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『孤独な男と警察官』

掲載日:2026/04/29

「孤独な男と警察官」


正夫は夜の繁華街を歩いていた。妻と二人で働いて建てた家だったが、先日妻に先立たれ、ひとりで住んでいても、妻との思い出ばかりが思い出されて、余計に一人でいることを実感してしまうので、手放したのだ。ローンも完済してしまっていたし。正夫は、大金を手に入れた直後だった。久々に、夜の街に酒でも飲みに来たのである。男、天涯孤独になってしまった。金はあるし、たまにはいいだろう。そんな気分で、3件目の酒場に行こうとしたところで、警察官に呼び止められた。


「こんばんは。少し、よろしいでしょうか」


若く、真面目そうな警察官の声が、夜の喧騒を切り裂いて正夫の耳に届いた。正夫は足を止め、ぼんやりと相手の顔を見つめた。二軒の酒場をはしごした後で、視界が少しばかり心地よく揺れている。


「何か、私に用ですか」

「いえ、不審というわけではないのですが、その……肩にかけていらっしゃる鞄、少し珍しいなと思いまして」


警察官の視線は、正夫の肩にかかった小ぶりのショルダーバッグに注がれていた。それは亡き妻が、近所への買い物や旅行の際によく使っていた、使い込まれた革製のバッグだ。大柄な男の肩には、確かにつり合いが取れていない。


「……これですか。これは、妻の形見でしてね。そばにいて一緒に歩いているような気がするんですよ」


正夫は自嘲気味に笑い、無意識にバッグの紐を強く握りしめた。バッグの中にあるのは、家を売却した全財産が預けられた自分名義の通帳と印鑑、それに、妻が最後まで使っていた口紅だ。正夫にとっては、これこそが彼の人生そのものだった。


「左様でしたか。失礼いたしました。ただ、この辺りは最近、ひったくりや酔客を狙った犯罪が増えておりまして。そのバッグ、少し不自然に目立ちますし、お一人で歩かれるのは少し心配になりましてね」


警察官の言葉は親切心から出たものだろう。酒が回っているせいか、正夫に怯えるような気持ちはなかったが、説明のしづらさに少しばかり困惑した。女性もののバッグを片にかけ繁華街を一人で歩いている。職務質問を受けるのも無理はないだろう。


「お気遣い、ありがとうございます。もう一軒ほど寄ってから、タクシーで適当な泊まり先へ向かうつもりですから。今夜は一人でゆっくり寝る場所を探しますよ」


正夫が「一人で」と強調して自嘲気味に言ったその時、警察官の表情が妙にこわばった。警察官は正夫のすぐ右隣を凝視し、困惑したように視線を泳がせている。


「お一人……ですか? しかし、先ほどからずっと寄り添っていらっしゃる……。失礼ですが、お隣の女性は奥様ではないのですか?」


正夫の全身が凍りついた。

「え……? 何をおっしゃってるんですか。私、一人だけですよ。隣には、誰もいないはずだ」


正夫は慌てて自分の左右を見渡した。街灯の下、自分の影が長く伸びているだけで、そこには誰も立っていない。しかし、警察官の表情は真剣そのものだった。


「いえ、お隣にいらっしゃいますよ。うつむいてお顔ははっきりとは見えませんが……女性の方が、あなたの腕を掴むようにして立っておられます」


その言葉を聞いた瞬間、正夫の両の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。


「……見えるのですね。あなたには、あいつが見えるのですね」


正夫は力なくその場に膝をつきそうになり、警察官が慌ててその腕を支えた。正夫は、あふれる涙をぬぐおうともせず、その涙に追いつくように言葉を続けた。


「実は、先日……妻を亡くしたばかりなんです。子供もおらず、ずっと二人きりの暮らしでした。私は大手の営業マンでしてね、若い頃から日本中を飛び回って、一度出張に出れば一ヶ月も帰らないことなんてざらでした。あいつには専業主婦をしてもらって、生活費は十分すぎるほど渡していたつもりだったんですが……。そうですか、このバックを肩にかけているから、妻の魂が寄り添ってくれていたのですね」


正夫は震える手で、肩にかけた古びたバッグを愛おしそうに撫でた。


「あいつは本当に、しっそで、つつましやかな女でした。いつか子供ができた時のため、老後のためと、自分の欲しい物なんて一つも買わずに、ひたすら貯金をしてくれていた。うちの妻は、そんなに着飾るタイプじゃなくてね。肩までの髪をいつもまとめて、化粧も薄く、いえ、美人でしたよ。少しふくよかな女性でしたが、とてもおとなしく尽くすタイプの女性でした。だから、俺は日本中を安心して営業に行けたのだと思う。本当に、世話になったのに、こんなことになってしまって……」


正夫は、溢れ出す涙とともに妻の面影を慈しむように語り続けた。

しかし、その言葉を聞く警察官の背筋には、言いようのない戦慄が走っていた。


正夫が語る「妻」の姿は、穏やかで控えめな女性のイメージだ。

だが、先ほどまで警察官がこの目で見ていた「隣の女」は、その描写とは似ても似つかないものだった。


女の髪は、腰まで届くほど異様に長く、不自然に黒々としていた。身体つきは肉感的なふくよかさなど微塵もなく、枯れ枝のように細く、小柄だった。

そして何より脳裏に焼き付いているのは、その細い指に、夜の街灯を反射して禍々しく輝く、大きな宝石の付いた指輪がいくつもはめられていたことだ。


自分のためには何も買わなかった、しっそな妻。

正夫の語る物語と、警察官が目撃した「それ」の姿。


「……そうでしたか」


警察官の脳裏にはいくつもの疑問や、説明のつかない不可解な点が渦巻いていた。しかし、これほどまでに涙を流し、身を切るような後悔を口にする男性を、幽霊のような存在と話が食い違うという理由だけで引き留めるわけにもいかない。警察官が目撃した「それ」は誰だったのか。

「すみません、引き留めてしまって。……どうぞ、お気をつけてお帰りください。あまり、深酒はされませんように」


警察官はそう言って、正夫を解放した。正夫は何度も頭を下げながら、よろよろとした足取りで再び繁華街の闇へと歩き出した。


警察官は、遠ざかっていくその後ろ姿をじっと見送っていた。

正夫の歩調に合わせて、あの藍色のワンピースを着た小柄な女性もまた、ゆっくりと闇の中へ消えていく。


その時だった。

並んで歩いていた女性が、ふと足を止め、首だけを不自然な角度でこちらへ巡らせた。

髪の隙間から覗いたその顔が、警察官を射抜くように見つめ、そして――。


声もなく、にやりと笑った。


いくつもの宝石を嵌めた指が、正夫の腕をより一層強く、逃がさぬように引き寄せたのを警察官は見た。

夜の街の喧騒が、一瞬だけ遠くへ消えたような気がした。



おしまい

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