第9話 父より
その日の午後は、珍しく静かだった。
昼過ぎに依頼の完了報告が二件、素材の持ち込みが一件。それぞれ処理して、帳簿に書いて、合計を確認した。数字に問題なし。在庫の増減も許容範囲内。夕方前のこの時間帯は、冒険者たちが動き出す前と戻ってくる前の、ちょうど間にあたる。カウンターに肘をついて、月次の集計表の見直しをしていた。
扉が開いた音がして、顔を上げた。
入ってきたのは老人だった。
七十に近いかもしれない、あるいはもう越えているかもしれない年齢で、背が低く、体格は細い。革の作業着を着て、革紐で束ねた杖を手に持っている。足腰はしっかりしているようで、杖は重さをかけるためではなく、習慣で持っているように見えた。左手の甲に、冒険者の証明書類を長年持ち歩いた跡がある——右より日焼けが濃く、小指の関節がわずかに変形している。何十年も麻袋を提げてきた手だ。
「いらっしゃいませ」
老人はカウンターに近づいてきた。銅色の登録証が首から下がっている。銅牌。灰枝では見慣れた顔だが、今日は素材も書類も持っていなかった。
カウンターの前で立ち止まる。それから、少し間を置いた。
「その……頼みがあるんだが」
「はい、なんでしょう」
「手紙を——書いてもらえないか」
私は少し驚いた。珍しい依頼だった。が、珍しくはあっても、ないわけではない。辺境には字を読み書きできない人が少なくない。ギルドの受付が代筆をすることは、規約には書いていないが、慣習としてある。少なくとも、前任者の時代からそうだったと聞いていた。
「承りました。どこへの手紙ですか」
「娘のところへ。嫁に行って、もう三年になる。ヴァルン街道沿いの——デルガよりは手前の、ちいさな町だ。名前はサクヴァラという」
「サクヴァラ、わかります。郵便は通っていますね」
老人の名前はガロといった。灰枝では知られた顔で、主に樹海の縁での採取依頼をこなしている。薬草、キノコ、昆虫の殻——難易度は高くないが、地道な仕事だ。何十年もそれをやってきた人間だと聞いていた。話したことは何度もあるが、こういう依頼は初めてだった。
「どんな内容にしたいですか。ゆっくり話してもらえれば、書き取ります」
ガロさんが手元の杖を持ち直した。視線が少し下に落ちる。言葉を探しているようだった。
「……難しいことは、書けないんだが」
「難しくなくていいです」
「そうか」
短い間があった。
「天気の話から、始めていいか」
「もちろんです」
私は真っ白な紙を一枚、カウンターに広げた。ペンを構える。
「今年は、春が早かった。三月の終わりにもう花が咲いた。例年より十日ほど早い気がする。娘が嫁いだ年も、早い春だった。あの子の嫁入りに花が間に合ってよかったと、当時は思ったもんだ」
私はそれを書き取りながら、語調を整えた。ガロさんの話し言葉は素直で、直接的だった。そのまま書けば手紙になる。余分なものは足さなくていい。
「収穫はどうか——と聞かれると、まだこれからだな。春先は蒼苔がよく育った。そこらじゅうに出てきて、採っても採っても追いつかない感じだった。悪くない年になりそうだ、と思っている」
蒼苔がよく育った。私の手が一瞬、わずかに遅れた。
先月の棚卸しでまとめた集計表のことが頭をよぎった。蒼苔の採取産地が縁の奥へ移動している傾向——それはつまり、縁の蒼苔が豊作だったということでもあった。採取量が増えたから産地が広がったのか、産地が広がったから採取量が増えたのか、どちらともつかないが、ガロさんの観察とデータが重なっている。
「続けてください」
「ああ。それから——町の話だが、肉屋のドンダルが、新しい窯を入れた。燻製の種類が増えて、前より値は上がったが、旨くなった。娘が好きだった腸詰めも、今は前と違う作り方をしているらしい。一度食べてみるといい」
私は書きながら、少し笑った。窓の外、通りの向こうに肉屋の煙突が見えた。確かに、最近はいつもより香ばしい匂いがしていた。それが新しい窯のせいだったのか。帳簿には書かないような、生活の細部だ。
「ギルドはどうかというと——最近、見知らぬ顔が増えた。一月ほど前から、俺の知らない顔がちょいちょい来るようになった。若いのも、そうでないのもいる。遠い方から来た感じのするやつもいる。灰枝には珍しいことだ」
私はペンを動かしながら、帳簿の数字を思い出していた。今月の新規登録、四名。去年の同時期は一名だった。ガロさんは帳簿を見ていない。ただ、カウンターの前で何十年も目を使ってきた人が、ちゃんとそれを見ていた。
正確だ、と思った。数字で確認した傾向が、一人の老人の肌感覚と一致している。
「樹海のことも、少し書いてくれるか」
「どんなことを」
ガロさんはしばらく黙った。
「……昔はもっと静かだった、ということだ」
「もう少し、聞かせてもらえますか」
「うまく言えんが。今年の縁は、なんか、騒がしい気がする。音じゃなくて——気配というか。樹海の奥の方で、何かが動いているような。何十年も通っているが、この感じは久しぶりだ。こういうのは、大抵あたる」
ペンが止まった。
今度は少し長く、止まった。
あのときの数字が頭の中で並んだ。三村からの目撃報告。地図に打った三点の印。中層の縄張り争いの痕跡。そして先月の集計表——採取産地が奥へ移動している傾向、遺物の提出件数が増えていること、越境通行証の増加。
私は帳簿でそれを読んでいた。ガロさんは皮膚でそれを読んでいた。
辿り着いている場所が、同じだった。
「書いてもらえたか」
「はい、書けました。続けてください」
「それだけでいい。静かじゃなくなった、ということを、娘に伝えたかった。あの子が嫁ぐ前は、俺と二人で縁を歩くこともあったから。あの頃の樹海の話を、ときどきするからな」
短い。でも、十分だった。
最後の部分を書き取り、ペンを置く。紙の上に、ガロさんの話が並んでいた。天気の話、蒼苔の話、肉屋の窯の話、ギルドの新顔、そして樹海の気配。どれも小さなことで、どれも確かなことだった。
「締めの言葉は、どうしますか」
「締め?」
「手紙の終わりに、一言」
ガロさんがしばらく考えた。杖を持つ手が、わずかに動く。
「……体に気をつけろ。父より。それだけでいい」
書いた。
父より。
インクが乾くのを待ちながら、私は書いた内容を一通り目で確認した。記入漏れなし。脱字なし。ガロさんの言葉が、丁寧な文章として並んでいる。話し言葉の温度を残しながら、読める形に整えた。それがこの仕事のすべてだ。
「読み上げましょうか」
「頼めるか」
私はゆっくりと読んだ。
今年の春の早さのこと。蒼苔の豊作のこと。ドンダルの窯の話と、娘が好きだった腸詰め。ギルドに増えた見知らぬ顔。そして、昔はもっと静かだった樹海のこと。
ガロさんは目を閉じて聞いていた。
私は声に出して読みながら、自分が書いた文章を改めて見ていた。一文字一文字は小さい。でも、並べると——灰枝の今が、そこにあった。
「これでいい」
読み終えると、ガロさんは目を開けずにそう言った。一度だけ頷いて、それから目を開けた。
「ありがとう。いくらかかる」
「書記への依頼料として、銅貨二です。郵便の便は明日の朝なので、こちらで封をして預かっておきます」
本来、街の書記に依頼すれば銅貨五から八はかかる。私が「銅貨二」と言ったのは、規約の範囲内では最低額だった。ガロさんは何も言わなかったが、懐から銅貨を出すとき、少し表情が和らいだのがわかった。
銅貨を受け取り、帳簿の下欄に記入する。「代筆依頼・一件・銅貨二」。それから手紙を三つ折りにして、封筒に入れた。宛先と差出人をガロさんに確認しながら、封筒の表に書く。封をする。明日の郵便の束に挟む場所に、そっと置いた。
「また何かあれば、どうぞ」
「ああ」
ガロさんが杖を突いて立ち上がった。カウンターから一歩引いて、私を見た。
「お前さん、前の担当よりやりやすい」
それだけ言って、扉を開けた。足音が石畳に出て、遠ざかった。
静かになった。
私はカウンターに肘をついて、少しの間そのままでいた。
ペンが手の中にある。さっきまで、ガロさんの言葉を書いていたペンだ。インクがわずかに乾いていない部分が、先端に残っている。
私は紙を一枚、引き出しから取り出した。
何かを書こうとして——手が止まった。
書こうとしていたのは、母への手紙だった。
内陸の町に住んでいる。灰枝に赴任して二年半、まともな手紙を送っていなかった。年に一度か二度、近況を書いた短い便りを出すだけだった。ガロさんの手紙を書いている間、なんとなく意識の端にあったことが、今になって浮かび上がってきた。
何を書けばいい。
頭の中で文章を組み立ててみた。
「灰枝は今日も平和です。帳簿の辻褄も合っています」
——合っている。数字は、合っている。
でも。
今月の新規登録が去年の四倍。越境通行証の発行が去年の二倍半。遺物の提出件数が前年の一・五倍以上。聖騎士が巡回で通過した。樹海の採取産地が奥に移動している。全部が、同じ方向を向いている。
平和です、と書けるか。
私は正確に書く人間だ。帳簿には正確なことしか書かない。手紙だって、嘘は書きたくない。
でも——「不穏な数字が積み重なっています」と書くのも、違う。それは事実の断片で、全体ではない。数字の傾向は見えているが、「なぜ」はわからない。気候のせいかもしれない。成長する若い冒険者たちのせいかもしれない。世界が変わっているのかもしれないし、変わっていないのかもしれない。私には見えていない部分が多すぎる。
書けない内容は書けない。正確でないことは書けない。
ペンを置いた。
白い紙が、カウンターの上に広がっている。何も書かれていない。
ガロさんは言葉を探しながら、でも言えることを全部言った。「昔はもっと静かだった」——それは観察で、事実で、正直な一文だった。私が同じように書けるとすれば何だろう。「灰枝は今、少し賑やかになっています」。それは本当だ。「見知らぬ顔が増えました」。それも本当だ。「帳簿の数字が、一つの方向を向き始めています」。それも——正確だ。
でも、手紙に書いて、母が何を思うか。
灰枝がどんな町か、母は知らない。辺境の小さな支部で一人で仕事をしていることは知っているが、それが具体的にどういうことなのかは、おそらくわからない。数字を並べても、伝わるものとそうでないものがある。
私はペンを手に取って、また置いた。
白い紙を引き出しに戻した。
いつか書く。書けることが増えたときに、書く。ガロさんのように、全部を言葉にできたとき。それが今日でないだけだ。
窓の外を見た。
石畳の通りに、夕方の斜光が伸びていた。肉屋の煙突から細い煙が立ち上っている。新しい窯の燻製のために、今日も薪をくべているのだろう。棘鱗の風鈴が、かすかに鳴った。
平和に見える。
見える、という言葉が正確だと思った。見えていないものもある。でも、カウンターの向こうから見えるこの町は、確かに今日も動いていた。ガロさんが樹海の縁を歩いて、蒼苔の気配を読んでいた。肉屋が新しい窯で腸詰めを作っていた。ギルドに誰かが来て、何かを持ち込んで、帳簿に記録が積み重なった。
私は受付カウンターの棚に手を伸ばして、明日の郵便便に出す束を確認した。
一番上に、ガロさんの封筒が乗っていた。
宛先に「サクヴァラ ガロ様の娘御へ」と書いてある。差出人欄には「灰枝 ガロ」と書いた。インクはもう、完全に乾いている。
明日の朝、郵便の馬車が来れば、この封筒はデルガの方角へ向かう。街道沿いをたどって、ヴァルン沿いの小さな町に届く。その先の人の手が受け取って、開けて、声に出して読むかもしれない——天気の話、蒼苔の話、肉屋の窯、ギルドの新顔、そして、昔はもっと静かだった樹海のこと。
言葉は、正確に届く。
書いた言葉は、書いたとおりに届く。それは帳簿と同じだ。書いてあることは本当で、書いていないことはそこにない。ただ、書いてある言葉の向こうに、書いた人間の時間が残る。
ガロさんの何十年が、あの短い手紙の中にあった。私はそれを写し取っただけだ。でも、写し取ったことで形になった。形になったから、明日の郵便で動く。
私は帳簿を閉じた。
今日の数字は、合っている。書かれなかった手紙は、引き出しの中にある。どちらも、今日の事実だ。
鍵を持って立ち上がる。窓の錠を確かめ、カウンターの秤に布をかけ、ランプの芯を整える。閉める順番はいつも同じだ。
扉を施錠するとき、夕風が一瞬、通りを抜けた。
棘鱗の風鈴が、もう一度だけ鳴った。
灰枝は今日も、ここにある。平和かどうかはまだわからない。でも、数字は積み重なっている。ガロさんの観察は正確だった。私の帳簿も正確だ。そして今日、一通の手紙が仕上がって、封をされて、明日の出発を待っている。
それだけのことが、今日起きた。
その中に何があったかは——帳簿よりも、あの封筒の方がよく知っているかもしれない、と思いながら、私は石畳の通りを歩き始めた。




