第10話 紙の手触り
その男が灰枝支部に来たのは、午後の二時を少し回った頃だった。
扉を開ける前に一度立ち止まって、建物の表札を確認する仕草。初めて来た客が時々やる動作だ。私は帳簿から目を上げて、カウンター越しに待った。
「こちらが、冒険者ギルド灰枝支部でよろしいですか」
入ってきたのは、三十代半ばと思われる男だった。灰色の旅装、手入れされた革靴、肩掛けの鞄。冒険者というより商人に近い身なりだ。顔は日焼けしているが、肌の荒れ方が外仕事の人間のそれではない。馬車で移動することが多い人間の、やや不均一な日焼けだ。
「はい、灰枝支部です。本日はどのようなご用件でしょうか」
「遺物の買取依頼です。少し前にデルガで鑑定を受けてきまして」
男は鞄を開き、二つのものをカウンターに置いた。一つは布に包まれた拳大の物体、もう一つは封をされた書類だ。
「こちらが遺物本体と、デルガ支部の鑑定証明書になります」
私は書類の方を先に受け取った。
封は既に開いている。遺物の買取依頼においては、証明書は証明書そのものが確認の対象になる。中身を開いて確認するのは手続き上正当だ。男もそれをわかっていて、封を切った状態で持参している。慣れた取引の仕方だ。
書類を取り出す。
デルガ支部の鑑定証明書。縦長の用紙に、印刷と手書きが混在した形式。左上に支部の紋章、右下に鑑定者の署名と日付。
私はゆっくりと読み始めた。
記載された遺物の名称は「小型計測器(用途不明、樹海産推定)」。鑑定結果は「交易対象品として認定。呪術的危険性なし、物理的機能は限定的」。鑑定者の署名は「マルガ・ウェスト」。日付は二十日前。
私は書類を持ったまま、少し考えた。
デルガ支部からの書類は、月次の業務連絡で定期的に届く。様式見本が添付されることもあるし、照会の回答書もそうだ。灰枝支部のカウンターに届く書類の中では、デルガ支部のものが一番枚数が多い。フォーマット、用紙の重さ、印の押し方、署名の位置——全部、見慣れている。
この書類は、よく似ていた。
よく似ていた、が——
「遺物本体を見せていただけますか」
布の包みを開く。出てきたのは、長さが手のひら半分ほどの金属製の小さな筒だ。片端に小さなレンズのようなものが嵌まっていて、反対端には細い溝が一本走っている。持つと、ほんのわずかな温もりがある。遺物特有の残留感だ。
機能的には正常に見える。遺物としては珍しくない種類。デルガ方面の遺跡では、こうした小型の測定器具が出ることがある——そう、月次の技術報告書で読んだ記憶がある。
私はもう一度、鑑定証明書に目を戻した。
「少々お待ちください」
「もちろん」
男は鞄を脇に置いて、立ったまま待った。焦った様子はない。手慣れた客は、書類確認に時間がかかることを知っている。
私はカウンターの内側で、書類をランプの光にかざした。灯火台の方へ持っていき、そこで改めて見る。
用紙が、滑らかだ。
デルガ支部の書類は、通常、少し目の粗い紙を使う。公文書用の厚みのある紙で、指の腹で触れると微細な繊維の感触がある。これは——滑らかすぎる。書き心地のよい、品質の高い紙だ。悪い紙ではない。むしろ良い紙だ。でも、デルガの書式とは違う。
紋章の印影を見る。左上の支部紋章は、朱色の判だ。位置が、少し右に寄っている。ほんの指先ほどの話だ。目視でわかるかどうかのレベル。でも、デルガ支部の紋章は、様式見本によれば左端から一定の余白を取る位置に押される決まりがある。この書類の印は、その余白よりわずかに内側だ。
鑑定者の署名。「マルガ・ウェスト」。
デルガ支部の鑑定士の名前は、照会業務の中で何度か目にする。ヴェリン主任鑑定士、サルダ補佐、コウェル上席——名前を記憶しているわけではないが、馴染みのある組み合わせというものがある。「マルガ・ウェスト」は、聞き覚えがない。新任の可能性はある。二十日前というと、人事異動があり得る時期ではある。
ある。しかし——
私は書類を表に戻して、もう一度全体を眺めた。
様式の書体が、わずかに古い。デルガ支部は昨年末に書類の様式を更新したはずだ。新様式では見出し欄の書体が変わっている——月次の連絡書類で確認した。この鑑定証明書の見出し欄は、一年前の様式に近い。二十日前の日付が入っているのに、様式は古い。
そういうことは、ある。古いフォーマットのまま使い続けるケースはある。
ただ、一つ一つは「あり得る」で済ませられても、四つ重なると、それはもう別の話になる。
用紙の手触り。印の位置。署名の見慣れなさ。様式の古さ。
帳簿でいうなら、各欄の誤差が同じ方向に揃っていた。
「確認を取らせてください」
「確認、というと」
「デルガ支部に照会書を送り、この鑑定証明書の発行記録を確認します。お時間をいただくことになりますが」
男の表情が、わずかに変わった。変わったが、すぐに戻った。落ち着いた人間だ。
「デルガで正規に鑑定を受けてきたものです。問題はないはずですが」
「はい。遺物の品質を疑っているわけではありません」
私は書類をカウンターに置き、男の方を向いた。
「鑑定証明書の真贋が確認できるまで、帳簿に記入できません。これは灰枝支部の手続きです。証明書の発行記録が確認できれば、その時点で取引を進めることができます」
「しかしそれでは、いつになるか」
「照会書をデルガに送り、返答が来るまでの日数です。通常、三日から五日です。急ぎの場合は、デルガ支部に直接出向いて確認していただく方が早いかもしれません」
男は少しの間、黙っていた。
「わかりました」
最終的に男はそう言った。急いでいるそぶりを見せてから、すっと引いた。妙な引き方だ、とは思ったが、それは帳簿に書くことではない。
「照会の結果が出ましたら、こちらからご連絡します。お宿のお名前をお聞かせください」
「東の宿屋、『鉄板亭』に二日間おります。それ以降は別の町に移動しますので」
「では、二日以内に結果が出ない場合は、次の町のご連絡先を……」
「それは結構です。また灰枝に来る機会があれば、その時に」
男は書類と遺物を回収した。遺物を布で包み直して、鞄に収める。迷いのない動作だ。長居はしないと決めたのかもしれない。
「お手間をおかけしました」
「いいえ。確認が取れましたら、いつでもお越しください」
扉が閉まった。
私は帳簿を開いて、「照会書発行」の欄に今日の日付と内容を書いた。案件番号を振り、書類の控えを別のファイルにとじる。照会書の用紙を取り出して、デルガ支部宛に記入を始めた。
「鑑定証明書の発行記録照会。鑑定者名:マルガ・ウェスト。日付:(記載の二十日前の日付)。遺物名:小型計測器。照会事由:書類様式に複数の不整合点あり。確認を要請いたします」
丁寧な文体で書いた。今の段階では、これは「疑義がある」という連絡であって、断定ではない。正規の証明書である可能性は、まだある。
ただ、私はほとんど確信していた。
照会書を封に入れて、明日の郵便馬車に乗せる手配をする。デルガまで早くて二日、返答が来るまでに合わせて五日ほどかかる。男はその前に灰枝を出ると言っていた。
帳簿を閉じて、窓の外を見た。午後の通りに、男の背中はもうなかった。
――
返信が来たのは、六日後の朝だった。
郵便馬車が届けた封の中に、デルガ支部の紋章が入った書類があった。本物のデルガの紙だ。触れると、すぐわかる。あの、微細な繊維の感触。
開いて読む。
「照会いただいた件について回答申し上げます。当支部における当該日付の鑑定証明書の発行記録は確認できませんでした。また、マルガ・ウェストの名義を持つ鑑定士は当支部に在籍しておりません。該当する鑑定証明書の発行記録なし。現在、類似案件を調査中。詳細が判明次第、関係各支部へ連絡予定。灰枝支部のご確認に感謝いたします」
やはり。
私はその二文字を、声には出さずに思った。
予想はしていた。でも、文字で確認すると、少し重さが違う。「記録なし」。「類似案件を調査中」。複数形だ。今回だけではない。他でも同じことが起きている。
私は椅子に座って、返信書を机の上に置いた。
あの鑑定証明書を、私は疑った。四つの不整合が重なったから疑った。用紙の手触りが違った。印の位置がずれていた。署名の名前を知らなかった。様式が一年古かった。
一つだけなら、見逃したかもしれない。
二つでも、見過ごした可能性がある。
でも、四つ同じ方向に揃っていた。帳簿の誤差と同じだ。単発の記入ミスは訂正で済む。でも、同じ方向の誤差が積み重なっていたら、それは構造的な問題だ。
私はペンを取り、特別記録の欄を開いた。通常の帳簿とは別の、案件ごとの詳細記録を書くページだ。
「照会書発行日付、案件番号、照会内容、デルガ支部回答要旨:該当する鑑定証明書の発行記録なし。類似案件調査中とのこと。本件、要注意案件として記録。持参した男の人相書きを別紙添付」
人相書きは別紙に書いておいた。三十代半ば、灰色の旅装、肩掛け鞄、日焼け、革靴。来店時刻と服装の特徴。
これが今できることのすべてだ。調査はデルガが行っている。私には続きは見えない。
返信書を特別記録のページにとじた。
デルガ。
私はこれまで行ったことがない。遠い港町で、冒険者ギルドの大きな支部がある。月次の書類が来るから存在感はあるが、実際にどんな建物か、どんな人たちが働いているかは知らない。
そのデルガで、今、何かが起きている。
「類似案件を調査中」という言葉は、今回の鑑定証明書が一枚だけではないことを意味する。同じ手口で作られた偽の証明書が、複数出回っている。デルガの支部はそれを追っている。
偽の証明書を使って、何をしようとしているのか。
鑑定証明書は、遺物を安全に売買するための書類だ。「危険性なし、交易可能」と書かれていれば、ギルドを通じて一定の価格で取引できる。逆に言えば、証明書がなければ、あるいは証明書が偽物であれば、本来なら取引されるべきでない遺物が市場に流れる可能性がある。
呪術的危険性あり、と本当は判定されるべき遺物が、偽の「危険性なし」証明書をつけられて流通する。
あるいは、鑑定を受けていない素性不明の遺物が、正規品として売られる。
私にはまだ、全体の絵が見えない。あの男が持ってきた小型の筒が本当に何だったのかも、今となってはわからない。遺物を回収していない。帳簿には「取引不成立、照会中」としか書いていない。
ただ、灰枝支部で止まった。
それだけは確かだ。
私は窓の外の通りを見た。今日も石畳に陽が当たっていて、道具屋の軒先の棘鱗の風鈴が鳴っている。ヨルさんが沢筋の方から帰ってくる姿が見えた。鍛冶場の槌の音が聞こえる。灰枝はいつもと同じ一日だ。
デルガで「調査中」の案件が、この小さな支部にまで波紋を投げてきた。私はそれに気づいた。照会書を送った。証明書は偽物だと確認できた。
帳簿は、嘘をつかない。
数字を積み重ねれば、積み重なった形が見える。書類の細部を重ねれば、ずれた場所が浮かび上がる。見えないふりをしてしまえば、帳簿の上では何も起きなかったことになる。でも、見えたものは見えた。不整合は不整合だ。記録は記録だ。
私は特別記録のページを閉じて、通常の帳簿に戻った。
今日もまた、誰かが来る。素材を持ち込む人、依頼を張り出す人、書類の確認に来る人。一件ずつは小さい。全部を正確に書く。それが私の仕事だ。
デルガの「調査中」がどこに行き着くかは、私には見えない。でも、灰枝の帳簿には今日の記録が残る。小さな支部が、小さな偽書類を一枚止めた。その記録は、消えない。
ペンを定位置に置いた。インク壺の蓋を締める。
扉が開く音がした。
「すみません、蒼苔の買取はここで受け付けていますか」
顔を上げると、荷物を担いだ若い冒険者が入ってきた。初めて見る顔だ。
「はい、こちらでお受けします。数量と産地の申告をお願いします」
帳簿の新しいページを開いた。今日の最初の取引が始まる。




