否定を探す手
午後の光は、午前よりも少しだけ柔らかくなっていた。
ロイドは住宅街の一角にある小さな建物の前で立ち止まる。
白い外壁に、控えめな看板。
孤児院という言葉が持つ重さに反して、そこは驚くほど静かで、穏やかだった。
インターホンを押すと、ほどなくして中年の女性が顔を出した。
事情を話すと、彼女は一度だけロイドの顔を見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「少し、お待ちください」
通された応接室は、子ども用の低い机と、色あせた絵本が並ぶ場所だった。
壁には季節ごとの飾りが貼られていて、誰かの生活が積み重なってきた空気がある。
数分後、別の職員とともに、最初の女性が戻ってきた。
手には薄い封筒のようなものを持っている。
「お母様について、正式な記録はほとんど残っていません。ただ……」
言葉を選ぶように、一度息を整える。
「当時、職員の一人が預かっていたものがあります。処分するにも忍びなくて、長い間、ここで保管されていました」
封筒は、時間を吸い込んだように少し黄ばんでいた。
ロイドは両手でそれを受け取る。
「中を、見てもいいですか」
「はい。むしろ、あなたにお渡しするためのものだと思います」
封を開けると、中から一冊の小さなノートが現れた。
表紙は布張りで、角が擦り切れている。
手記だと、すぐにわかった。
体調のこと、出産の不安、ユキへの想い。
どれも短い文で、必死に書き留めたような筆跡だった。
職員たちの前で、ロイドは淡々と読み進める。
表情は変えない。
呼吸も乱さない。
そして、数ページ目で、手が止まった。
挟まれていたのは、一枚の写真だった。
少し色褪せた、スーツ姿の男性。
背景はどこかの庭園のようで、表情は穏やかだった。
一瞬、世界が静止したように感じた。
顔立ち。
輪郭。
視線の角度。
――否定できないほど、知っている。
指がわずかに止まる。
だがロイドは、すぐにページを戻した。
何事もなかったかのように、次の行を追う。
そのページの文字が、視界に入る。
「……Ωとして生まれたけれど、女の子だったから、あの人はこの子に目を向けなかった。
それが、せめてもの救い。
この子は普通の人生を歩ける。
あの人は、あの家の人間だから……最後まで、関わらせてはいけない。」
文は途中で途切れていた。
「お父様のお名前などは……」
職員が遠慮がちに尋ねる。
ロイドは首を横に振った。
「書かれていませんね」
事実だけを告げる声。
「写真は……」
「同封されていた、というだけでしょう」
それ以上の言葉は出さなかった。
職員たちは、それ以上踏み込まなかった。
ロイドは手記を閉じ、丁寧に封筒に戻した。
「お預かりしても?」
「はい。元々、持ち主の方にお返しするつもりのものですから」
頭を下げ、礼を言い、施設を出る。
扉が閉まった瞬間、空気が変わった。
施設の応接室を出るまで、ロイドは一度も顔色を変えなかった。
それはこれまでと同じ、彼が身につけてきた「大人の振る舞い」だった。
外に出た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
風が強かったのか、自分が揺れたのか分からない。
ただ、足が一歩前に出るまで、少し時間がかかった。
封筒から写真を取り出す。
視界に入った瞬間、浮かんだのは父の顔ではなかった。
ユキだった。
静かに笑う顔。
問いかけるような視線。
少し距離を保ちながら、それでもこちらを信じてくれていた目。
――もう、同じ距離では立てないかもしれない。
その予感が、喉の奥を締めつけた。
兄妹だったら。
もしそうなら、今までの時間はすべて形を変える。
触れたいと思った気持ちも、守りたいと思った衝動も、すべて「間違い」だったことになる。
違う。
まだ、決まっていない。
似ているだけかもしれない。
写真一枚で父だと断定するのは早すぎる。
名前を書いていない。
書けなかったのかもしれないし、書かなくても通じると思ったのかもしれない。
否定の言葉を並べるほど、その裏にある願いが露わになる。
――兄妹では、いたくない
それは祈りに近かった。
事実を知りたい気持ちよりも先に、失いたくないという感情が、あまりにも強く前に出ていた。
それでも、目を逸らすわけにはいかない。
もし真実から逃げれば、ユキの人生を、自分の都合で曇らせることになる。
守りたいのに、確かめなければならない。
ロイドは一度、目を閉じた。
短く息を吐く。
胸の奥にあるのは、覚悟というより、「諦めに似た優しさ」だった。
――壊れるとしても、自分が壊れる側でいよう。
ユキに背負わせるより、自分が知る方を選ぶ。
そのまま、ウィリアムズ家へ向かった。
屋敷に戻ると、誰にも会わず、父の書斎に直行した。
鍵をかけ、扉を閉める。
静寂が降りる。
引き出しを開ける。
書類を引き抜く。
棚の奥を探る。
箱を床に下ろす。
探しているのは、父の罪ではない。
自分の恋が、まだ許される場所だ。
寄付記録。
病院とのやり取り。
孤児院の名前。
日付。
金額。
一枚一枚、指先で確かめるたび、
「否定できる何か」を探している自分に気づく。
確定したいのではなかった。
救われたかった。
焦りからか片付けるのも忘れて、
床に紙が散らばっていく。
机の上は埋まっていく。
それでも、答えはまだ見えない。
ロイドは一人、
恋を守るために、
恋を壊すかもしれない真実を掘り返し続けていた。




