魔王を倒した聖女、神殿の余白で農業をはじめる
降臨祭の夜、大神殿は一年で最もよく燃えた。
祭壇には白鹿の腿肉、蜜を塗った林檎、香草を詰めた大魚、熟成させた乳酪が並んでいた。
どれも人の口には入らない。神へ供えるための料理だった。
天上を覆う金色の天蓋が開き、星明かりが礼拝堂へ降り注いだ。
やがて祭壇の火が青く染まった。
料理から香りだけが抜け出し、神の身元である青い炎へ吸い込まれていく。
腿肉は冷えて硬くなり、林檎は甘みを失い、大魚は炭のように黒ずんだ。
神は香りだけを受け取った。
礼拝堂を満たす熱の中、低く穏やかな言葉が響いた。
『今年も、よい香りであった。人の子らよ、安らかな冬を迎えるがよい』
参列者たちが一斉に頭を垂れた。
ただ一人、聖女イリヤだけが祭壇を見つめていた。
神が去ったあと、残された料理は神官たちの手で灰穴へ捨てられる。
聖なる炎に触れた品を人や獣へ与えることは禁じられていた。
イリヤは灰穴の縁にしゃがみ込み、炭になった魚を枝でつついた。
「神様はどうして料理を召し上がらないのでしょう?」
隣に立つ祭式官セドは、重たい祭礼冠を脱ぎながら息を吐いた。
「神は香気を糧とされます。子供でも暗唱できる教えを聖女様が忘れないでください」
「香りだけでは、腿肉の中へ詰めた香草の苦労が伝わりません。焼き加減も同じです」
「神へ料理の感想を求める発想は、なるべく今夜のうちに捨てていただけませんか?」
イリヤは枝を置き、灰穴から立ち上がった。
魔王の心臓を聖槍で貫いたときと同じ表情をしていたため、セドは祭礼冠を抱え直した。
「決めました。次の降臨祭では、神様に料理そのものを食べていただきます」
「その志が異端に当たるのかを考えるよりも、なぜ腰から小麦の袋を提げているのかを先に伺いましょうか」
「食材から用意するためです。明日の朝より、神殿の敷地で農業を始めます」
「……まずはお休みください。朝になれば、その恐ろしい思いつきも弱まっているはずです」
「魔王を倒す前にも同じことを言われました。今回は魔王より小さな相手です」
「農業には心臓がありません。槍で刺せない相手を甘く見てはいけませんよ」
翌朝になっても、イリヤの志は弱まっていなかった。
それどころか、寝台と衣装棚を礼拝堂裏の空き地へ運び出していた。
大神殿は、上空から眺めれば巨大な聖印の形をしている。
中央には礼拝堂があり、東に癒やしの塔、西に鎮魂の泉、南に巡礼者の宿、北に神官たちの居館が置かれている。
それぞれの建物が回廊で結ばれ、完成された祈りの形を作っていた。
しかし、完成された形には、どうしても半端な場所が生まれる。
外壁と回廊に挟まれた細長い土地。塔の影が重なる窪地。聖なる水が届かず、魔除けの光からも外れた一帯。
祭神にも儀式にも割り当てられなかった場所を、神官たちは「神殿の余白」と呼んでいた。
そこには割れた祭具、古い石材、抜け落ちた屋根飾りが積まれていた。
雑草の中では、どこから来たのか分からない小さな生き物が暮らしている。
イリヤは余白の中央で腰に手を当てた。
「ここへ麦と豆を植え、山羊を飼い、茸も育てます。そうして最後には神様の食卓が完成します」
祭式官の正装で呼び出されたセドは、朝露に濡れた長靴を見下ろした。
「ここは畑などではなく、神殿が物を忘れ続けるための場所です」
「誰も使っていないのなら好都合です。今日から私が使用します」
「許可を求めるような言い方をしながら、すでに寝台まで置いてありますね」
寝台の脚は湿った土へ沈み、傾いていた。
その隣には廃祭具を運ぶための屋根付き荷車がある。
イリヤは荷台から古い香炉や燭台を放り出し、そこへ私物を詰め込んでいた。
「畑を知るには、畑で暮らすべきです。私は今日から余白に住みます」
「せめて居館から通ってください。聖女様が荷車で寝起きする先例はありません」
「だからこそ、私が最初になれます。先例とは、最初の人が作るものです」
「その言葉で魔王討伐は成功しましたが、寝台の右側が沈み始めていますよ」
荷車が傾き、敷布と枕が湿地へ滑り落ちた。
床下では、尖った耳を持つコボルトたちが慌てて逃げていった。
「最初の同居人が見つかりました。順調な始まりですね!」
「……少なくとも私は同意できません。聖女様の判断に分別を付けられる者を呼びます」
セドが連れてきたのは、灰褐色の髪を三つ編みにした若い女だった。
女は膝まで泥に浸かった革靴を履き、肩に小さな鋤を担いでいた。服には乾いた苔と草の種がびっしり付いている。
彼女は挨拶より先に土を拾った。
指で潰し、匂いを確かめ、舌の先へわずかに載せる。すぐに吐き出すと、靴裏で地面を強く踏んだ。
「ここへ食べ物を植えるなら、食べる相手を先に墓地へ運んでおくと手間が省けますよ」
「頼もしい畑師ですね。率直な意見を述べてくれました!」
「あんたの計画が死ぬほど駄目だと言ったんだよ」
女はミレナといった。
人間とドワーフの間に生まれ、余白の排水溝で香茸や赤かぶを育てている。
神殿の外に畑を持たず、立派な農園で学んだ経験もない。それでも、この土地の癖を誰よりも理解していた。
ミレナは古い燭台を足でどけ、地面へ鋤を突き刺した。
刃は浅いところで硬い音を立てた。
「下に古い礼拝堂の床が埋まってる。土は薄いし、香油と蝋が染み込んでるよ」
「聖なる香油なら、作物も健やかに育つのではありませんか?」
「香油を飲んで元気になるなら、あんたや神官を畑へ埋めたほうが早いだろうね」
セドは何も聞かなかったことにするため、少し離れた場所へ移動した。
ミレナは鋤で土を掘り返すと、白い幼虫が顔を出し、朝日を嫌って石の下へ潜り込む。
「太陽の日差しは昼にならないと届かない。雨が降れば水が溜まる。乾けば石みたいに固まる」
「難しい土地だということは理解しました。攻略する価値がありますね!」
「畑を迷宮みたいに扱うんじゃないよ。踏破しても宝箱なんて出ないからね」
「神様に料理を食べていただければ、それが私にとっての宝になります」
ミレナは初めてイリヤのほうを向いた。
麦の袋を提げ、聖なる紋章の入った外套を泥へ垂らしている。
冗談で畑を始めた者の装いではないが、本気で畑を始める者の装いでもなかった。
「神様を腹いっぱいにするために、わざわざ自分で育てる必要があるのかい?」
「買った食材では、私がどれほど真剣なのか伝わらないと思うのです」
「作物は水と陽射しと肥やしを食って育つんだ。あんたの真剣さは関係ないよ」
「では、それらを充分に与えましょう。必要なものが明確なら簡単です!」
「簡単だと思えるうちは、何も分かっていない証拠だよ」
イリヤはその言葉を褒め言葉として受け取った。
****
神殿の北門に巨大な檻車が到着した。
檻の中には、黒い岩のような獣が座っている。鼻先から伸びた角には青白い雷が走り、呼吸のたびに荷台が軋んだ。
山岳地では岩盤を砕き、荒れ地を耕す、雷の力を宿した一本角を持つ巨大なサイだった。
イリヤはヴァッサと名前を付け、獣を神殿の余白へ案内した。
それを目にしたミレナは、朝食の堅焼きパンをかじったまま、動かなくなった。
「まさかとは思うけれど、あれを余白へ入れるつもりじゃないだろうね」
「ヴァッサは岩山も耕せます。地中の古い床など、薄焼きの菓子と同じでしょう」
「その獣は立派だよ。立派すぎて、ここじゃ方向を変えることもできないけどね」
「進みながら耕せばよいのです。端へ着いたら、後ろ向きに戻ってきます!」
「サイはカニじゃない。神殿ごと進行方向へ押し出すつもりなのかい?」
ヴァッサはおとなしい獣だった。
イリヤから干し草を受け取ると、嬉しそうに鼻を鳴らした。
礼拝堂から朝の讃歌が流れてくると、角に宿した雷を弱め、じっと聞き入っている。
問題はミレナの指摘通り、神殿の余白が狭かったことだ。
ヴァッサの胴は外壁と回廊の間へ収まった。しかし角は収まらず、顔を横へ向けるたびに石壁を削った。
「無事に入りました!私たちの計画は最初の難関を越えたようです!」
「この状況を入れたと言い切れるあんたが凄い。難関はこれからだよ。搬入する際に北門が壊れたから、戻すこともできやしない」
ヴァッサが一歩進むと、地面に埋まっていた石床が砕けた。
二歩進むと、土の中から古い聖像が飛び出した。
三歩進むと、角が回廊の柱へ触れ、雷が神殿全体を駆け抜けた。
朝の讃歌が途切れた。
礼拝堂の鐘という鐘が鳴り出し、眠っていたハーピーたちが鐘楼から飛び出した。
驚いたヴァッサは前へ走り始めた。
「ヴァッサ、落ち着いてください。壁は敵ではありません。攻撃をしなくてもよいのです」
「獣に伝えるより前に、進路上に壁を置いた神殿の造り手へ言っておくれよ」
ヴァッサは畑にする予定の細長い土地を走り抜けた。終点には、礼拝堂の側面があった。
鈍い音が響き、壁にサイの形をした穴が開いた。ヴァッサは礼拝堂の中へ入り、讃歌の続きを待つように祭壇の前へ座った。
穴の向こうでは、朝の祈りに集まった神官たちが固まっている。
祭式官セドは倒れた燭台を起こし、壁の穴からイリヤを見た。
「農業を始めて、礼拝堂に新しい入口を作る者は聖女様くらいでしょう」
「巡礼者が増えた場合に備えた増築です。ヴァッサも讃歌を聞けて喜んでいます」
「今の言葉を大神官へ説明する役目は、ご自分で果たしてください」
ヴァッサを礼拝堂から出せなくなった。
壁の穴を広げれば出せるものの、これ以上の神殿への損害は大神官が許さなかった。
壊れた箇所は石工たちが修復することになり、ヴァッサは北門が直るまで礼拝堂の端で飼われることになった。
結果として、余白の地面は充分に耕されていた。
古い床は粉々になり、溜まっていた水は壁の穴から外へ流れた。
ヴァッサが残したフンは、ミレナの機嫌を少しだけ改善した。
「最悪の方法で、悪くない土台ができたよ。二度と同じことはしないでおくれ」
「成功した方法を封じる理由が分かりません。次は小型のサイにしましょう!」
「鋤を使うんだよ。鋤は壁を食い破ったり、讃歌へ聞き入ったりしないからね」
二人は種をまいた。
ミレナが選んだのは、灰麦とソラマメだった。灰麦は弱い光でも育ち、ソラマメは痩せた土を好む。
どちらも華やかな料理には向かないが、失敗しにくい作物だった。
イリヤは金色のハダカムギを植えたがった。
穂が朝日を浴びると小さな冠の形に開き、王侯の宴で使われる麦である。
二人は余白の端と端に、それぞれ選んだ種をまくことにした。
「同じ土地で育てれば、どちらの考えが正しかったのか分かりやすいでしょう?」
「畑は勝負場じゃないけれど、あんたを黙らせるためなら受けて立つよ」
「敗者が夕食を作ることにしましょう。料理の練習も必要ですから」
「あんたが負ける気でいるなら、まともな鍋を用意しておくれ」
****
イリヤは日の出前に起きた。
聖女の衣を作業着へ替え、細長い畝の間を歩く。
最初の朝は胸が躍った。次の日も楽しかった。その次の日には腰が痛み、雨が降った。
聖女の奇跡の力もあり、早くもハダカムギの芽が出た。
灰麦よりも太く、ソラマメよりも鮮やかだった。金色の芽が一斉に土を押し上げ、淡い光を放っている。
イリヤは荷車からミレナを呼んだ。
「見てください。私の麦は輝いていますよ。神様の食卓に相応しい光りです!」
「喜ぶのは早いよ。芽が光るのは、土の中で息苦しくなっている印だね」
「息苦しいなら、土を柔らかくしましょう。奇跡で大地を軽くできます」
「あんたはまず、何もしないことを覚えるまで大人しくしていな」
ミレナの指示通り、イリヤは奇跡を使わなかった。
翌朝、ハダカムギの芽は半分ほど萎れていた。
さらに次の日、残った芽も色を失った。
灰麦とソラマメは地味な姿のまま、ゆっくりと葉を増やしている。
イリヤは畝の脇へ座り込み、萎れた芽を見つめた。雨で外套の裾が濡れていたが、立ち上がろうとはしなかった。
ミレナは彼女の隣へ木の椀を置いた。中にはソラマメを潰した温かい粥が入っている。
「ハダカムギは乾いた高地の作物だよ。湿った余白へ来ただけで弱ってしまう」
「高地の風も陽射しも、奇跡ならここへ呼べます。それでも駄目でしょうか?」
「奇跡を呼んだあと、それを毎日ここへ留めておけるのかい?」
「……奇跡は一度で世界を変えます。畑も同じだと思っていました」
「英雄にとって畑は気の長い相手だろうね」
イリヤは粥を食べた。
塩は薄く、豆の皮が残っている。それでも雨の朝にはよく合った。
彼女はハダカムギを諦めなかった。奇跡を使わず育てる方法を探すことにした。
余白で一番乾いた場所を選び、石を積んで畝を高くした。
神殿の古い瓦を並べ、昼の熱を夜まで残した。
新しくまいた種は、前よりゆっくりと輝くことなく芽を出した。
イリヤは毎朝それを眺めたが、成長を急かす祈りは唱えなかった。
それからは、余白に穏やかな時間が続いた。
その時間を、イリヤはゆっくりと受け入れた。
「ミレナ、作物が順調なら、次は家畜を増やすべきだと思います!」
「順調な時期に余計なことを始める癖を土へ埋める方法はないのかい?」
「卵があれば料理の幅が広がります。鶏を飼うのが自然な流れです!」
「普通の鶏なら反対しないよ。あんたの普通が不安だけどね」
****
神殿に、再び檻が三つも届いた。
中では鶏の胴に蛇の尾を持つ魔獣が、石の止まり木をつついていた。目には分厚い革覆いが巻かれている。
コカトリスだった。
その視線や息を浴びた生き物は石へ変わる。卵は濃厚な味を持ち、魔力を込めた菓子や滋養料理に使われる高級食材でもある。
比較的小さなサイズなのは、養殖として扱われているためだろうか。それでもミレナは檻に掛けられた注意札を読み、静かに後ずさった。
「これを普通の鶏だと言い張るなら、あんたの常識を焼いて灰にしたあと、埋めてしまうほうがいいね」
「害獣を石へ変え、卵も産みます。一羽で二つの役目を果たす優秀な鶏です!」
「畑の作物まで石にしたら、こっちは一度に二つの失敗を食らうんだよ?」
「目隠しは外しません。隠したままでも雑草や虫を食べられるそうです」
「その売り文句を信じて買ったなら、売った相手は今ごろ祝杯を挙げているよ」
コカトリスは余白へ放された。革覆いを着けたまま、三羽は元気に走り回った。
石の下から幼虫を引きずり出し、ソラマメの葉を食べる羽虫を捕らえた。
イリヤは満足していたが、ミレナは納得していなかった。しかし、卵の味には密かに期待していた。
最初は平穏だった。
そのうち、コカトリスの一羽が革覆いを枝へ引っかけた。覆いが外れ、目の前にあった灰麦が石になった。
驚いた別の一羽が走り出し、余白を横切った。革覆いがずれ、ソラマメの列が石像へ変わった。
三羽目は騒ぎを恐れ、荷車の下へ潜り込んだ。そこにはコボルトたちの住まいがあった。
「全員、目を閉じてください。私がコカトリスを捕まえて目隠しを戻します!」
「先にあんたまで目を閉じたら捕まえられないだろう!考えてから叫びな!」
ミレナは古い鏡を拾った。
直接コカトリスを見ず、鏡に映った姿だけを頼りに近づく。コカトリスが振り返るたび、鏡の表面が灰色に曇った。
イリヤは大鍋を盾にして反対側へ回った。
コカトリスが大鍋を見つけるやいなや、息を吹きかけると鍋は瞬く間に石へ変わり、重さに耐えられなくなったイリヤが地面へ落とした。
「夕食用の鍋が石になりました。敗者が料理を作る約束は延期しましょう!」
「こんな時まで勝負を続けるんじゃないよ。そっちから畝の間へ追い込んでおくれ」
二人は泥まみれになりながら、コカトリスを一羽ずつ捕らえた。
最後の一羽は荷車の下で卵を産んでいた。コボルトたちは卵を囲み、石にならないよう全員で目隠しをして踊っていた。
結果として、畑の半分が石化した。
灰麦の穂は硬い彫刻となり、ソラマメは鞘ごと灰色になった。イリヤが奇跡を使っても、石化は解けなかった。
聖女の力は傷や病を癒やす。石像を作物へ戻す奇跡など、どの聖典にも記されていなかった。
ミレナは石になったソラマメを持ち上げ、畝の外へ運んだ。
「これで害虫は来なくなったよ。食べられる部分も残っていないけどね」
「コカトリスの卵は無事です。すべてを失ったわけではありません!」
「畑にとって最悪なのは、失敗の中から成功を探し出す聖女だと分かったよ」
コカトリスを返品することはできなかった。
売った商人はすでに神殿を離れたあとだった。
ミレナはしぶしぶコカトリスの小屋を作ることにした。
壁には柔らかな黒土を塗り、餌場は低くし、革覆いが枝へ引っかからないよう止まり木を外した。
イリヤも作業を手伝ったが、釘を打つたび板を割ったため、途中から藁を運ぶ役へ回された。
「小さな釘を打つのは難しいものですね」
「あんたは力が足りないんじゃない。力を余らせてるんだよ。畑でも同じことをしてるね」
「偉大な力には、偉大な使い道が必要だと思っていました」
「小さな使い道を嫌う力は、大抵その辺の壁を壊して終わるものさ」
礼拝堂の壁では、石工たちが今もサイの形をした穴を塞いでいた。
イリヤはそちらを見たあと、釘を一本拾った。
今度は槌を振り上げず、重みだけを使って静かに打ち込んだ。
釘は曲がらず、板も割れなかった。
「できました。魔王討伐より時間がかかりましたが、悪くありません」
「魔王が聞いたら泣くだろうね。自分が釘より下に置かれているんだから」
コカトリス小屋が完成すると、余白に暮らす者たちが見物へ集まった。
荷車の下のコボルトたちは、石化した灰麦を削って小さな笛を作った。
排水溝のノームは、コカトリスのフンから茸が育つと聞き、籠を担いでやってきた。
鐘楼に住むハーピーたちは、割れた瓦を屋根へ運んだ。
彼らは神殿の信徒ではないが、追い出された者でもない。
祈りの時刻には鐘を聞き、祭礼の日には落ちた花びらを拾う。
誰にも許可を求めず、誰からも役目を与えられず、神殿の隅で暮らしてきた者たちだった。
イリヤはノームには香茸を育てる場所を尋ね、コボルトには石の灰麦を何へ使えるか尋ねた。ハーピーには、余白へ一番長く陽が当たる場所を教えてもらった。
「降臨祭までに料理を完成させたいのです。皆さんにも働いていただきます!」
「その言い方では信仰への誘いより、畑仕事の押しつけに聞こえますよ。聖女様」
様子を見に来たセドが、ノームの籠を避けながら言った。
「聖女様が余白へ訪れてから、神学にない言葉ばかり増えている気がします」
「食卓は神学より古いはずです。神様にも忘れたものを思い出していただきます!」
余白の住人たちは、イリヤの目的を理解していなかった。
神を満腹にすることが可能かどうかも知らない。それでも、コカトリスの小屋を作った日の食事は温かかった。
石になった鍋の代わりに、割れた香炉を火へ掛けた。
ミレナの灰麦とソラマメ、コボルトが拾った香草、ノームの香茸を入れて煮込む。ハーピーが風を送り火を強めると、香炉の蓋が踊った。
味はひどく薄かった。
香茸だけは強烈で、噛むたび鼻の奥へ土の匂いが抜けた。
全員がそれぞれ文句を言い合いながら、鍋は空になった。
「この茸は癖がありますが、神様なら好まれるかもしれません……」
「遠回しに自分が不味いと思う物を神様へ出すつもりとは、随分と勇敢だね」
「美味しくなる方法を探します。続けていれば、好きになる可能性もあります!」
「時はあっという間だよ。奇跡で時間まで延ばすつもりじゃないだろうね」
季節が深まるにつれ、余白は畑らしい姿を見せ始めた。
石化を免れた灰麦が穂をつけた。ソラマメは外壁を伝い、紫の花を咲かせた。ハダカムギも高い畝で育ち、細い葉を伸ばしていた。
コカトリスは小屋で卵を産んだ。
ヴァッサは礼拝堂の横で讃歌を聞きながら、畑へ良質な肥やしを供給した。
神殿の中心から流れてくる音と香りが、余白へ積もっていった。
余白には祝福が届かない。
その代わり、神殿がこぼしたものは何でも受け取った。
****
降臨祭まで残りわずかとなった日、イリヤは畑の中央へ長い机を置いた。完成させる料理を考えるためだった。
灰麦の薄焼き生地。ソラマメと香茸の詰め物。コカトリスの卵を使った乳酪風の練り物。ハダカムギは外皮へ混ぜ、焼き上がったときに金色の模様を浮かべる。
神の食卓には慎ましすぎる料理だった。
「最初に考えていた宴より、小さな料理になってしまいました……」
「その小さな料理でさえも、まともには用意出来ていないけどね」
ミレナは試作品の料理をフォークで割った。
外側は焦げ、中は生のままだった。香茸から出た水分が生地を湿らせ、ソラマメの皮は硬く残っている。
「神様は炎を操れますから、食べる前に焼き直してくださるかもしれません」
「客へ調理を任せる料理人が、聖女以外にもいるなら会ってみたいものだね」
「では、火を弱めて長く焼きます。香茸は先に乾かしてみましょう」
「まだ盛大に焦がしているけど、あんたも少しは待つことを覚えたね」
試作は何度も失敗した。
ハーピーが風を送りすぎ、生地が神殿の屋根まで飛んだ。
コボルトが香草を入れすぎ、試食したセドが半日ほど紫色の煙を吐いた。
コカトリスの卵を割ると、黄身がこちらを睨むように動いた。イリヤが祝福を唱えた結果、黄身は小さな翼を生やして逃げ回った。
ミレナは失敗するたび、作り方を少しずつ変えていった。
イリヤは最初の頃のように、奇跡で解決しようとはしなかった。
生地をこね、茸を干し、火の前に座った。焦げる匂いがすれば鍋を離し、生焼けならもう一度戻した。
やがて、最後まで形を保つ料理ができた。
味は豪華ではない。灰麦の香ばしさとソラマメの甘さがあり、香茸の苦みを卵の濃厚さが包んでいた。ハダカムギの外皮は、火を受けると小さな星の模様を浮かべた。
セドは試作品を食べ終え、しばらく考えた。
「美味しいかと問われれば、もう一つ食べてから判断したい程度でしょうか」
「神官は遠回しだね。お代わりしたいなら、そう言えばいいじゃないか」
「祭式官には、聖女様の料理を慎重に検分する責務がありますからね」
****
降臨祭の前日、神殿の上空へ黒い雲が現れた。季節外れの嵐だった。
北の山脈で眠る風竜が寝返りを打つと、周囲の雲が魔力を帯びて暴れ始める。
青い稲妻を抱えた雲は、尖塔を舐めながら大神殿へ近づいてきた。
鐘楼のハーピーが警告の鳴き声をあげる。神官たちは回廊の扉を閉ざし、聖像へ防護布を掛けた。
余白には、閉められる扉がなかった。
最初の風が外壁を越え、灰麦を地面へ押し倒した。ソラマメの蔓が石壁から剥がれた。干していた香茸は空へ吸い上げられ、黒い鳥の群れのように舞った。
コカトリスたちは小屋の奥へ固まった。雷鳴に怯えた拍子に革覆いが外れ、仲間を見た。三羽とも互いを石へ変えていた。
「コカトリスが小屋から出ません。先に麦を刈り取って回収しましょう!」
「間に合わないよ!嵐が本格的に余白へ入ったら、こっちまで風に持っていかれるからね!」
「明日まで待てば何も残りません!神様へ空の皿は出せません!」
「畑より大事なものが中にいる!コボルトたちが荷車の下から出ていないんだよ!」
イリヤは麦畑から荷車へ向きを変えた。
泥水は足首を越え、外套を重くした。風に煽られた瓦が頭上を飛んでいく。
荷車は片側の車輪を浮かせていた。
床下では、コボルトたちが柱へ縄を巻きつけている。住まいを守ろうとしていたが、小さな体では荷車の重さに対抗できなかった。
イリヤは荷車の前へ立った。聖なる光を両腕へ集め、傾いた車体を押し戻す。
風が強まるたび、足元の泥が崩れた。
「皆さんは回廊へ避難してください。ここは私が押さえます」
「聖女だけ残すほど薄情じゃないって、みんなが顔に出してるよ」
ミレナが荷車の下へ潜り、縄を車軸へ結んだ。
コボルトたちは排水溝へ入り、ノームたちを呼んできた。ノームが湿地の底へ根を伸ばし、縄を地中深くへ固定した。
ハーピーたちは風に逆らって降り、荷車の屋根へ重しの石を並べた。
全員で余白の家を支えた。
嵐が大神殿へ重なった。青い稲妻が外壁を走り、礼拝堂へ落ちたが、ヴァッサの角が雷を受け止めた。讃歌を聞くときのように静かに座り、角から光を地面へ流した。
イリヤは荷車を押さえながら笑った。
「ヴァッサを購入した判断が、正しかったことが証明されました!」
「壁を壊した損まで消えたわけじゃないよ。今は黙って押しておくれ」
嵐は真夜中まで続いた。風が去ったあと、余白には泥と折れた枝だけが残った。
灰麦のほとんど倒れており、ソラマメは蔓ごと引きちぎられ、ハダカムギの細い穂も地面へ伏している。
香茸は飛び去り、コカトリスは石像になった。
降臨祭の料理に必要だったものは、すべて失われたように見えた。
イリヤは泥の中を歩き、倒れた灰麦を起こしてみたが、根元から折れていた。ソラマメの鞘はからっぽで、実は雨水に流されている。
彼女は余白の端まで歩いた。そこでヴァッサが腹ばいになっていた。
その大きな体の下に、幾つかの籠が挟まっている。嵐の直前、コボルトたちが収穫していた灰麦とソラマメだった。
ヴァッサは籠を踏まず、雨と風から守っていた。割れた聖像の陰では、ノームの香茸がいくつか残っていた。
石になったコカトリスの下には、幾つかの殻の厚い卵があった。親鳥の石像に守られ、割れずに残っている。
大神殿の祭壇を満たす宴には遠く及ばない量ではあるが、それでも一皿の料理なら作れた。
「ミレナ、まだ終わっていません。神様に口を付けていただくだけなら十分足ります」
「神様の腹がヴァッサほど大きかったら、最初から勝ち目のない戦いだけどね」
「大きければ来年もう一度挑みます!今年は一口でも食べていただきます!」
「それなら火を起こそうか。濡れた麦は、朝までに乾かさないと使えないよ」
余白の住人たちは、一晩かけて料理を作った。
倒れた荷車の板を外し、乾いている部分を薪にした。ヴァッサの角から小さな雷を分けてもらい、火を起こした。
灰麦を石臼で挽き、ソラマメを潰す。香茸は細かく刻み、コカトリスの卵と混ぜた。ハダカムギの穂から拾った外皮を生地へ練り込む。
イリヤは火の前に座り、炎が強くなれば薪を減らし、弱くなれば息を吹き込む。鍋の中から水分が抜ける音を聞き、香りが変わる頃合いを待った。
ミレナは隣で生地を裏返した。
「火を少し弱めな。急いで焼けば、また焦げてしまうよ」
「降臨祭の鐘が鳴る前には完成させたいところですが、今は待つことを優先します」
「それをもう少し早く聞けたら、礼拝堂の壁も畑の半分も無事だったろうね」
「早ければ今の料理にはなりません。失敗も材料に含まれているのです!」
「ようやく畑師らしくなったじゃないか」
夜明け前、最後の包み焼きが完成した。形は不揃いだった。
表面にはハダカムギの金色が浮かび、星とも傷跡とも見える模様を作っていた。
イリヤはそれを割り、ミレナと半分ずつにして食べた。
香茸はまだ少し苦く、ソラマメの甘さは弱く、灰麦の生地は硬い。コカトリスの卵だけが妙に濃厚で、口の中で長く残った。
「私は気に入っていますが、神様へお出ししてもよい味でしょうか?」
「最高とは言えないけれど、今の余白で作れる物は全部ここへ入っている」
「では、これを神様に食べていただきます。香りだけでは帰しません!」
「そこだけは最初から変わらないんだね。変えなくて良いところだけどさ」
降臨祭の朝、大神殿は嵐の傷を残していた。
外壁の一部は崩れ、回廊には雨水が溜まっている。サイが開けた穴も、昨夜の衝撃で再び広がっていた。
それでも今年の祭礼は行われた。
礼拝堂には白鹿の腿肉、蜜を塗った林檎、香草を詰めた大魚が並んだ。
神官たちは濡れた衣を替え、参列者たちは泥を払って席へ着いた。
天上の金色の天蓋が開いた。
朝の空には、嵐が洗い流した深い青が広がっていた。
イリヤは祭壇へ歩いた。
聖女の正装ではなく、泥の染みた作業着を着ている。木の盆を抱え、その上へ一つの包み焼きを載せていた。
大神官が道を塞ごうとしたが、セドが大神官の耳元で長く説明した。途中で何度も余白を指し、サイを指し、石になったコカトリスを指した。
大神官は頭を抱えたあと、道を開けた。
「セド、どのように説明して許可をいただいたのですか?」
「止めれば来年は何を連れてくるか分からないと申し上げました」
「私への深い信頼を感じます。来年についても期待してください!」
「その期待を大きく裏切ることが、聖女様に残された最大の善行ですよ」
豪華な捧げ物の隣で、イリヤは木の盆を祭壇へ置いた。余白の包み焼きは小石のようにも見えた。
青い炎が祭壇へ灯った。
白鹿の腿肉から香りが抜けた。林檎の蜜が光となり、大魚を包む香草の匂いが天上へ昇った。
炎は木の盆へ近づいた。包み焼きの表面から、灰麦と香茸の香りが立ち上がる。
イリヤは炎へ向かって一歩踏み出した。
「神様、これは香りだけでは完成しません。どうか料理そのものを召し上がってください」
礼拝堂の空気が固まった。
参列者たちは息を潜め、神官たちは聖句を忘れた。
青い炎が揺れた。
「聖女様、神へ食べ方を指示する聖句は、どの教典にも載っておりません」
「それなら今日の出来事を記せばよいのです。教典にも最初の日はあります」
青い炎の奥で、何かが笑った。
その響きで天蓋が震え、礼拝堂の壁から細かな砂が落ちた。
包み焼きが盆から浮かび上がった。
香りだけではない。硬い生地も、苦い香茸も、ソラマメも、濃厚な卵も、一口ずつ炎の奥へ消えていった。
神は料理そのものを食べた。
最後の欠片が消えると、青い炎はしばらく黙っていた。
やがて、祭壇の奥から低い言葉が響いた。
『硬く、苦く、少し焦げている』
「嵐にも幾らか責任があります。来年は、さらに美味しくいたします!」
「神前で天候に責任を求める人間を、私は初めて見ましたよ……」
セドの呟きに、青い炎が再び笑った。神の笑いは神殿の中心から回廊へ広がり、外壁を越え、余白の畑を揺らした。
倒れた灰麦の穂から、残っていた種が泥へ落ちた。ソラマメの千切れた根元には、小さな青い芽が出ていた。
神の気配が天上へ戻る直前、最後の言葉が降ってきた。
『次回もまた、香りではなく、舌へ残るものを望む』
天蓋が閉じた。青い炎も消えた。
礼拝堂は静まり返ったままだった。
イリヤだけが木の盆を抱え、満足そうに余白へ戻っていった。
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祭礼の翌朝、ミレナは雨で崩れた畝を直していた。
石になったコカトリスは礼拝堂の入口へ飾られている。大神官が災厄除けの像として扱うことを決めたためだった。
ヴァッサは修復中の壁のそばで、朝の讃歌を聞いていた。
イリヤの荷車は横倒しのままだった。
それでも彼女は神殿の居館へ戻らず、相変わらず荷台へ敷布を広げて眠る日々を続けていた。
ミレナが畝を直していると、余白の上空が急に暗くなった。
雲が来たのではない。白い腹を持つ巨大な生き物が、神殿の上をゆっくり泳いでいた。
魚に似た体には小さな翼が並び、吐息のたびに霧をこぼしている。山より大きなくじら雲だった。
くじら雲の腹から太い綱が垂れ、その先端を握ったイリヤが余白に向かって走ってきた。
「ミレナ、来年の食材が到着しました。くじら雲の乳で乳酪を作りましょう!」
「信じられない光景を見せつけてくれるけど……まさかあれを余白で飼うつもりじゃないだろうね?」
「安心してください。空に浮いていますから、畑の狭さは関係ありません!」
「昨日までの失敗から、どうしてそこだけ都合よく学んだんだい……」
朝の鐘が鳴った。くじら雲は音に驚き、大きなくしゃみをした。
腹の下に溜め込んでいた雨が、一斉に余白へ降り注いだ。直したばかりの畝が崩れ、荷車が泥の上を滑り、礼拝堂の壁が再び大きな音を立てた。
イリヤは綱に引かれながらも、空のくじら雲を見上げていた。
「まずは鐘の音へ慣れてもらいましょう。乳搾りは午後から始めます!」
「あんたが先に農業や畜産へ慣れておくれ。こっちの精神は来年まで持たないよ……」
神殿の中心では、神官たちが朝の祈りを唱えていた。
神殿の余白では、聖女と畑師が泥水を浴びながら、空飛ぶくじらをどうやって繋ぎ止めるか言い争っていた。
その日も余白には、どの祭神の祝福も届かなかった。
代わりにくじら雲の雨が降り、サイの低い鳴き声が響き、石にならなかったコカトリスの卵が孵った。
蛇の尾を持つ雛は、革覆いを嫌がって走り回った。
イリヤは綱を放り出し、雛を追いかけた。それを手伝うかのように、コボルト達も駆け回る。
くじら雲は自由になった綱を引きずり、礼拝堂の尖塔をゆっくりと一周した。ハーピーが足で網を掴み、ノームがそれを手伝おうと試みようとしていた。
ミレナは鋤を担ぎ、朝から壊れた畝を眺め、それから深く息を吸いながら聖女のあとを追った。
神の食卓を作るには、まだまだ育てるものが多すぎた。
連載の書き溜め中に思いついたので。




