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愛の檻  作者: hanamizukiyume


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7/31

選ばれる前の夜

前日夕方

ロイドは通話を切ったあともしばらく、レイから借りたスマートフォンを手にしたまま動かなかった。画面はすでに暗くなっている。


これまで、女性と「約束して出かける」という行為をしたことがなかった。仕事の会食ならいくらでもある。

だが、誰か一人のために時間を空け、迎えに行くという経験はない。


「……レイ」


名を呼びかけてから、ロイドは一瞬言葉を飲み込んだ。


レイは気づいていたのか、視線も向けずに口を開く。


「……花が無難だ。食事は、一皿じゃない。種類は多めに少量で…あと――」


レイはロイドに向き直って口を開く。


「遅刻は…機嫌が悪くなる」


自信というより、他人の経験談だけを並べた声音だった。

ロイドはそれを否定も肯定もせず、ただ受け取る。


「……そうか」


それ以上、聞かなかった。

レイも説明を足さない。二人の間では、それで十分だった。

もっとも――

どちらも、女性との“デート”に慣れているわけではない。


翌朝。

ユキはレイのマンションの一室で、クローゼットの前に立ち尽くしていた。服が少ない。


仕事用のパンツばかり。

スカートは一着もない。

ロイドに「予定を空けておけ」と言われたとき、服装のことまでは考えていなかった。


気づけば、迎えの時間まであと一時間もない。

迷った末、ユキは白のシンプルな丸襟のブラウスに、形のきれいなキャラメル色のスラックスを選んだ。


無難――それしか、選択肢がなかった。 


リビングに出ると、レイがコーヒーを飲みながら本を読んでいる。

顔も上げずに、ひと言。


「……下に来てるぞ」


ユキは時計を見る。

まだ九時、早すぎる到着の知らせだった。


「え……?」


半信半疑のまま、ユキはロビーへ向かった。

正面道路の向こう、コンビニの前。

ひときわ目立つ黒のセダンが停まっている。


まさか、と思いながら近づくと――

黒いシャツに身を包み、薔薇の花束を手にしたロイドが立っていた。


通りがかる女性たちが、視線を送っている。

ユキは思わず足を止めた。

コンビニの自動ドアが開いた音に気づき、ロイドがこちらを見る。

その表情が、わずかに緩んだ。


「もう来たのか」


「……レイさんに、もういるって聞いて」


レイの名に、ロイドの眉が一瞬だけ寄る。

何も言わずにユキの前に立つと手に持った花束を差し出す。


「あの……このお花……」


「……一般的に花がいいと聞いた」


困惑混じりの真剣さに、ユキは言葉を失う。


「……そう、ですね?」


受け取ると、ロイドは何も言わず助手席のドアを開けた。


走り出した車内。

運転席のロイドが珍しく、ユキはつい見つめてしまった。

ユキが視線を向けていることに気づくと、余裕のある声音でロイドが言う。


「……惚れたか?」


「あっ…すみません、見慣れなくて……」


顔を真っ赤にするユキをロイドは横目で見ると、口角をわずかに上げた。


高速に入り、やがて海が見え始める。

ユキの表情が、少しずつ和らいでいく。

それを確かめるように、ロイドはハンドルを切った。

海沿いのカフェテラスにユキと並んで座る。

ロイドはメニューを見て、いくつも注文しようとする。

店員の戸惑いを感じ取ると、ユキが慌てて止めた。


「いえ、そんなに食べられないので…このパスタと、飲み物だけで」


ロイドは少しだけ不満げに言う。


「……色々、少しずつがいいと聞いたが」


「残したら、もったいないですから……」


ロイドはそれ以上言わない。

ただ海を見つめ、時折ユキの横顔に視線を向ける。

居心地は悪くない。

食事を終え、再び走り出す。

一時間ほど経ったところで車は静かに停まった。

ロイドが先に降り、助手席のドアを開ける。


「着いたぞ」


ユキは、まだ行き先も知らないまま、彼の手を見上げていた。


車を降りた瞬間、ユキは言葉を失った。


視界いっぱいに広がる海。

切り立った岩肌の先に建つ白いヴィラは、まるで風景の一部のように静かに佇んでいる。


海側は一面がガラス張りで、遮るものは何もない。波の音と、潮の匂いだけが、確かにここが現実だと告げていた。


「……ここは……?」


思わずこぼれた声に、ロイドは短く答える。


「私の別荘だ」


それ以上の説明はない。

室内に足を踏み入れると、外と内の境界はほとんど感じられなかった。


ガラス越しに続く海と空。

夕日がゆっくりと水平線へ沈み、室内まで淡い橙色に染めていく。


「……綺麗ですね」


ユキがそう呟くと、ロイドは少しだけ視線を向けた。


「夕方が一番いい。だから、この時間にした」


その言葉に、胸が小さく跳ねる。

“たまたま”ではない。

ロイドが選んだ時間で、ロイドが連れてきた場所なのだ。


「ここに人を連れてきたのは、君が初めてだ」


淡々とした声。

だが、それがどれほど特別な意味を持つのか、ユキにも分かってしまった。


何を言えばいいのか分からず、ユキはただ頷く。

ロイドはそれ以上語らず、扉を開けた。


「少し、歩くか」


砂浜は、人の気配がまるでなかった。

裸足で踏みしめる砂は、まだ昼の熱をわずかに残している。

波が寄せては返し、そのリズムが心拍と重なるようだった。


沈みかけた夕日が、二人の影を長く伸ばす。

しばらく、言葉はなかった。それでも不思議と、気まずさはない。


ロイドが立ち止まり、海を見つめたまま口を開く。


「……どうしてもここに、君と来てみたくなった」


ユキは息を飲む。


「君に、話しておくべきことがある。」


夕日が、完全に水平線に沈む。

空の色が、橙から群青へと移ろい始めた。


ロイドがぽつりと話し始める。


「昔――まだ子どもの頃だ」


ロイドは淡々と語る。

財閥の家に生まれ、期待と重圧の中、強く生きねばならなかったこと。

自分の感情は弱さにしかならなかったこと。


「そんな中で、一度だけ……助けられた」


ユキの指先が、無意識に強く握られる。


「名前も分からない少女だった。だが、彼女がいたから……私は、折れずに済んだ」


それは、誇張も感傷もない語りだった。

だからこそ、重い。


「……その後、再び会うことはなかった」


ロイドは、そこで一度言葉を切った。


「君を見たとき、最初に浮かんだのは……その記憶だった」


ユキの胸が、ぎゅっと締め付けられる。


「重ねていたのは、事実だ」


正直な言葉だった。

逃げも、誤魔化しもない。

ユキは、俯いたまま口を開く。


「……私は、記憶がありません」


震える声。


「だから……その人が、私だとは言えません」


少し間を置き、絞り出すように続けた。


「……でも……そうだったら、いいのにって……思ってしまいました」


自分でも驚くほど、弱い本音だった。

言ってはいけないと思っていた気持ちが、波音に溶けるように零れ落ちる。


ロイドは、すぐには答えなかった。

星が、一つ、また一つと空に現れる。


やがて、低く静かな声が落ちた。


「……たとえ違っていたとしても…」


ユキは顔を上げる。 


ロイドは、初めて真正面からユキを見る。


「過去ではなく、今の君を見ている」


その言葉は、優しさではなく――選択だった。


「…考えたんだ。ここに君と来たいと。」


胸の奥で、何かがほどける音がした。


「……私も」


ユキは、ゆっくり息を吸う。


「怖かった。でも…離れたくなくて…」


ロイドは一瞬、目を伏せる。


そして、ためらいなくユキの手を取った。

その温もりは、確かで、現実だった。


波の音と、星空に包まれた、二人だけの世界。

ここで交わされた言葉は、まだ名前のない何か。


夜は、思ったよりも早く深まっていた。

潮の匂いを含んだ風が、昼の熱をすっかり奪い、肌に触れるたびひんやりとする。

星は驚くほど近く、空いっぱいに散らばっていた。


「……寒くないか」


ロイドの低い声に、ユキは一瞬迷ってから小さく頷いた。


「少しだけ」


言葉を選んだつもりだったが、声は正直だった。

ロイドは何も言わず、静かに羽織っていた上着を脱ぐ。

それをユキの肩に掛ける動作は、驚くほど自然だった。 


「ありがとうございます…」


袖に顔を埋めると、かすかにロイドの匂いがした。

安心する匂いだ、と思ってしまって、慌ててその考えを振り払う。


二人は、並んで砂浜に腰を下ろす。

触れそうで触れない距離。


「……星、綺麗ですね」


ユキが空を見上げたまま言う。


「ここは、夜が一番静かだ」


ロイドも同じ空を見ていた。

言葉は少なく、それでいて十分だった。

波の音が、規則正しく耳に届く。

星が瞬くたび、時間がゆっくり溶けていくようだった。


ユキは、無意識のうちに上着の裾を握る。

その小さな動きに、ロイドが気づく。

だが、何も言わない。

手を伸ばすことも、距離を詰めることもしない。


それでも――ユキは確かに感じていた。

この人の隣に…ここに居たいと。

ロイドもまた、星空を見上げたまま何も言わなかった。

やがて、風が少し強くなる。


「……中に入るか」


「はい」


立ち上がるとき、ロイドは自然にユキの歩調に合わせた。

夜のヴィラへ戻るガラス越しに、星と海がいつまでも続いている。


この夜は、何も起こらない。

けれど――

二人の間に、言葉にできない何かが生まれた夜だった。


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