何も起きない幸福
朝は、カーテン越しの光で始まった。
ユキは目を開けて、しばらく天井を見ていた。
音がない。
急かす気配も、予定を思い出させる通知もない。
それだけで、今日が休日なのだと分かった。
キッチンの方から、小さな物音がする。
ロイドがコーヒーを淹れているらしい。
その気配があるだけで、部屋の輪郭がはっきりする。
ユキはゆっくりと起き上がり、髪をまとめてリビングへ向かった。
「おはよう…ロイドさん」
「起こしたか?」
「いいえ。ちょうどよかったです」
ロイドはカップを二つ並べ、静かにテーブルに置く。
香りが立ち上り、部屋に満ちる。
それを「当たり前の光景」だと思えることが、まだ少し不思議だった。
ソファに並んで座り、無言のままコーヒーを飲む。
言葉がなくても、居心地が悪くならない沈黙。
ユキは、ふと自分の指先を見つめた。
こんなふうに、何も考えずに座っている時間が、これまでの人生にどれほどあっただろう。
忙しさに追われる日々。
誰かの期待の中で動くことが当たり前で、
「何もしない」は怠けに近かった。
だから、今の静けさはときどき現実味を失う。
「……変な感じがします」
ロイドが視線を向ける。
「何が」
「こんなふうに、ただ一緒にいて、何もしなくていいっていうのが」
ロイドは少し考えてから言った。
「悪くないだろう」
ユキは小さく笑った。
「悪くないです。まだ慣れないですけど」
それ以上は言わなかった。
過去を細かく説明しなくても、
彼はそれ以上踏み込まないと分かっていた。
昼前、二人は近くのスーパーまで歩いた。
特別な用事はない。
冷蔵庫に足りないものを買うだけ。
並んで歩く速度が、自然に揃う。
ユキは、前を歩くでも後ろに下がるでもなく、
ちょうど隣にいる。
それが、少しだけ誇らしかった。
「今日は何を作る?」
「簡単なのでいいですか?」
「構わない」
野菜とパンと、少しだけ贅沢なチーズ。
それだけで、袋はほどよく重くなる。
帰り道、ユキは思わず空を見上げた。
何も特別な色はしていない。
それなのに、胸の奥が静かに満ちる。
「前は……」
口に出しかけて、止める。
ロイドは待つが、促さない。
「休日って、落ち着かなかったんです」
「何かしてないと、取り残される気がして」
ロイドは歩いたまま、短く答えた。
「今は?」
ユキは少し考える。
「……ここにいると、大丈夫な気がします」
それは告白に近かった。
昼食は、二人で簡単なパスタを作った。
味付けが少し薄くて、ロイドが塩を足し、
ユキが「入れすぎです」と止める。
たったそれだけのやり取りなのに、
彼女は胸の奥で何かがほどけていくのを感じていた。
午後は、それぞれが本を読んだり、
ソファでうたた寝をしたり。
時間は、目的を持たずに流れていく。
ユキは、眠りに落ちる直前、ぼんやりと思った。
――幸せって、もっと劇的なものだと思っていた。
――でも、たぶんこれは、静かに続く形の幸せなんだ。
そのことが、少し怖くて、
同時に、たまらなく大切だった。
この平凡な一日が、
いつか特別なものになると、
彼女はまだ知らなかった。




