過去を辿って
午前の空気はまだ冷たさを残していた。
ロイドは駅前の通りを歩きながら、胸ポケットの中で何度も紙を指でなぞっていた。
ユキの母の名前。
亡くなった年。
ユキが生まれた病院の名。
どれも短いメモに過ぎないのに、重さだけは異様にあった。
最初に向かったのは産婦人科だった。
建物は建て替えられたらしく、ガラス張りの新しい外観が朝の光を反射している。
受付で事情を話すと、女性職員は丁寧に頷きながらも、少し困ったような顔をした。
「申し訳ありませんが、当時の記録は保存期間を過ぎていて……」
予想していた言葉だったのに、胸の奥がわずかに沈む。
彼女は資料を確認してくれたが、残っているのは統計的な数字だけで、個人の情報はなかった。
「お役に立てず、すみません」
「いえ……ありがとうございました」
頭を下げて外に出る。
ガラス越しに見える待合室では、妊婦が雑誌をめくっていた。
始まりの場所は、あまりにも静かで、あまりにも現在だった。
次に向かったのは、ユキの母が亡くなった病院だった。
こちらは少し古い建物で、廊下に漂う消毒液の匂いが、時間を巻き戻すようだった。
総合受付から案内され、別室で事情を説明する。
「ご親族の方ですか?」
その問いに、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……代理のような立場です」
自分でも曖昧だと思った。
でも、今はそれ以上の言葉が見つからなかった。
職員は規定を説明しながら、カルテの保存年限や個人情報の制限について話してくれた。
やはり、決定的な資料は残っていないらしい。
「お母様の記録は、もう閲覧できる状態ではありません」
淡々とした声だった。
責める気持ちはなかったが、どこかで、ほんの少しだけ期待していた。
部屋を出るとき、廊下の壁に貼られた案内板が目に入った。
小児病棟、緩和ケア、相談窓口。
どれも人の人生の一部を受け止めてきた場所だ。
エレベーターを待っている間、ふと、ユキの顔が浮かぶ。
静かで、感情を表に出さず、それでも確かに何かを抱えている目。
――何も持ち帰れなかったら、どう説明すればいい。
それでも、探すことをやめる選択肢はなかった。
外に出ると、風が少し強くなっていた。
コートの襟を立てながら、スマートフォンを取り出す。
時刻はもう昼に近い。
一度、メモを見返す。
産院、病院。
どちらも手がかりはなかった。
「……まだ、終わりじゃない」
小さく息を吐いたとき、病院の職員の言葉が思い出された。
『当時、事情のあるお子さんは、孤児院や乳児院に引き継がれることが多かったと思います』
それは、ほんの補足のような一言だった。
だが、今はそれが唯一、前に進める線に思えた。
孤児院。
記録ではなく、人の記憶が残る場所。
書類ではなく、誰かの手の中に残ったものがあるかもしれない場所。
ロイドはスマートフォンで近隣の施設を検索し、いくつかの名前をメモに追加した。
すぐに電話をかけることもできたが、指が止まり、ユキの顔が浮かぶ。
まずは、自分で確かめたい。
ユキに話すのは、その後でいい。
空を見上げると、雲がゆっくり流れていた。
答えにはまだ遠い。
それでも、進む方向だけは、はっきりしてきた。
――次は、ユキのいた孤児院だ。
ロイドはそう心の中で決めて、歩き出した。




