夜に揺れる二つの影
別荘を出てしばらく、車内にはエンジンの低い振動音だけが響いていた。
夜の道は静かで、街灯がフロントガラスを一定のリズムで横切る。
光と影の帯が、ユキの表情をかすかに揺らした。
助手席のユキは窓の外を眺めていた。
眠っているようで、瞼は完全には閉じられず、微かに瞬きするたびに夜の光を吸い込む。
ロイドは横目で確認し、再び視線を前に戻す。
ハンドルを握る指先にわずかな力が入る。
「……ユキ」
名前を呼んだだけで、言葉は途切れた。
信号で車が止まり、赤い光が二人の間に落ちる。
「レイの家だが――」
そこまで言い、ロイドは言葉を切った。
言えば後戻りはできないと、自覚している声音だった。
ユキはゆっくりと瞬きをして、静かにロイドを見返す。驚きはない。
「……そろそろ、ですよね」
責めるでも、納得するでもなく、ただ事実を受け止めるような声。
ロイドは唇を噛み、短く息を吐く。
「私は……君を守りたい。……だが…家に置く事は…できない」
その声には、理性で押さえた不器用な誠実さが滲んでいた。
車は再び夜の道を進む。
ユキは窓の外へ視線を戻し、静かに頷いた。
住宅街に入ると、街灯の間隔が広がり、夜の静けさが濃くなる。
ロイドは指定された場所に車を停め、エンジンを切る。
途端に夜の気配が濃く、深く静かに流れ込む。
「……着いた」
ユキはシートベルトを外し、指先でドアノブに触れる。
少し躊躇したが、呼吸を整え、そっとドアを開けた。
夜風が頬に触れ、別荘での時間の名残をさらっていく。
「……ありがとうございました」
振り返らずに言おうとした言葉が、ついロイドの方に向かう。
運転席の彼は、いつもの整った顔でこちらを見つめていた。
目だけが、静かに揺れている。
「気をつけろ」
送り出すには簡素すぎる言葉。
ユキは小さく頷き、夜道を歩き出す。
数歩進んでも、背中に視線を感じながら振り返らずに歩く。
エントランスの扉を開き、明かりに目を細める。
自分の足音だけが響く共用部に、少しほっとした。
エレベーターを待つ間、無意識にロイドの上着の袖を握っていることに気づき、慌てて力を抜く。
返しそびれたそれが、今夜のすべてを物語っているようで、胸が少し痛む。
部屋の前に立つ。
鍵を取り出し開けようと手を伸ばしたところで、足音が聞こえた。
「……おかえり」
廊下の奥からレイが現れる。
スーツの上着は脱ぎ、ネクタイも緩めたまま。
ユキが何か言う前に、レイは自然に鍵を受け取り、扉を開ける。
「入れ」
短く、それだけ。
先に中へ入る姿は、まるで日常の延長のようだった。
部屋に入ると、光はいつも通りだが、ユキの心は少し落ち着かない。
靴を脱ぎ揃える動作ひとつひとつが現実を引き寄せ、別荘で見た海と星空が遠い夢のように思える。
「……先、シャワー浴びるか?」
レイの声。生活の延長の問いかけ。
「いえ……あとで」
声が掠れていることに気づく。
胸の奥に、別荘の空気がまだ残っている。
ソファに腰を下ろすと、ロイドの上着の感触が蘇る。
肩に残っていた重み、袖の匂い。
思い出しただけで、心臓が小さく跳ねた。
——選ばれて、そこにいた。
その事実がじわじわと効いてくる。
レイは何も聞かない。
踏み込まない距離感が、今は救いになった。
ユキは上着を膝に置く。
返すべきもの。
だが、今はまだ手放せない。
「……返すの忘れてしまって」
小さな声でかすかにつぶやく。
「そうか」
短く、素っ気ない視線の先に、夜の静けさだけが広がる。
夜は深く、カーテンの隙間から街の明かりが滲んでいる。
ユキは目を閉じる。
海の音はもう届かない。
でも、胸の奥には確かに残っていた。
恋とも呼べない、名前もつけられない余韻。
でも確かに感じた何かを胸に噛み締め、ユキは眠りについた。
夜は静かに深まっていった。
その頃、街の別の場所では、もう一人の「特別な夜」が動き出していた。
スーリンはラウンジ「マティーニ」からの帰路、薄暗い照明の裏路地で、数人の酔っ払いの男たちに絡まれる女性を見つけた。
酔っ払いの手つきは荒く、笑い声も下品だった。
「や、やめてください……!」
女性の声は震えていた。
必死に振りほどこうとする手は細く華奢で、力では到底敵わない。
「やめなさい、怖がってるわ」
スーリンは静かに酔っ払いたちの肩に手を置く。
男たちはそれでも邪魔するなと言わんばかりの目を向け、手を払いのける。
スーリンは優勢αとしての圧を纏ったフェロモンを漂わせ、鋭く睨んだ。
「手を引きなさい」
声は低く、けれど確実に相手の意識を支配した。
酔っ払いの男たちはためらい、やがて散り散りに去っていく。
カナリアは肩で息をしながら、スーリンを見上げた。
「……ありがとうございます…」
言葉が途切れる。
スーリンは胸の奥にある重みをそっと感じ取ると、カナリアの肩に手を置き視線を合わせる。
「…こんな時間に女性一人は危ないから。良かったら家まで送るわ?」
問いかけには、責めも助言も含まれていない。ただ、現実を見つめるための静かな確認。
助けられた女性は小さく震え、目を伏せる。
「家……もう、家にいられなくて……」
スーリンは沈黙する。
この子をラウンジで保護するかどうか――判断は簡単ではない。
ここでは、同じように行き場を失った女性を受け入れることもあった。
だが、それは彼女にとって本当に求めていることなのかわからない。
少し間を置き、スーリンは声をかける。
「…今日はもう遅いから、とりあえず店に来ない?暖かい飲み物でも飲んで、この後のことを考えましょう。あなた、名前は?」
まだ微かに震えの残る肩を抱きながら歩き出す。
助けられた女性は小さくつぶやく。
「ありがとうございます…私、カナリアっていいます」
「そう、いい名前ね」
店の裏口、閉じた鍵を開けて店に入る。
カナリアは何も言わず、ただスーリンに連れられカウンター席に座る。
その瞳には、恐れと少しの希望が混ざっていた。
奥で飲み物を準備しながら、スーリンは短くスマートフォンでメッセージを入れる。
(相談があるの、時間があればお店に来て?)
宛先はロイド。
夜は深く、街の灯りが二人の影を揺らす。
しかし、この静けさの先に待つ未来の一歩を、まだ誰も知らない。




