選ばれる前の夜
前日夕方
ロイドは通話を切ったあともしばらく、レイから借りたスマートフォンを手にしたまま動かなかった。画面はすでに暗くなっている。
これまで、女性と「約束して出かける」という行為をしたことがなかった。仕事の会食ならいくらでもある。
だが、誰か一人のために時間を空け、迎えに行くという経験はない。
「……レイ」
名を呼びかけてから、ロイドは一瞬言葉を飲み込んだ。
レイは気づいていたのか、視線も向けずに口を開く。
「……花が無難だ。食事は、一皿じゃない。種類は多めに少量で…あと――」
レイはロイドに向き直って口を開く。
「遅刻は…機嫌が悪くなる」
自信というより、他人の経験談だけを並べた声音だった。
ロイドはそれを否定も肯定もせず、ただ受け取る。
「……そうか」
それ以上、聞かなかった。
レイも説明を足さない。二人の間では、それで十分だった。
もっとも――
どちらも、女性との“デート”に慣れているわけではない。
翌朝。
ユキはレイのマンションの一室で、クローゼットの前に立ち尽くしていた。服が少ない。
仕事用のパンツばかり。
スカートは一着もない。
ロイドに「予定を空けておけ」と言われたとき、服装のことまでは考えていなかった。
気づけば、迎えの時間まであと一時間もない。
迷った末、ユキは白のシンプルな丸襟のブラウスに、形のきれいなキャラメル色のスラックスを選んだ。
無難――それしか、選択肢がなかった。
リビングに出ると、レイがコーヒーを飲みながら本を読んでいる。
顔も上げずに、ひと言。
「……下に来てるぞ」
ユキは時計を見る。
まだ九時、早すぎる到着の知らせだった。
「え……?」
半信半疑のまま、ユキはロビーへ向かった。
正面道路の向こう、コンビニの前。
ひときわ目立つ黒のセダンが停まっている。
まさか、と思いながら近づくと――
黒いシャツに身を包み、薔薇の花束を手にしたロイドが立っていた。
通りがかる女性たちが、視線を送っている。
ユキは思わず足を止めた。
コンビニの自動ドアが開いた音に気づき、ロイドがこちらを見る。
その表情が、わずかに緩んだ。
「もう来たのか」
「……レイさんに、もういるって聞いて」
レイの名に、ロイドの眉が一瞬だけ寄る。
何も言わずにユキの前に立つと手に持った花束を差し出す。
「あの……このお花……」
「……一般的に花がいいと聞いた」
困惑混じりの真剣さに、ユキは言葉を失う。
「……そう、ですね?」
受け取ると、ロイドは何も言わず助手席のドアを開けた。
走り出した車内。
運転席のロイドが珍しく、ユキはつい見つめてしまった。
ユキが視線を向けていることに気づくと、余裕のある声音でロイドが言う。
「……惚れたか?」
「あっ…すみません、見慣れなくて……」
顔を真っ赤にするユキをロイドは横目で見ると、口角をわずかに上げた。
高速に入り、やがて海が見え始める。
ユキの表情が、少しずつ和らいでいく。
それを確かめるように、ロイドはハンドルを切った。
海沿いのカフェテラスにユキと並んで座る。
ロイドはメニューを見て、いくつも注文しようとする。
店員の戸惑いを感じ取ると、ユキが慌てて止めた。
「いえ、そんなに食べられないので…このパスタと、飲み物だけで」
ロイドは少しだけ不満げに言う。
「……色々、少しずつがいいと聞いたが」
「残したら、もったいないですから……」
ロイドはそれ以上言わない。
ただ海を見つめ、時折ユキの横顔に視線を向ける。
居心地は悪くない。
食事を終え、再び走り出す。
一時間ほど経ったところで車は静かに停まった。
ロイドが先に降り、助手席のドアを開ける。
「着いたぞ」
ユキは、まだ行き先も知らないまま、彼の手を見上げていた。
車を降りた瞬間、ユキは言葉を失った。
視界いっぱいに広がる海。
切り立った岩肌の先に建つ白いヴィラは、まるで風景の一部のように静かに佇んでいる。
海側は一面がガラス張りで、遮るものは何もない。波の音と、潮の匂いだけが、確かにここが現実だと告げていた。
「……ここは……?」
思わずこぼれた声に、ロイドは短く答える。
「私の別荘だ」
それ以上の説明はない。
室内に足を踏み入れると、外と内の境界はほとんど感じられなかった。
ガラス越しに続く海と空。
夕日がゆっくりと水平線へ沈み、室内まで淡い橙色に染めていく。
「……綺麗ですね」
ユキがそう呟くと、ロイドは少しだけ視線を向けた。
「夕方が一番いい。だから、この時間にした」
その言葉に、胸が小さく跳ねる。
“たまたま”ではない。
ロイドが選んだ時間で、ロイドが連れてきた場所なのだ。
「ここに人を連れてきたのは、君が初めてだ」
淡々とした声。
だが、それがどれほど特別な意味を持つのか、ユキにも分かってしまった。
何を言えばいいのか分からず、ユキはただ頷く。
ロイドはそれ以上語らず、扉を開けた。
「少し、歩くか」
砂浜は、人の気配がまるでなかった。
裸足で踏みしめる砂は、まだ昼の熱をわずかに残している。
波が寄せては返し、そのリズムが心拍と重なるようだった。
沈みかけた夕日が、二人の影を長く伸ばす。
しばらく、言葉はなかった。それでも不思議と、気まずさはない。
ロイドが立ち止まり、海を見つめたまま口を開く。
「……どうしてもここに、君と来てみたくなった」
ユキは息を飲む。
「君に、話しておくべきことがある。」
夕日が、完全に水平線に沈む。
空の色が、橙から群青へと移ろい始めた。
ロイドがぽつりと話し始める。
「昔――まだ子どもの頃だ」
ロイドは淡々と語る。
財閥の家に生まれ、期待と重圧の中、強く生きねばならなかったこと。
自分の感情は弱さにしかならなかったこと。
「そんな中で、一度だけ……助けられた」
ユキの指先が、無意識に強く握られる。
「名前も分からない少女だった。だが、彼女がいたから……私は、折れずに済んだ」
それは、誇張も感傷もない語りだった。
だからこそ、重い。
「……その後、再び会うことはなかった」
ロイドは、そこで一度言葉を切った。
「君を見たとき、最初に浮かんだのは……その記憶だった」
ユキの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「重ねていたのは、事実だ」
正直な言葉だった。
逃げも、誤魔化しもない。
ユキは、俯いたまま口を開く。
「……私は、記憶がありません」
震える声。
「だから……その人が、私だとは言えません」
少し間を置き、絞り出すように続けた。
「……でも……そうだったら、いいのにって……思ってしまいました」
自分でも驚くほど、弱い本音だった。
言ってはいけないと思っていた気持ちが、波音に溶けるように零れ落ちる。
ロイドは、すぐには答えなかった。
星が、一つ、また一つと空に現れる。
やがて、低く静かな声が落ちた。
「……たとえ違っていたとしても…」
ユキは顔を上げる。
ロイドは、初めて真正面からユキを見る。
「過去ではなく、今の君を見ている」
その言葉は、優しさではなく――選択だった。
「…考えたんだ。ここに君と来たいと。」
胸の奥で、何かがほどける音がした。
「……私も」
ユキは、ゆっくり息を吸う。
「怖かった。でも…離れたくなくて…」
ロイドは一瞬、目を伏せる。
そして、ためらいなくユキの手を取った。
その温もりは、確かで、現実だった。
波の音と、星空に包まれた、二人だけの世界。
ここで交わされた言葉は、まだ名前のない何か。
夜は、思ったよりも早く深まっていた。
潮の匂いを含んだ風が、昼の熱をすっかり奪い、肌に触れるたびひんやりとする。
星は驚くほど近く、空いっぱいに散らばっていた。
「……寒くないか」
ロイドの低い声に、ユキは一瞬迷ってから小さく頷いた。
「少しだけ」
言葉を選んだつもりだったが、声は正直だった。
ロイドは何も言わず、静かに羽織っていた上着を脱ぐ。
それをユキの肩に掛ける動作は、驚くほど自然だった。
「ありがとうございます…」
袖に顔を埋めると、かすかにロイドの匂いがした。
安心する匂いだ、と思ってしまって、慌ててその考えを振り払う。
二人は、並んで砂浜に腰を下ろす。
触れそうで触れない距離。
「……星、綺麗ですね」
ユキが空を見上げたまま言う。
「ここは、夜が一番静かだ」
ロイドも同じ空を見ていた。
言葉は少なく、それでいて十分だった。
波の音が、規則正しく耳に届く。
星が瞬くたび、時間がゆっくり溶けていくようだった。
ユキは、無意識のうちに上着の裾を握る。
その小さな動きに、ロイドが気づく。
だが、何も言わない。
手を伸ばすことも、距離を詰めることもしない。
それでも――ユキは確かに感じていた。
この人の隣に…ここに居たいと。
ロイドもまた、星空を見上げたまま何も言わなかった。
やがて、風が少し強くなる。
「……中に入るか」
「はい」
立ち上がるとき、ロイドは自然にユキの歩調に合わせた。
夜のヴィラへ戻るガラス越しに、星と海がいつまでも続いている。
この夜は、何も起こらない。
けれど――
二人の間に、言葉にできない何かが生まれた夜だった。




