空席のままの時間
数週間後、会社はいつも通りだった。
エントランスの自動ドアは規則正しく開閉を繰り返し、受付には朝の挨拶が行き交っている。
コピー機の音、キーボードを叩く音、電話の呼び出し音。
どれも、ロイドがいた頃と何一つ変わらなかった。
ただ、一つだけ違っていた。
彼の席が、空いている。
書類も、私物も、必要最低限だけ持ち出されたようで、まるで少し席を外しているだけのように。
「今日はいない」という状態が、いつの間にか
「ずっといない」に変わっていることを、誰もはっきり口にしないまま。
ユキは自分のデスクでパソコンを開き、いつも通り業務をこなしていた。
メールに返信し、資料をまとめ、会議の準備をする。
手は止まらない。
声も、平静を保っている。
ただ、ときどき無意識に視線が向かう。
後ろの席。
誰も座っていない椅子。
そこに視線が触れるたび、胸の奥に小さな空白が生まれ、それを気づかないふりで押し戻すことを、何度も繰り返していた。
「ロイドから連絡は?」
昼前、レイが低い声でそう言った。
周囲に聞こえないよう、けれど冗談にするには少し真剣すぎる声だった。
ユキは一瞬だけ言葉を探し、それから首を横に振る。
「……ありません」
それ以上、何も続けなかった。
心配しているのか、信じて待っているのか、自分でもわからなかった。
レイは空席を一度だけ見てから、視線を戻した。
「長期休暇なんて聞いてないがな」
その言葉に、ユキは答えなかった。
数週間という時間は、「一時的な不在」と「異常」の境界線を、静かに越えていた。
それでも会社は動き続ける。
レイが仕事を引き継ぎ、穴を埋め、ロイドがいなくても、業務は滞りなく進んでいく。
それが現実だった。
けれどユキには、その「問題なく回っている世界」が、どこかひどく不自然に見えていた。
ロイドは、消えたのではない。
ただ、誰にも説明を残さず、この日常からすり抜けただけだ。
そのことが、なによりも不安だった。
夕方、ユキが席を立とうとしたとき、レイが声をかけた。
「この後予定あるか?」
ユキは少し考えてから、首を横に振る。
「特に……ありません」
「じゃあ、うちに寄っていけ。今日は一人で帰れる顔じゃない」
一瞬だけ、迷いが浮かんだ。
誰かの家に行く気分じゃないと思った。
でも同時に、ひとりで帰るのが、今日は少し怖かった。
「……はい」
短くそう答える。
レイの家の扉を開けるとカナリアがキッチンから顔を出して、ユキを見ると少しだけ微笑む。
「あれ?ユキちゃん、いらっしゃい。疲れてる顔してるね」
責めるでも、探るでもない声だった。
ユキは一瞬、戸惑ったように目を瞬かせた。
けれど、見慣れた顔だと気づいて、小さく息を緩めるように笑った。
「仕事、ちょっと立て込んでて」
それは嘘じゃなかったし、全部でもなかった。
カナリアはそれ以上聞かなかった。
ただ、カップを差し出して言った。
「温かいの、飲む?」
ユキは頷いて、受け取る。
その温度が、少しだけ胸に沁みた。
何も解決していない。
ロイドは戻ってきていない。
答えも出ていない。
それでも、誰かと同じ空間にいるというだけで、世界が完全に崩れていないことを思い出せた。




