本能と理性の狭間で
ロイドの理想と現実
あれからロイドとユキのあいだには、穏やかな空気が流れ始めていた。
朝、同じテーブルで食事をし、短い会話を交わす。
たったそれだけのことなのに、ロイドにとっては久しく味わっていなかった安らぎだった。
ユキもまた、彼の不器用な気遣いに少しずつ心を開き、微笑む時間が増えていく。
その小さな変化が、ロイドにとってどれほど貴重かをユキは知らない。
ロイドは柔らかな表情を浮かべたままレイの待つ車へ乗り込んだ。
その空気を断ち切るように、レイは書類を閉じながら静かに告げた。
「そろそろユキを“家に隠しておく”段階は終わりだ」
その声は柔らかいが、曖昧さのない刃のような響きを持っていた。
ロイドの手がごくわずかに止まる。しかし表情には何一つ出さない。
レイは続けた。
「医者も外出を促していた。それでも、財界の表に立つ君の家に、年頃の女性が出入りしているとなれば……必ず勘ぐる者が出る」
その言い方は、責めるのでもなく、揶揄するのでもない。ただ厳然とした事実を述べているだけだった。
ロイドは沈黙を保ったまま、低く呟くように返す。
「…ユキを手放せと?」
「そうは言っていない」
レイの声音は落ち着いていた。
「君が彼女を守りたいなら、“守れる形”に整えるべきだと言っているだけだ。今の状態は、あまりにも脆い」
しかしロイドの胸の奥を正確に射抜く言葉だった。
ロイドは返さない。
だがその沈黙は、レイには十分すぎるほど伝わっていた。
“正しいことが、ロイド自身の望みとは限らない”
車内は重く静まり返り、そのまま会社へと向かった。
レイの冷静な「裏の動き」
出社後、ロイドとレイはいつも通り冷静に仕事をこなした。しかし昼休憩に入ると、レイはすぐに人事部を訪ねる。
「人を一人、採用したい。ただし、俺の個人的な採用だ。手続きだけ進めてくれればいい」
経歴の条件を聞かれるが、
レイは「こちらで決めてある」と、淡々と答えた。
何かが起きてから動くのでは遅すぎる――レイの判断は冷静で迅速だった。
その日の夕方、レイはロイドより一足先に仕事を切り上げ、彼のマンションへ向かった。
玄関を開けると、ユキが不安げに立ち上がる。
「レイさん……?」
「少し話したいことがある」
レイは丁寧な動作でコートを預け、ユキに座るよう促す。
「記憶は戻らずとも、体調は整ったと医者から聞いたが、問題ないか?」
レイはロイドからの依頼で医者とのやりとりもこなていた。
ユキは頷きレイの言葉をまつ。
「ロイドと暮らして、彼の立場は君も理解していると思う」
その声は穏やかだが、曖昧な慰めは一切含まない。
「財界の表で動く彼にとって、“身元不明の女性を私的に保護している”という事実は、立場上問題がある」
ユキの表情が強張る。
「疑惑、憶測、中傷……。どれも避けようのないものだ。そして何より、ロイド自身の信用を損ないかねない」
事実だけを、冷静に積み上げていくが、レイの声は少しだけ和らいだ。
「君が悪いと言っているわけではない。ただ、今のままでは、君もロイドも傷つく未来しか見えない」
わずかに目を細め、静かに続けた。
「だから――私の秘書として働かないか。身元はフォード家が保証する。“ロイドの庇護下の女性”ではなく、“社会で認められる一人の人間”として」
レイはユキとロイドの関係を受け入れたからこそ、その提案には軽さが一切ない。2人の未来を作るための、慎重で思慮深い選択だった。
ユキは胸に込み上げるものを押し殺し、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。私に、できるでしょうか」
「できる」
断定する声だった。
「むしろ君には、それが必要だ」
レイは静かに続ける。
「あと……君はこの家を出るべきだ。当面の間は、私が面倒を見る。それが最も穏当で、安全な選択だ」
意外にも、そこには一欠片の迷いも感じられなかった。
ユキは小さく頷く。
「ロイドさんには……私から話します」
「そうするといい。君の言葉でなければ意味がない」
ぶつかる感情
やがて玄関が開き、ロイドが姿を現す。
レイを見るなり、その声は低く鋭くなった。
「……何をしている」
低い声には、怒りを抑える空気が纏う。
レイは立ち上がり、落ち着いたまま視線を返した。
「必要な話をしていた。ロイド、君のためでも、彼女のためでもある」
ロイドの眉がわずかに動いた。
ユキが急いで間に入る。
「ロイドさん……私、レイさんの秘書として働きます。そして……ここを出ようと思います」
ロイドの呼吸が乱れた。
「……誰がそんなことを」
一歩、ユキへ近づく。
「そそのかされたのか。レイ、お前――」
「違います。私が……自分で決めました!」
ユキの声が震える。
ロイドはユキを見つめたまま、ついに制御を失った。
「ユキ……お前は、俺が買ったんだ」
口に出した瞬間、ロイド自身の顔が苦痛に歪む。
ユキを尊重し見守る愛と自分だけが愛したい気持ちがぶつかる。独占と、保護と、愛情の矛盾。
どれも嘘ではないからこそ、彼の中で破裂した。
「……すまない」
短く、絞り出すように。そのまま背を向け、部屋を出ていった。
残されたユキと、レイの静かな言葉
ユキはその場に膝をつきかけた。胸の奥でロイドの言葉が反響する。
確かに自分は“助けられた存在”だった。ロイドの重荷にならないために選んだはずの道が、本当に正しかったのか。
そんなユキの肩に、レイがそっと手を置く。
「ロイドは理解している。頭ではこれが正しいと。ただ……心がそれを受け入れるには時間がかかる」
淡々とした声なのに、どこか深い優しさがあった。
ユキは小さく頷き、少ない荷物をまとめ、レイの家へ向かった。
罪悪感は消えない。
それでも――今はこの選択が最善だと信じるしかなかった。
レイのマンションは、都心から少し離れた静かな住宅街にあった。
玄関をくぐった瞬間、ユキの目を奪ったのは壁一面に広がる本棚。ジャンルも背表紙の色もばらばらなのに、不思議と整然とした雰囲気があった。
反対に、それ以外の家具は驚くほど簡素で、無駄がない。
ユキは自然と――こういうところがレイさんらしい、と感じた。
「部屋は空いてるところを好きに使うといい」
そう言われ、どこにしようか迷っていると、レイはふと視線だけでユキを見た。
「日当たり重視なら、そこだ。」
リビング横の部屋を指す声は淡々としていたが、“どうせ悩むだろうから”という、隠しきれない優しさが混ざっていた。
しかしユキは、胸の奥が少し痛くなる。
――また誰かの世話になっている。
自分が弱くて仕方がないように思えた。
その夜はやはり眠れず、ユキはそっと起き上がり、キッチンへ向かおうとして扉を開いた。
そこで、リビングで仕事を続けるレイの姿を見つける。
薄明かりの中、パソコンと資料に向かう背中。
その静かな緊張感が、どこかロイドを思わせた。
「眠れないのか。」
視線を向けることなく、レイは言った。声だけなのに、ユキがそこにいることを自然に把握している。
「すみません……邪魔してしまって」
そう言うと、レイは椅子から少し息を洩らしたように立ち上がり、キッチンへ向かった。
冷蔵庫からミルクを取り出し、黙って温める。
湯気の立つマグカップをユキの前に差し出す手は、思ったよりも柔らかかった。
「明日からは仕事だ。飲んでから寝るといい。」
ユキはその瞬間、ロイドが同じようにミルクをくれた夜を思い出し――
思わず小さく笑ってしまった。
困惑したように眉を寄せるレイからカップを受け取る。
「ありがとうございます…。飲んで、休みますね」
それだけ言って部屋に戻り、空になったカップをサイドテーブルへ置く。ユキは胸の奥に戻らない温もりを思いながら、やっと眠りについた。
***
その頃、ロイドは会社に戻り、問い合わせの処理を終えたところだった。緊急の内容ではない。
なのに、無駄に深いため息が漏れる。
そのとき、スマホが震えた。レイからの短い報告。
――ユキは移動済み。明日から業務にあたる。
その一文だけで、ロイドの握る手に自然と力が入った。
ユキが自立していくこと。
レイの秘書として働けば、以前より顔を合わせる時間も増えること。
本来なら、応援し喜ぶべきだ。
頭では分かっている。
だが、本能が拒む。
自分以外の誰かの下で働くユキ。
自立していくユキ。
自分から離れ、別の場所で生きるユキ。
胸がざらつき、落ち着かない。
自分の手元に置いてしまいたい。
自分だけのものにしておきたい。
触れるのも視線を向けるのも、自分だけであってほしい――
そんなαの欲望じみた感情が、ロイド自身を苛立たせた。
会社にいる気分ではなくなり、自宅へ戻る。
だが、ユキのいない部屋は、驚くほど冷えていた。
光は暖かいまま、空気だけが寂しさを帯びている。
ロイドは無言のまま、ユキがいつも座っていたソファの端に腰を下ろす。
まるでそこに残った体温を探すように。
静かな部屋に沈むように身体を預け、彼は朝まで眠れないまま時間を過ごした。




