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第1話:その安さは「罪」である



 ペンキの剥げかけたシャッターに、赤いマジックで書かれた『閉店』の二文字。

 かつて香ばしい小麦の匂いで街を包んでいた『ベーカリー・サン』の最後の日、そこには感動的な別れも、常連客との涙の握手もなかった。


 あるのは、静まり返った歩道と、道路の向かい側にそびえ立つ黒塗りの巨大な要塞――超大型店舗『デモン・マート』への大行列だけだ。


「……すまんな、サキ。俺の力不足だ」


 店主の源さんが、焼け残ったパンを愛娘のサキに手渡す。その手は、長年の立ち仕事で節くれ立ち、今は力なく震えていた。


「お父さんのせいじゃないよ。あんなの、まともじゃないもん」


 サキが睨みつける先。デモン・マートの入り口には、眩い液晶パネルが踊っている。

『本日限定! 魔王軍特製・絶望のデモン弁当――1円(税込)』

 1円。

 もはや通貨としての機能を果たしていない、端切れのような価格。

 原価どころか、弁当の容器代すら出ないはずの狂った数字が、この商店街の息の根を止めた。


「1円の弁当に、100円のパンが勝てるわけないよ……」


 サキの声が、乾いたアスファルトに吸い込まれていく。

 商店街は、死んでいた。

 八百屋は魔王軍の『0円キャベツ』に潰され、肉屋は『無料ホルモン』の前に膝をついた。資本という名の巨大な重戦車が、文化と生活を更地へと変えていく。


「お困りのようだね」


 冷ややかな声がした。

 商店街の入り口に、一台の高級黒塗車が停まった。

 降りてきたのは、仕立てのいいスーツに身を包み、不自然なほど白い歯を見せて笑う男――デモン・マートのエリアマネージャー、阿久津あくつだった。


「源さん、もう潮時でしょう。この一帯は我々マオウ・ホールディングスが買い取り、巨大な駐車場にする計画です。これ、立ち退き料の提示額ですが……どうです? 弁当数万個分にはなりますよ」


 阿久津が差し出した書類を、源さんは受け取ることすらできなかった。屈辱に顔を歪めるしかない。

 阿久津は、まるでゴミを見るような目で、シャッターの下りた店を見渡した。


「ビジネスは弱肉強食です。安いものは正義、高いものは悪。あなたのパンが売れないのは、努力が足りないからだ。違うかな?」


 サキが唇を噛み、涙をこらえる。

 その時。


「――面白い冗談だ。ぜひ、その論理で公判を戦ってほしいものだな」


 低く、よく通る声が響いた。

 阿久津の背後、街灯の影から一人の男が歩み寄ってくる。

 ヨレたトレンチコートに、無精髭。手には、デモン・マートで買ったと思われる『1円弁当』のレジ袋を提げていた。


「誰だ、お前は?」


 阿久津が不快そうに眉をひそめる。

 男は、弁当の割り箸を割り、器用に唐揚げを口へ運んだ。


「もぐもぐ……ふむ、味は悪くない。だが、この弁当には致命的な調味料が欠けている。……『適正価格』という、市場のルールだ」


 男は弁当の容器を阿久津の目の前に突きつけた。


「初めまして、阿久津マネージャー。私は古根川こねがわ。以前は霞ヶ関の、ある『お堅い役所』で、あなた方のような『ルール破りの巨人』を掃除する仕事をしていた者です」


「霞ヶ関? 役人か? フン、こんな寂れた街の味方をして何になる。そもそも、安く売って何が悪い。消費者は喜んでいるんだぞ!」


 阿久津が鼻で笑う。

 古根川は、コートの内ポケットから一冊の古びた文庫本を取り出した。

 それは法典だった。


「『安く売ること』自体は罪ではない。だが、あなた方がやっているのは『不当廉売ふとうれんばい』。独占禁止法第2条第9項、および不公正な取引方法の第6項に抵触する可能性がある」


 古根川の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなる。


「原価を著しく下回る価格で継続して販売し、他の事業者の活動を困難にさせる行為。これは自由な競争ではなく、他者を排除するための『経済的な虐殺』だ。あなたが誇る『1円』という数字は、この街の未来を焼き払うためのガソリンの代金ですよ」


「屁理屈を! 証拠があるのか!」


 阿久津が声を荒らげる。古根川は待ってましたと言わんばかりに、提げていたレジ袋から大量のレシートを取り出した。


「証拠なら、この一ヶ月間、私が毎日デモン・マートに通って集めておきました。1円弁当の販売実績、特定の時間帯における競合店ここではベーカリー・サンですねの来客数と、あなた方の価格変動の相関関係。……さらには、地元の農家さんに『魔王軍とだけ取引しろ、さもなくば……』と囁いた優越的地位の濫用の証拠まで」


 古根川はレシートの束を、パラパラとトランプのように弄んだ。


「阿久津さん。独禁法は、消費者の利益を守るための法律だ。だが、それは『目先の安さ』だけを指すんじゃない。多様な選択肢が守られ、公正な競争が行われることによってもたらされる『長期的な利益』のことだ。……あなた方がやっているのは、森の木をすべて切り倒して、最後に自分たちだけが残る砂漠を作ることだ」


 阿久津の顔から、余裕の笑みが消えた。

 彼は古根川のトレンチコートの襟元に、小さな銀色のバッジが光っているのを見逃さなかった。

 それは、公正取引委員会の『審査官』がかつて付けていたもの。


「貴様……まさか、本気で我々を訴えるつもりか? マオウ・ホールディングスの顧問弁護士団がどれほど強力か、分かっているのか!」


「ええ、よく知っていますよ。彼らの多くは、私の元部下や後輩ですから」


 古根川はニヤリと笑い、源さんとサキの方を向いた。


「源さん、サキさん。パンを焼く準備をしておいてください。……この街から、不当な魔王の影を追い出します」


「追い出すって……どうやって?」


 サキが呆然と尋ねる。

 古根川は、懐から一枚の書類を取り出した。

 そこには、太い文字でこう記されていた。


『公正取引委員会への申告書』


「剣も魔法もいりません。必要なのは、事実と、勇気と、この一冊の法律ルールブックです」


 古根川は阿久津に向き直り、宣告した。


「排除措置命令。……それが、あなた方の『詰み』の合図だ。覚悟しておいてください。これから、この街の経済構造を『公正』に書き換えます」


 阿久津は舌打ちをして車に乗り込み、逃げるように去っていった。

 静かになった商店街。

 源さんが、古根川に尋ねた。


「……あんた、どうして俺たちを助けてくれるんだ? もう、誰も見向きもしないこの街を」


 古根川は、手元に残った『1円弁当』の最後の一口を食べ終え、少しだけ寂しそうに笑った。


「私はただ、美味しいパンが食べたいだけですよ。……それも、誰かの涙で味付けされていない、適正な価格のパンをね」


 空はどんよりと曇っていたが、古根川の背後にある『ベーカリー・サン』の看板には、わずかに西日が差し込んでいた。

 現代の騎士は、馬の代わりに法典を携え、巨大な資本という名の竜に立ち向かう。

 

 まずは一歩。

 この商店街に、公正な光を取り戻すための戦いが始まった。


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