戻れない場所で
ロイドの部屋は、静かすぎた。
一人で過ごしていた夜よりも、ずっと重い。
キッチンの明かりだけが点いていて、
彼は奥の部屋に入ったきり、出てこなかった。
同じ空間にいるのに、まるで別々の世界にいるみたいだった。
ソファに腰を下ろし、無意識に裾をつまむ。
ぎゅっと力を入れると、布が小さく歪む。
それだけで、少しだけ呼吸が整う気がした。
一人の夜は、寂しくても、まだ耐えられた。
でも今は違う。
すぐそこにいるのに、触れてはいけない距離がある。
「……変なの」
小さく呟いても、返事はない。
嬉しかったはずなのに。
会えたはずなのに。
どうしてこんなに苦しいのか、自分でも分からなかった。
もしかしたら、一人でいた時間は“待つ”ことができていたからかもしれない。
今は、答えがすぐそばにある気がして、それを聞く勇気だけがない。
胸の奥が、じわじわと痛む。
ロイドが何かを隠している。
それだけは、はっきり分かっていた。
そしてきっと――それを知ってしまったら、もう元の場所には戻れない。
ユキは目を閉じる。
願うように、祈るように。
「……お願い…違っていて…」
そう思った瞬間、もう、自分が何を恐れているのかを分かってしまっていることにも気づいてしまった。
目線が思わずロイドのいる部屋に向けられる。
もしそうなら、いやそんなはずない。
否定をすればするほど、ロイドを1人にしておくのが心苦しくなる。
でも、なんと声をかけるべきなのかわからない。
ドアノブに触れられる距離まで来ても、言葉が見つからない。
明日になれば、今日のことが嘘だったみたいに――
おはようって言ってくれるかもしれない。
コーヒーを飲みながら、2人で過ごせるかもしれない。
だから、また明日聞こう。
触れられないドアノブから離れて、ユキも自分の部屋に戻って行った。
*
朝の光は、思ったよりも柔らかかった。
カーテンの隙間から差し込む淡い色が、部屋の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせる。
キッチンから、カップの触れ合う音がした。
お湯を注ぐ、静かな音。
ユキは、胸の奥がほどけるのを感じた。
――あ、戻ってる。
リビングに出ると、ロイドがコーヒーを淹れていた。
昨日の夜の重さが嘘だったみたいに、穏やかな横顔。
「おはよう」
その一言で、少し泣きそうになる。
「……おはよう」
向かい合って座る。
湯気が上がるカップを両手で包む。
あたたかい。
現実に戻ってきた気がした。
少しだけ、他愛のない話をした。
天気のこと。
仕事のこと。
意味のない会話。
でも、どこか噛み合わない。
言葉が、心まで届いていない気がした。
ロイドは途中で立ち上がった。
「すぐ戻る」
その背中を、ユキは見送る。
テーブルに残された書類の束。
昨夜は気づかなかったが、その中に、小さなノートと一通の封筒が混ざっていた。
少し古びていて、角が柔らかくなっている。
触れてはいけない。
そう思うのに、視線が離れなかった。
ほんの少しだけ。
確認するだけ。
封筒を開くと、母の名前が書かれていた。
見慣れた文字。
心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
中には数枚の紙と、一枚の写真が挟まっていた。
写真を見た瞬間、呼吸が止まる。
知らない顔のはずなのに、どこか、あまりにも――近い。
目元。
眉の形。
口元の影。
ロイドの面影が、確かにそこにあった。
「……ロイド…さん?…」
偶然だ。
似ているだけ。
そう言い聞かせるのに、胸のざわめきが止まらない。
手記の文字が目に入る。
『この人から、あなたを守れたのなら』
『それだけで、私は救われる』
守る、という言葉が、今までと違う意味で胸に刺さった。
この人は、ユキの父親。
そして、母はこの人から逃げるように、ユキを連れて生きてきた。
ページをめくる指が、少し震える。
『優しい顔をしているから…』
『でも、あの目は、時々とても冷たい』
写真の中の男の目元に、ロイドと同じ静けさを見てしまって、胸が締めつけられた。
足音が聞こえて、ユキは慌てて封筒を閉じた。
でも、視線は無意識に、隣に積まれていた別の書類の束へと向いてしまう。
ロイドのものだと、すぐに分かった。
触れないつもりだった。
けれど、さっきの写真が、頭から離れない。
もし、偶然なら。
似ているだけなら。
ここで終わるはずだった。
一枚だけ。
確認するだけ。
書類の間から、写真が落ちた。
――同じ顔だった。
色も構図も違う。
少し若い。
けれど、間違いなく、同一人物。
心臓が、音を立てて崩れる。
偶然じゃない。
もう、否定できない。
母が「守った」と言った相手と、ロイドが何らかの形で関わってきた相手が、同じ人間だということ。
そして、ロイド自身が、その面影を持っているということ。
すべてが、一本の線で繋がってしまった。
足音が近づく。
ユキは写真を元の位置に戻し、何も見なかったふりをする。
ロイドが戻ってくる。
「どうした?」
ユキは、首を振る。
「……なんでも、ありません」
嘘だった。
でも、今はまだ、言えなかった。
コーヒーはまだ温かいのに、胸の奥だけが、氷みたいに冷えていた。
昨夜の「2人きりの孤独」は、気持ちの問題じゃなかった。
最初から同じ人間を中心にして、
同じ運命の中に、二人とも立っていたのだと、
ユキは、もう逃げられないと分かっていた。




