第8話 棚卸しの夜
ギルドの扉に鍵をかけたのは、月明かりが石畳の西端に差し始めた頃だった。
棚卸しの夜だ。
月に一度、月末に行う作業がある。在庫の実数確認と、月次の帳簿照合、それから本部へ送る月次報告書の作成。日中は依頼対応で手が離せないから、夕方に受付を締めた後、静かに残ってやる。灰枝支部はカウンターが一つ、事務室が一つ、小さな倉庫が一つ。全部合わせても大きな建物の半分もない。棚卸し自体は二時間もあれば終わる。問題は、その後の数字の整理だ。
ランプに火を入れる。夜の事務室は、昼間とは少し違う顔をしている。窓の外に通りの灯りがなく、卓上のランプだけが明るい。棚と帳簿と書類の束が、影の中に並んでいる。
私はこの時間が嫌いではなかった。静かで、数字だけがある。
在庫確認から始める。倉庫に入り、棚の品を一つずつ数えていく。魔獣素材の標準品、乾燥薬草のまとめ売り用、修繕用の紐と縫い糸、書類の予備用紙。帳簿の在庫欄と照合する。ほとんどは一致した。蒼苔の乾燥品が二束多い。先月末の帳簿確認のときに記入漏れがあったものを、今月の受け取り時に処理したせいだ。備考欄に一行書き添えて、数字を修正する。棘鱗の端材が三枚少ない。鍛冶場のマルコに先週渡したのだが、書類の処理が後回しになっていた。これも修正する。
問題なし、というほどではないが、大きな齟齬はない。その程度の誤差は毎月ある。
倉庫を出て、事務室に戻る。
本番はここからだ。帳簿の棚から今月の記録簿を取り出す。分厚い。今月は少し忙しかった、とページをめくりながら思う。取引件数が先月より多い気がする。気がする、ではいけないので数えた。百四十二件。先月は百二十七件だった。十五件の増加。
数字を拾い出し、集計表の欄に書き込んでいく。
買取総額。依頼完了件数。新規登録者数。越境通行証の発行件数。本部への問い合わせ件数。個々の数字を出し、月次報告書の所定の欄に転記する。単純な作業だ。頭の半分はそちらに使いながら、もう半分は今月を振り返っている。
蒼苔の買取が増えた月だった。ヨルさんの沢筋の件から始まって、後に続くように中層手前の採取記録が増えた。一件ずつは小さいが、産地の内訳を見ると、縁だけでなく中層手前を含む記録が全体の三割を占めている。先月は二割だった。
私は集計表の「採取産地・内訳」の欄に数字を書き込みながら、少しだけ手が止まった。
先月も先々月も、同じ内訳を書いてきた。今年の初めを遡れる範囲で見返してみると——去年の同時期は、中層手前の比率が一割台だった。
気候のせいかもしれない。今年は春先の気温が高くて、縁の採取物の生育が早かった。早く採れすぎたために、冒険者たちが少し奥へ移動した、という説明は成り立つ。
ただ。
私は集計表を横に置いて、棚から去年の同時期の月次報告書を引っ張り出した。ほこりがついていた。ここまで遡って見返すことはあまりない。
数字を見比べる。
去年の今頃、越境通行証の発行件数は月に一、二件だった。今月は五件。ユーリたちの件が一件、後の四件は別の冒険者だ。デルガに向かうパーティが増えている。去年の月次報告書の備考欄には、私の前任者の字で「越境通行証 本年0件」と書いてあった。
ページをめくる。
遺物関連の提出・鑑定依頼。去年の同時期は月に七件。今月は十八件。倍以上だ。一件ずつを見ると、どれも小さな遺物で、不審なものはない。遺跡の端材、装飾の欠片、用途不明の金属小物。冒険者がついでに拾ってくる程度のものだ。だが、件数が増えている。
私は集計表に目を戻した。
デルガ支部からの問い合わせも増えている。ユーリたちを送り出してから——引き継ぎ書類に添えた私の所見に対して、丁寧な返信が来た。それだけでなく、別件でも照会が二件あった。どちらも「灰枝方面で採取された特定素材の確認」という内容で、事務的な問い合わせだ。ただ、去年の月次報告書には「デルガ支部より問い合わせ 0件」と書いてある。
それから、登録者数。今月の新規は四人。去年の同時期は一人だった。辺境の支部に、見知らぬ顔が増えている。
ランプの油がわずかに揺れた。窓の外で夜風が動いた。
私はペンを置いて、集計表を眺めた。
どの数字も、単体では説明がつく。気候の変化で採取エリアが移った。成長の早い新人パーティがデルガに向かった。フィオナが良い薬草を定期的に持ち込むようになって、ギルドの薬草取引がわずかに活発になった。聖騎士が通過した記録が一件。魔獣の移動パターンが例年と少し違う。
一つ一つの出来事には、それぞれの理由があった。私は全部見ていた。全部、帳簿に書いた。
だが——
私は集計表に書き込んだ数字を、指でゆっくり上からなぞった。
採取産地が奥にずれている。遺物の提出が増えている。越境通行証が増えている。デルガからの問い合わせが増えている。新規登録が増えている。
並べると、全部が同じ方向を向いている。
樹海の奥へ。遺跡へ。デルガへ。
何かが、そちらに引っ張っている。
私は月次報告書の「特記事項」の欄を開いた。本部への報告書に書く欄だ。例月は「特記事項なし」で済ませることが多い。今月は何を書くべきか、少し考えた。
数字の集計は正確だ。各欄の数字には根拠がある。在庫の増減も、取引件数も、問題なく書ける。
ただ、「なぜ」の部分が書けない。
私は受付嬢だ。灰枝支部の、カウンターに座っている人間だ。帳簿に書かれたことは全部知っている。帳簿に書けないことは——フィオナが聖騎士の話で顔色を変えたこと、ユーリの探知能力がどこまで伸びるかということ——そういうことも含めて、私が見える範囲のことは知っている。
だが、デルガで何が起きているかは知らない。遺物の流入が全体として増えているのか、それとも灰枝周辺だけの話なのかも知らない。聖騎士が巡回ルートを変えた理由も、樹海の奥で何が動いているかも、本部がどこまで把握しているかも——何も知らない。
私の帳簿は、灰枝の窓から見えた部分しか写していない。
特記事項の欄に、私はゆっくりと書いた。
「遺物関連提出件数・前年同期比157%。越境通行証発行件数・前年同期比250%。採取産地の内訳に変化あり(中層手前の比率増加)。デルガ支部からの照会件数増加。いずれも単独では問題なし。傾向として記録」
それだけだ。それ以上は書けない。「なぜ」を書くには、私の持っている情報では足りない。
帳簿は正直だ。書いてあることは全部本当だ。でも、帳簿に書いてあることが全部じゃない、ということを——初めて、少しはっきりと感じた。
今まで考えなかったわけではない。書類の仕事には必ず、「見えていないこと」がある。それは知っていた。ただ、今夜は数字を並べたせいで、その「見えていないこと」の輪郭が少しだけ大きく感じられた。灰枝の帳簿が写しているのは、ある一点から見た断片だ。横にデルガの帳簿が並んで、縦に本部の記録が重なって、それでも「全体」には届かないかもしれない。
ヨルさんの沢筋の蒼苔。あの重さと色から、縁の奥まで入り込んでいることを読んだ。それは正しかった。
中層に向かったパーティの棘鱗。産地の偽りを質感から見抜いた。それも正しかった。
ユーリの登録書に書いた所見。「探知能力・極めて高い」。今頃デルガでどうしているかはわからない。でも、あの目は本物だった。
フィオナの薬草の染み。軟膏の粒子の細かさ。聖騎士の宿泊届を処理したとき、あの人の顔がよぎった。それで、翌日に声をかけた。正しい判断だったと思う。帳簿には書けないが。
魔獣の移動パターン。地図上に並んだ目撃地点の直線。あれは読めた。数字を並べれば、樹海の息遣いが聞こえると思っていた。
でも。
今夜の数字は、息遣いどころか、もっと遠くの何かが動いているように見える。遠すぎて、私には音が届かない。
月次報告書を折りたたみ、本部宛の封筒に入れた。
明日、郵便の馬車に預ければいい。本部の誰かがこれを受け取って、集計して、おそらく灰枝以外の支部から来た報告書と照合する。全部を重ねれば、もっと違う絵が見えるかもしれない。あるいは、灰枝の数字は全体の中の小さな点で、特に意味をなさないかもしれない。
私にはわからない。
帳簿を閉じた。今月分の記録が、表紙の間に収まった。
ランプを持って、窓際に立つ。
灰枝の夜は静かだった。石畳の通りに人影はなく、道具屋の軒先の棘鱗の風鈴も、今夜は風がないのか鳴っていない。月明かりが屋根の端を白く縁取っていた。遠くで犬が一声だけ鳴いて、また静かになった。
いつもと同じ景色だ。何も変わっていない。
ただ、数字は静かではなかった。
私は少しの間そこに立っていた。帳簿に書けなかったものが、胸の中でゆっくりと形を変えながらある。不安、と言い切るほどはっきりしていない。でも、安心している、とも言えない。正確に言葉にするなら——自分の帳簿には正直に書いたが、それが世界の全部ではない、という認識が今夜、少しだけ厚みを持った——そういう感覚だ。
ランプを消す前に、もう一度集計表を見た。
並んだ数字は変わらない。帳簿の数字はいつも、書いた瞬間の真実だ。明日も誰かが来て、何かを持ち込んで、私はそれを帳簿に書く。一件ずつは小さい。でも、積み重なれば、また何かが見えてくる。今夜見えたような輪郭が、もっと鮮明になるかもしれない。あるいは、今夜の傾向が気候のせいだったとわかって、特に何でもなかったということになるかもしれない。
どちらにしても、私のやることは変わらない。正確に書くだけだ。
ランプを消した。
暗くなった事務室で、帳簿を棚に戻す。月次報告書の封筒を受付カウンターの端に置く。鍵を手に取る。倉庫の扉を確かめ、窓の錠を確かめ、カウンターの秤に布をかける。朝と同じ順番で、逆に閉めていく。
外に出ると、夜気が涼しかった。
鍵を回すと、木戸が軋んだ音を立てて閉まった。
石畳の通りを歩く。月明かりの中で自分の影が長く伸びた。骨材の柱に沿って、影が壁を這う。棘鱗の風鈴は夜の間は鳴らない。鍛冶場はとっくに火が落ちている。
灰枝は静かだ。
この静けさの下で、何かが少しずつ動いている。私の帳簿には、その断片が積み重なっている。明日もまた、誰かがカウンターに来て、新しい断片を持ち込む。
私はそれを受け取って、正確に書く。それが私の仕事だ。見えない全体のことは、今夜は考えてもわからなかった。でも——考えた、ということは残る。帳簿には書けないが、私の中には記録された。
路地を曲がる。宿の灯りが見えてくる。
明日は誰が来るだろう。
少し楽しみにしている自分に気づいて、小さく笑った。それからすぐ、笑った理由が今夜は少し違う気がして、笑ったまましばらく夜空を見上げた。
星が多かった。灰枝の夜は、いつもそうだ。




