想いと距離
オレンジがかった光は物の輪郭を曖昧にして、室内をやさしく包み込む。
ユキはソファの端で本を閉じ、しばらくその光の中に身を置いていた。
キッチンに立つロイドの背中は、珍しく力が抜けているように見えた。
仕事の時のような張り詰めた気配はなく、ただ湯を沸かし、カップを並べ、静かに動いている。
この時間が、いつの間にか「特別」ではなくなりつつあることに、ユキは気づいていた。
気づいた瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。
怖さと、安心と、どちらも混じった感覚だった。
「ロイドさん」
呼ぶと、彼は振り返る。
「どうした?」
一瞬、言葉を選ぶ間があった。
大した用事じゃないのに、軽く聞いていいことのはずなのに、なぜか慎重になる。
「……最近、よく考えるんです。この時間が、ずっと続いたらいいなって」
ロイドは答えず、少しだけ目を細めた。
「続いてほしい、か」
その言葉が、彼の中でゆっくり形を変えていく。
“一緒にいる”から、“一緒に生きる”へ。
しばらく沈黙が流れたあと、ロイドはユキのそばへ歩み寄った。
近づくにつれて、彼女の呼吸の浅さが伝わってくる。
ユキは視線を上げ、まっすぐに彼を見た。
拒む理由も、避ける理由もなかった。
ロイドは、無意識のまま顔を近づける。
唇に触れようとして――
その直前で、動きが止まった。
なぜか、そこには踏み込んではいけない気がした。
理由は分からない。
ただ、胸の奥で小さな違和感が鳴った。
代わりに、そっと額に口づける。
軽く、確かめるようなキスだった。
その距離の近さが、かえって胸を締めつける。
ユキは一瞬きょとんとしてから、小さく笑う。
「……優しいんですね」
ロイドは視線を伏せる。
「自分でも、そう思う」
本当は、違う。
それは優しさというより、ためらいに近かった。
少し間を置いて、ロイドは静かに言う。
「ひとつだけ聞いてもいいか」
「はい」
「君の両親は……どんな人だったんだ?」
ユキの表情が、わずかに揺れる。
母親のことは、幼いながらに覚えている。
いつも忙しく、それでも笑顔を絶やさない人だった。
けれど、父親の記憶はない。
会ったことすらなかったのだ。
「母は、大変な時でも笑ってくれる人でした。父は……」
言葉が、そこで止まる。
「会った記憶が……ないんです。母に聞いたことはあるんですけど……話してはもらえませんでした」
ロイドは少し視線を落とす。
「……聞いてすまない。無理に話させるつもりじゃなかった」
ユキは首を振った。
「いえ。嫌な気はしないです。ただ……自分でも、どんな人だったのか分からなくて」
ロイドは小さく息を吐く。
「……大変だったんだな」
それは慰めというより、事実をそのまま受け止める声音だった。
ユキは膝の上で指を組む。
「不思議なんです。今まで、あまり考えないようにしてきたのに……」
少し間を置いて続ける。
「ロイドさんとこうして過ごすようになってから、
ちゃんと知っておきたいって思うようになりました」
ロイドは彼女を見る。
「知って、どうしたいんだ?」
「ただ…もし見つけられるなら……会えるなら、
それは悪いことじゃない気がして」
迷うように、言葉を探しながら。
「これから一緒に生きるなら、自分のことを、ロイドさんにちゃんと話せるようになりたいんです」
ロイドの中で、何かがはっきりと形を持つ。
彼女は過去を清算したいのではない。
未来に、それを連れていこうとしているのだ。
「……なら」
静かに言う。
「無理のない範囲で、私の方で探してみてもいいか?」
ユキは目を見開く。
「いいんですか?」
「君が望むなら」
ユキは一瞬、言葉を失い、それから小さくうなずいた。
「……はい。お願いします」
それは調査の開始ではなく、
“人生を共に歩く”という意識が、初めて形になった瞬間だった。




