初日、予期せぬ邂逅
朝――レイの家で
ユキは、包丁の軽いリズムと温かなスープの香りで目を覚ました。
見慣れない天井を見上げようやく思い出す。ここはレイの家だ。
リビングに向かうとレイが振り返りもせず言う。
「起きたなら、顔を洗ってくるといい」
テーブルには、目玉焼きのせトースト、具だくさんスープ、サラダ。
そっけない言葉とは裏腹に、一つ一つ丁寧に作られており、食欲をそそる。
ユキは礼を言い、身支度を整えて席についた。
――この人、案外いい夫になるのかも。
ふと、そんな考えが胸をよぎる。
食後、レイはコートを羽織り、淡々と告げる。
「俺はロイドを迎えに行く。君は支度を済ませて待て。後で迎えに来る」
それだけ言い残して家を出た。
残されたユキは途方に暮れるが、部屋にはすでに“ユキ用”のスーツ、バッグ、メイク道具が整えられていた。
合理的な優しさ――レイらしい気遣いだった。
ネイビーのスーツに袖を通すと、わずかに大きいが形が良く、ユキの華奢な身体に予想以上にしっくりくる。
玄関で気合いを入れようと頬を叩いた瞬間、ドアが開いた。
「……何してる」
バツの悪そうなユキを横目に、レイは淡々と告げた。
「行くぞ」
車内――必要最小限の指示
車が走り出すと、ルームミラー越しにレイの視線が落ちる。
「今日から君は“俺の秘書”だ。不安に思う必要はない」
淡々としているのに、なぜか落ち着く声音。
「覚えるのは三つだけ。
一つ、俺のスケジュール管理。
二つ、各部署との連絡調整。
三つ、ロイドが絡む案件は必ず俺を通すこと」
ユキがメモを取り出すと、レイは口角をわずかに緩めた。
「今はいい。まずは流れを見ろ。焦らなくていい」
短い言葉だが、確かに安心感があった。
本社ビル――“秘書”としての盾
巨大な本社ビルが朝日を反射して光る。
レイは役員専用エリアに車を停め、言う。
「まずは挨拶回りだ。君が俺の秘書である限り、余計な心配は不要だ」
“守る”という宣言でもあった。
各フロアを回るたび、社員たちはレイを見ると表情を引き締める。
「今日から俺の秘書になるユキだ。必要があれば直接連絡してくれ」
簡潔な言葉に、レイの信任がそのままユキへの信用として社内に伝わる。
何度か会釈を返しながらも、ユキの胸はそわそわして落ち着かない。
役員フロア――ロイドとの邂逅
午前十時前。静かな廊下に、革靴の足音が響く。
振り返ると、黒いコートを片手に重役を従えるロイド。
その存在だけで周囲の空気が変わる。
レイが一歩前に出る。
「ロイド様、お戻りでしたか」
ロイドは小さく頷き、ユキを見た。
ほんの一瞬だけ瞳が柔らぎ、声もかけず、触れもしない――ただ“無事でよかった”という視線を向ける。
ユキは足をわずかに止めた。
ロイドの眼差しから感じる優しさに、昨日のやり取りがまるで嘘かのように冷えた心を温める。
背後で女性社員たちがざわめく。
「ロイド様、今……」
「優しい目?」
「いやいや、そんなわけないでしょ……」
その時、レイが足を止め、鋭く声を響かせる。
「無駄話も私の秘書への憶測も不要です。ここは会社なので、評価は仕事でしてください」
ざわめきは一瞬で消える。
ロイドは振り返らない。
レイが適切に制していることは理解していた。
夕刻――帰宅後の騒動
その日、ユキは順調に業務をこなし、レイからマンションの鍵を受け取る。
「先に上がれ」
感謝と挨拶をして帰宅するユキ。しばらくすると、静かに部屋の扉が開き、ロイドが書類を置いた。
「会社での業務は終わった。今日はレイ…お前の家によるつもりだ」
命令というより、ユキに会いたい気持ちを隠せない子供のようだった。
レイは返事を飲み込み、黙って鍵を取る。
止めても行くのは目に見えている。
帰路の車内、沈黙が続く。
ロイドは珍しく落ち着かず、膝上の指先を静かに叩いていた。
それは彼が焦りを隠せないときだけに見せる僅かな癖。
それを見た瞬間、レイはほんのわずかに眉を寄せた。
ユキの“家出”は、ロイドに想像以上の精神的苦痛を与えたらしい。
家に着くとロイドは当然のように靴を脱ぎ、短く「借りるぞ」と告げ、洗面所へ向かう。
レイはそのまま荷物を置きに書斎へ行こうとした。
その瞬間、ユキの控えめな悲鳴が聞こえた。
「――――っ!?」
「……っ!」
水音と、短い悲鳴。 レイは振り返った。
洗面所のドアはわずかに開いている。
そこから出てきたロイドは微かに耳が赤く染められていた。
レイはゆっくりと眉を上げ、ロイドの出てきた洗面所のわずかな隙間に目を向ける。
そこには慌ててタオルを巻いたであろう、茹でダコのように真っ赤な顔で固まっていたユキがいた。
状況を把握したレイは、どこか楽しんでいるような声音でいう。
「何があったか聞いた方がいいか?」
ロイドは、明らかに冷静を装った声で言う。
「…聞くな」
ロイドは咳払いし、視線を逸らしながら続けた。
「……お前の部屋で仕事をする」
レイの書斎にてーーロイドの問い
資料を渡した後、ロイドは視線を落としぽつりと言った。
「……レイ、私がいない間に、変な真似はしていないだろうな?」
レイは一瞬沈黙し、静かに答える。
「…ふざけてるのか?」
何も返さないロイドを横目にレイは続ける。
「安心しろ。その方面で、私が越える線はない」
ロイドは眉をひそめる。
「…何も言っていないが」
「どうだかな」
レイの声は淡々としているが、確かな誠実さがあった。
ユキの寝室ーー羞恥と空腹
ユキは自室に戻ると、ベッドに顔を埋めて叫ぶ。
「~~~っ!!!」
風呂上がりにロイドと鉢合わたことを思い出すだけで呼吸が止まる。
よりにもよってあのタイミングでお風呂から上がってしまった自分の運の悪さを恨まずにはいられなかった。
抑えきれない羞恥に体を緩く振るわせる。
すると控えめなノックと共に、レイが声をかける。
「ユキ、入るぞ。夕食の準備ができたんだが…食べるか?」
その瞬間、ユキのお腹が残酷なほど大きく鳴る。
「おいで」
レイはユキに気を遣いながらリビングへと促す。
テーブルにはレイの手料理が並んでいる。
ロイドはすでに席に座っていたが、ユキが入ると一瞬だけ視線を逸らした。
ユキは恐縮しながら椅子に座る。
ロイドはそっとユキに料理をとりわけた。
三人の間に、気まずい沈黙――しかしどこか温かい空気が流れる。
ユキがぽつりと漏らした。
「…あの、さきほどはすみません…」
ロイドは短く答える。
「謝る必要はない。あれは、私の確認不足だ」
ユキとロイドのやり取りを横目に見ながら、レイはふと目を伏せた。
くだらない騒ぎも、温かな食卓も。
こんな日々がロイドの当たり前になれば――それでいい。
静かに、ひっそりと願った。




