コンビニに押し入った男①
シャッターを締め切ったコンビニの店内で、このナイフだけが俺の頼りだった。
これだけで全てをやり遂げなければならない。
この日のためだけに、俺は今日まで生きてきたのだから。
俺は店内の人間の顔を順に見回した。店内にいるのは全部で五人。店長と客は目の届く位置にまとめて座らせている。
先ほど、その中の一人が訳の分からない事を喚き、怒鳴りつけるとそれ以降そいつは静かになった。
普段なら軽く流す程度の発言だったが、さすがに少し神経質になっているようだ。
状況に進展が無いまま、時間だけが流れていく事に苛立ちも覚えていた。
客の一人である金髪の女が男と小声で話しているのを見て、俺は無意識の内に昔の事を思い出していた。
中学校の頃、ホームルームの後の掃除の時間の出来事で、俺の班はトイレ掃除だった。
班と言っても、掃除をするのは決まって俺一人だったが。
掃除自体はトイレの中でホース使って水を捲くという簡単なものだが、しばらくすると、そこにクラスメイトの男子と女子が入ってきた。
そして当然のようにホースを使って俺に水をかけて楽しむという遊びが行われた。
全身ではなく、冷たい水を足元に何度も何度も思い切りかけられた。ズボンがびしょ濡れになっても、あいつらが止める事はなかった。
足元ばかりを狙ったのは、今考えればたぶん目立たないようにだったんだろう。保身にばかり知恵が働く奴等の考えそうな事だ。
登校したら毎日うわばきが隠されていた。けど、失くした事がない。
理由は簡単で、いつも同じ場所に捨てられていたからだ。下駄箱横のゴミ箱の一番上に、わざと名前が見えるように置かれている。人の感覚は麻痺するもので、そのうち始めからそこに上履きをしまった方が 早いんじゃないかと思えてきた。
その頃には泣き方まで忘れていたが。
俺は、そういった事を親には言いたくないと思っていた。
こんな恥ずかしいこと親には知られたくなかった。
だから言わずに我慢していたんだ。
ずっと。
気付くと、手にべっとりと汗が浮かんでいた。無意識の内に噛みしめていた唇から血が垂れ、口の中に鉄の味が広がった。
「……くそっ」
低い声で呟いて、きつく歯を噛み締める。
今にも爆発しそうな黒い思いが腹の中にある。
なのに、いざ行動に移そうとすると躊躇が付きまとった。決意は固めてきたつもりだったのに、最初の一歩線が越えられない。
怖い。長い年月をかけて染み込まされた劣等感が、胸の中で膨張して邪魔をしている。ナイフを持って有利な立場にいてさえ、俺はまだ怖いんだ。
一度踏み込んでしまえば覚悟も決まる。けれど、体を感情に委ねる事は思うほど簡単では無かった。
「……くそ」
絞り出すように声に出した。
焦るな。時間はまだある。
深く息を吐いて、俺はレジカウンタに腰を下ろした。
一度ナイフを照明にかざす。刀身には刃こぼれ一つなく、このまま切りつければ骨まで綺麗に切断出来そうだ。刃は吸い込まれるような銀色で蛍光灯の光を鋭く反射している。
俺がナイフを弄ぶ動作を見て、店長や客の顔に不安がよぎるのが分かった。
その様子を、俺は無感情に眺める。
今はまだ、命の危険までは感じていないだろう。せいぜい身の危険だ。
俺の事はただのコンビニ強盗程度に思っていればいい。
今はな。
少しずつ分からせてやる。
生まれてきた事を後悔するぐらいに。
これは復讐。
まだ始まってすらいない。
今の俺は、昔の俺とは違う。
破滅的な願望を秘めて、俺はナイフを強く握り締めた。