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愛の檻  作者: hanamizukiyume


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31/31

過去を置いて

それから、数年が経った。


ユキは小さな事務所の窓辺に立ち、

書類の束を一度だけ整えてから、鞄にしまった。


派手さはない。

けれど、迷いのない手つきだった。


窓の外では、季節外れの雪が舞っている。

この街では珍しい、淡く、すぐに溶ける雪。

誰かが


「寒いですね」


と声をかける。


「ええ」


ユキはそう答えて、微かに笑った。


左手は、空いている。

埋めるつもりのない場所だった。


休憩時間、ユキはスマートフォンを取り出し、

メモ欄を一度だけ開く。


そこには、短い一文が残っていた。


――生きろ。


補足も説明もない、ただのメモ。

それでも消さずに、彼女はその画面を閉じた。


仕事に戻る。

今日中に終わらせるべき案件がある。

約束も、帰る場所も、確かにここにある。


ユキはもう、振り返らない。

それでも、雪が降るたび、

ほんの一瞬だけ立ち止まり、

白くなる空を見上げる。


そして必ず、前を向いて歩き出す。

彼が選ばなかった「生」を、

今度は彼女が、自分の意思で生きている。


一方、カナリアは静かな部屋に一人いた。

レイは相変わらず忙しく、

休日でも仕事に出ることが増えていた。


ロイドの仕事を引き継いだことで、

彼の背負うものは、目に見えないほど重くなっていた。


テーブルの端に置かれた一冊のノートが、

ふと目に入った。


無地の、少し使い込まれたもの。

触れてはいけないと、一瞬だけ思った。

それでも、指先が先に動いていた。


開いた瞬間、カナリアは理解してしまった。

これは業務記録ではない。


レイの中に溜まっていった苛立ちと疲弊が、

整理されるために書かれたノートだと。


人の名前。

出来事。

評価。


整然としているのに、どこか荒れている文字。

合理で感情を押さえつけようとする、

必死さがにじんでいた。


数行読むだけで分かった。

これは、レイの「イライラが募ったノート」だ。


吐き出す場所がなくなった感情を、

ここにだけ置いていたのだと。


だが途中で、記述は唐突に途切れていた。

忙しさではなく、

もう言葉にできなくなった瞬間が、そこにあった。


そして、最後のページ。

それまで一度も出てこなかった名前が、

そこにだけ記されていた。


ロイド・ウィリアムズ

最適解


たったそれだけ。

評価でも戒めでも憧れでもある。

そして、何より、簡単には読み切れない深さを持っていた。


カナリアは胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。

この一言の裏に、どれほどの葛藤が詰まっているのか。

彼が誰にも見せずに背負う重さを、少しだけ理解した気がした。


そっと閉じて、元の場所に戻す。


読んでしまった後悔はあったが、

責めたいとは、思えなかった。


むしろ、彼が誰にも見せずに背負っている重さを、

少しだけ理解してしまった気がしていた。


同じ頃。


海外に移住してから、レイラは迷いなく前に進んでいた。


仕事の休憩で、カフェに立ち寄る。


人の流れの向こうに、

一瞬だけ、見覚えのある背中を見た。


すらりとした体躯。

背筋の伸びた立ち姿。

振り返らない歩き方。


――似ている。

ただ、それだけだった。


次の瞬間、

その姿は人混みに溶け、

もう見つけられなくなる。


レイラは立ち止まり、

しばらくそこを見つめていたが、

やがて何も言わず、歩き出した。


ロイド・ウィリアムズという名は、

もう、どこにも存在しない。


ただ世界のどこかに今日も、過去を持たない男が、

誰かの隣を通り過ぎているだけだ。


そしてそれぞれが、

誰かの選ばなかった「生」を、

自分の形で生き続けていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

未熟な表現や分かりにくい部分もあったかと思いますが、それでもこの物語に触れてくださったこと、心より感謝いたします。

最後まで読んでくださった方も、途中まで読んでくださった方も、この物語と時間を共有してくださったことが、何より嬉しいです。

重ねて、ありがとうございました。

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