に飛び散った。床に転がり、音を立てる。
小太りの店長が一瞬身体を震わせ、犯人と目が合いそうになると顔を伏せた。
犯人は沙希の近くまで寄り、もう一度、今度は沙希の目の前でナイフの刃を棚に叩き付けた。真横で金属音が響き、佐倉が咄嗟に身をすくませる。
沙希は座ったまま、顔を上げて犯人を睨み付けた。
「今、何してた?」
低い声で、犯人が言う。
「別に。話してただけでしょ。何? 私達は話す事も許されないわけ?」
「さあな。この状況見て自分で考えてみろよ」
「なら聞くけど、私達はいつまでこのままなの? さっきから電話も出ないし、何にも事態が進展してないじゃない」
「文句言うのだけは得意みたいだな」
「あら、褒められちった」
「褒めてねーよ」
「それで、私達はいつまでこのまま? 皆それぞれ予定もあるんだけど?」
沙希が言うと、犯人は忌々しげに舌打ちした。
「うるさい奴だな。今は様子を見てるだけだ」
「様子見!? 様子見って何!? あなたの世界では外界との連絡一切経つ事を様子見って言うんですか!? さっきから一つも情報入ってきてませんけど!?」
「黙れ!」
声を張り上げ、犯人が咄嗟にナイフを振りかぶる。佐倉が引きつった悲鳴を上げ、沙希は切っ先を見据えて目を細める。静かな声で、沙希は言った。
「あんたさ、やってる事目茶苦茶なのよ。どうしたいの? これ以上続けても意味がない事ぐらい分かってるでしょ」
「うるせえ。黙れ。本当に殺すぞ」
「ならもう何も言わない。大人しくしてるよ」
沙希が両手を上げると、犯人は小馬鹿にしたように笑う。
そして次の刹那、佐倉の喉元に一瞬でナイフを突きつけた。
空気が張り詰め、佐倉が細い呻き声を上げる。喉元にぴたりと押し付けられた切っ先から僅かに血が垂れた。
「その子は関係ない!」
咄嗟に沙希は叫んだ。額に汗が浮かび、背筋がすっと冷える。
血の気の引いた顔で、犯人と目を合わせた。
「初めからそういう顔をしてろよ。さっきからうるさいのは、自分に注意が向くようにってか。恰好いいな、お前。でも、悪いが逆効果だ」
「……気に触ったなら、謝ります」
犯人はナイフを戻すと、緩慢に立ち上がった。元の位置に戻る直前、振り返って沙希を見る。
「殺す時は、お前を真っ先に殺すからそのつもりでいろ」
「そうして」
言って、沙希は長く息を吐いた。