第2回:不当廉売と優越的地位の濫用
早朝のベーカリー・サンに、かつての活気が微かに戻っていた。
オーブンから漏れ出す香ばしい匂い。それは、昨日まで絶望に塗りつぶされていた商店街に、唯一残った「まともな文明」の香りだった。
「はい、古根川さん。焼きたてのクロワッサン」
サキが差し出した皿の上で、何層にも重なった生地が黄金色に輝いている。
古根川はそれを一口齧ると、目を閉じて深く頷いた。
「……素晴らしい。バターの香りと塩味の均衡が完璧だ。この品質、この労力。これを二百円で売ることは、正当な経済活動の勝利と言える」
「大げさだなぁ。でも、ありがと」
「だが、お嬢さん。悲しいことに、この素晴らしいパンが今、この瞬間に『犯罪』の被害に遭っている」
古根川は窓の外、朝霧の中に佇む『デモン・マート』を指差した。
開店一時間前だというのに、すでに店の前には「目玉商品」を求める人々が列を作っている。今日の看板メニューは『魔王軍特製・漆黒の生食パン――0円(限定五百個)』だ。
「……また0円。あんなの、どうやったって勝てないよ」
「ええ。単体で見れば、彼らは一斤売るごとに百五十円の赤字を出している。しかし、マオウ・ホールディングスの狙いはパンを売ることじゃない。この地域の『パンの供給網』を破壊し、競合を排除した後で、価格を自由自在に操る独占状態を築くことにある。……典型的な不当廉売の狙い(インテント)だ」
古根川はコーヒーを飲み干すと、コートを羽織り、スマートフォンを二台、ポケットに忍ばせた。
「さて、今日は『兵糧攻め』の現場を差し押さえに行きましょうか。協力してくれますか、サキさん」
「私に何ができるの?」
「あなたには『善良な一般市民』として、市場の歪みをその目で記録してもらいます」
二人が向かったのは、街の外れにある『田中農園』だった。
ここは古くから商店街に新鮮な野菜を卸してきた、地域農業の要だ。しかし、ビニールハウスの前に積み上げられていたのは、瑞々しいレタスやトマトではなく、無造作に投げ捨てられた「出荷不可」の野菜の山だった。
「……ひどい。これ、まだ全然食べられるのに」
「『規格外』という言葉の魔法ですよ」
古根川が指差した先。農園の主である田中さんが、眉間に深い皺を刻んで立ち尽くしていた。その前には、ピカピカのスーツを着こなしたデモン・マートの若手社員が、タブレット片手に冷淡な声を上げている。
「田中さん、言いましたよね。我が社の『魔王基準』を満たさない野菜は、一円も払えません。このレタス、三ミリほど葉先が縮れています。……全品返品(受領拒否)です」
「そんな殺生な! 先週の契約では、全部買い取ってくれるって……そのために、他の商店街への卸しも全部断ったんだぞ!」
「契約書をよく読んでください。品質管理の最終決定権は我が社にある。嫌なら、どうぞ他へ。……ああ、でも今さら他に行く場所なんて、この街には残っていませんよね?」
社員は鼻で笑い、さらに追い打ちをかけるように書類を突きつけた。
「それから、これ。来月からの『協力金』の明細です。デモン・マート進出一周年記念セールの原資として、売上の二〇パーセントを納めていただきます。あと、この『魔王ブランドの特製肥料』、相場の三倍の価格ですが、これを使わない農家の野菜は今後一切扱いません」
サキが息を呑む。
それはもはや商談ではなく、合法的な略奪だった。
「……これが、優越的地位の濫用」
古根川が、生垣の陰からスマートフォンを向けながら、静かに呟いた。
「田中さん、怖くて喋れないのは分かります。相手は巨大資本、逆らえば干される。……ですが、あなたのその沈黙こそが、この街を殺す最後の一押しになるんです」
田中さんが震える声で、「……そんなこと言ったって、俺にはこれしかないんだ」と項垂れる。
その時、古根川が生垣から颯爽と姿を現した。
「失礼。通りすがりの『公正な取引』の愛好家ですが、少々お話が耳に入りまして」
「誰だお前は! ここは私有地だぞ!」
デモン・マートの社員が色めき立つ。
古根川は動じず、胸ポケットから「公取委のバッジ」――ではなく、最新の独占禁止法解説書をゆっくりと取り出した。
「君、いいのかな。今君が口にした言葉。……受領拒否、返品、協力金の強制、そして指定商品の購入強制(抱き合わせ販売)。これらはすべて、独占禁止法第十九条が禁ずる『不公正な取引方法』のオンパレードだ。特盛りセットと言ってもいい」
「……っ、何が不公正だ! これは経営努力によるコスト削減だ。消費者のために安く売る、そのための効率化だ!」
「努力? 笑わせないでいただきたい。他人の血を絞り取って『安さ』という名の麻薬を精製することが努力なら、この世の犯罪者は全員努力家だ」
古根川の目が、氷のように冷たく冴えわたる。
「君たちがやっているのは、不当廉売という名の『兵糧攻め』だ。そしてその原資を、こうして立場の弱い生産者に押し付けている。……これは市場の歪みではない。市場への反逆だ」
「うるさい! 証拠でもあるのか!」
「ああ、これのことかな?」
古根川が、もう一台のスマートフォンを掲げた。画面には、今しがたのやり取りが、音声も映像も鮮明に記録されている。
「クラウドに直結されていますから、今ここで壊しても無駄ですよ。……それから、田中さん。勇気を出してください。あなたが『嫌だ』と言えば、この動画は公取委を動かすための、最高に香ばしい『餌』になります」
「餌……?」
田中さんが、縋るような目で古根川を見た。
「公正取引委員会は、自分たちから動くことは稀です。ですが、被害者からの具体的な『申告』があり、それが市場に重大な影響を及ぼすと判断されれば、彼らは牙を剥く。……マオウ・ホールディングスという大魚を釣るために、あなたの証言が必要なんです」
「そんなことして、本当に大丈夫なのか……?」
「大丈夫です。あなたが魔王軍に潰される前に、私が彼らを『排除』します」
古根川の言葉には、不思議な説得力があった。
田中さんはしばらく震えていたが、やがて床に落ちたレタスを一つ拾い上げると、デモン・マートの社員を真っ向から睨みつけた。
「……もう、あんたらの言いなりにはならん。この野菜は、うちのレタスを『美味しい』って言ってくれる商店街の人たちに食べてもらうんだ!」
「……チッ。後悔するぞ、ジジイ!」
社員は捨て台詞を残し、砂埃を上げて車で去っていった。
静かになった農園で、サキがホッと胸を撫で下ろす。
「すごかった……古根川さん、あれでマ王軍も少しは大人しくなるかな?」
「いいえ。むしろ逆でしょうね」
古根川は保存した動画を慎重に操作しながら、険しい顔をした。
「現場の担当者が失敗すれば、次は本社の『エリート』が出てくる。彼らは法律を破ることよりも、法律の『穴』を突くことに長けている。……おそらく、政治的な圧力を使って公取委の動きそのものを封じにかかるはずだ」
「政治的な……?」
「ええ。この街の再開発計画には、マオウ・ホールディングスと深く繋がった『大物』が絡んでいる。……ここからが、本当の泥仕合になりますよ」
古根川の視線の先には、街の中央に鎮座するデモン・マートの本社ビルが、逆光の中で巨大な墓標のように立ちはだかっていた。
その夜。
古根川のスマートフォンに、一通の非通知設定のメールが届く。
『古根川審査官。過ぎた正義感は、身を滅ぼしますよ。五年前の「あの件」を忘れたわけではないでしょう?』
古根川は無表情にそのメールを削除し、冷めたコーヒーを飲み干した。
過去の亡霊が、暗闇から這い出し始めていた。




