重なった歩幅
夜の通りは、相変わらず静かだった。
店の明かりはほとんど落ち、遠くでシャッターの閉まる音がいくつか重なる。
カナリアが歩き出すと、少し遅れてレイも同じ方向へ進む。
並んでいるわけではない。
けれど、歩幅が自然と揃っていた。
信号の手前で二人は止まった。
赤。
風が看板を揺らす音だけが響く。
沈黙は、もう気まずさを伴わなくなっていた。
カナリアはバッグを気にするように肩をすくめる。
「……重い」
小さくこぼれた独り言に、レイが思ったより近くから返す。
「仕事の書類か?」
「いえ、本です」
「どんな?」
少し考えてから答える。
「説明しづらいんですけど……昔の思想史と、都市構造が混ざってる本で」
レイの足が、わずかに緩んだ。
「……灰色の表紙で、目次が異様に細かいやつか」
カナリアが驚いて顔を上げる。
「知ってるんですか?」
「知ってるというか……読んだ」
「え」
声が素直に裏返る。
「あれ、読んだ人に初めて会いました」
レイは視線を逸らす。
「人に勧める気もしない」
「分かります。でも、嫌じゃないんですよね」
カナリアは少しだけ嬉しそうだった。
信号が青に変わる。
二人は同時に歩き出す。
さっきより、少し距離が近い。
「レイさんは、どういう本が好きなんですか」
「雑多だな。専門書も読むし、古い小説も」
「最近は?」
「地下鉄を題材にした短編集」
「……東欧の作家の」
「そう」
カナリアが小さく笑う。
「あれも読みました」
今度は、レイがはっきりと驚いた。
「……珍しいな」
「売れない棚にありました」
「だろうな」
短い沈黙。
けれどそれは、空白ではなく、確かめ合うような静けさだった。
次の角で、カナリアが立ち止まる。
「ここで曲がります」
「……ああ」
少しだけ、間ができる。
「もし、よかったら」
カナリアは迷ってから言った。
「今度……おすすめの本、交換しませんか」
「本?」
「はい」
一瞬のためらいのあと、レイは頷く。
「次に、一緒になった時に」
「分かりました」
連絡先も聞かない。
日付も決めない。
「また帰り道が重なれば」という前提だけの、曖昧な約束。
けれど、その曖昧さが二人にはちょうどよかった。
カナリアが角を曲がる。
レイはその背中を見送りながら思う。
――名前もつけていないのに、もう関係になっている。
本を介した小さな約束が、やがて生活を共有する距離へつながることを、
彼はまだ知らなかった。
*
カナリアは仕事を終え、店のシャッターを下ろすとバッグの中を確かめる。
角が折れないよう包んだ一冊の本。
向かいの歩道、信号柱の少し手前。
見慣れた背中があった。
たまたま先に着いていたレイが、そこに立っていた。
「……レイさん、お疲れさまです」
「お疲れさま」
バッグに視線が落ち、本に気づく。
それだけで、空気が昨日までと違うと分かった。
歩き出すと、自然と並ぶ。
「読みました?」
「全部、読んだ」
「私もです」
少しだけ、声が軽くなる。
「どうでした」
「好き嫌いは分かれる。でも、ああいう視点で世界を見る人間がいるのは、嫌いじゃない」
「その感想、レイさんらしいです」
「そうか」
しばらく歩いて、レイが足を止める。
「……返すだけならここでもいいが」
少し間を置いて続ける。
「茶くらいは出せる」
断る理由はなかった。
カナリアは一瞬迷ってから、うなずく。
「……少しだけなら」
*
レイの部屋に、余計なものはない。
まず本棚が目に入る。
「すごいですね……」
「趣味というほどじゃない」
「十分、趣味です」
テーブルの上に二冊の本が並べられる。
交換していた時間が、そこに戻る。
湯気の立つカップが置かれる。
指先が一瞬触れるが、どちらも何も言わない。
「……この本、途中で何度か止まりました」
「重たいからか」
「内容じゃなくて、気持ちが」
「……分かる」
沈黙が落ちる。
探り合いのない、静かな沈黙。
「レイさんがこれを選んだ理由、少し分かる気がします」
「そうか」
「私のはどうでした?」
「静かな本だった。でも、読後が長く残る」
「それが好きなんです」
二人はぽつぽつと話す。
良かったところ、分かりにくかったところ、
眠くなったページ、それでも最後まで読んだ理由。
「同じ本を通った人間同士」の、ただの会話。
気づけば、カップは空になっていた。
レイが立ち上がり、湯を足す。
「……もう一杯、飲むか」
「お願いします」
時計を見る。思ったより遅い。
「もう、こんな時間ですね」
「そうだな」
しばらく沈黙のあと、レイが静かに言った。
「……遅いし、外も冷える」
少しだけ間を置いて、
「無理にとは言わないが。今日は泊まっていくか」
誘いというより、確認に近い声だった。
カナリアは一瞬戸惑い、それから小さく息を吐く。
帰る選択肢が浮かばなかったわけじゃない。
ただ、それを選ぶ理由も見つからなかった。
「……いいんですか」
「ああ」
少し考えてから、うなずいた。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
何かを決めたわけじゃない。
ただ、今は帰らない理由がそこにあっただけだった。




