窓越しの距離
レイは、気づくとその道を選んで歩いていた。
遠回りになるわけでもない。
目的があるとも言えない。
仕事の合間にできた、ほんのわずかな時間。
その使い道として、なぜか足が向いてしまう場所だった。
通りの向こうに、小さなカフェがある。
控えめな看板。
店内の様子は外からすべては見えず、
ガラス越しに分かるのは、カウンターの一部と行き交う人の影だけだ。
レイは、いつも同じ位置で立ち止まる。
店の前ではない。
向かい側の歩道。信号柱の少し手前。
通行人に紛れるには、ちょうどいい距離だった。
入るつもりはなかった。
コーヒーを飲みたいわけでも、誰かに会いたいわけでもない。
ただ、窓の内側に、カナリアの姿を探している。
それに気づいたとき、レイは小さく息を吐いた。
自分が何をしているのかを、理解しすぎないようにする癖が、自然と働く。
仕事の中で、彼は常に誰かの判断の後ろに立ってきた。
迷いを抱えた者。
選択を委ねる者。
支えを必要とする者。
そうした関係に、慣れすぎているほどだった。
だからだろうか。
窓の向こうの彼女の佇まいには、引っかかるものがあった。
カウンターの奥で、カナリアはグラスを拭いている。
視線を落とし、淡々とした動き。
誰かの顔色をうかがう様子も、確認を求める仕草もない。
必要なことを、必要なだけ、黙々とこなしている。
――すでに立っている。
そんな言葉が、一瞬だけ頭をよぎり、すぐに消えた。
長居する気はなかった。
そう思い、時計を確認する。
だが、足は動かなかった。
ふいに、カナリアが顔を上げる。
客に向けたものではない。
理由もなく視線が上がっただけの、ほんの偶然。
一瞬、目が合った。
レイは反射的に視線を逸らした。
遅すぎた、と感じる前に、もう一度だけ窓を見る。
彼女は、何事もなかったように作業に戻っている。
――気づかれたか。
胸の奥に、わずかな違和感が残った。
その日の閉店間際。
カナリアは、理由もなく窓の外を見た。
だが、通りには人の流れしかない。
気のせいだと、自分に言い聞かせる。
それでも、名前のない視線の名残だけが、胸のどこかに残った。
閉店時間が近づくと、通りの空気が変わる。
昼のざわめきが引き、足音だけが残る時間帯。
レイは腕時計を確認し、歩道を離れた。
立ち止まる理由は、もう十分だった。
背中を向けて数歩進んだところで、店の扉が開く音がする。
振り返らない。
ただ、耳に残る。
鍵を閉める金属音。
それから、少し遅れて、足音がひとつ。
一定の距離を保ったまま、同じ方向へ進んでいる。
偶然だと、レイは思うことにした。
通りを抜け、角を曲がっても、足音は消えない。
追いかけてくるわけでも、離れていくわけでもない。
話しかけるには遠く、無視するには近すぎる距離。
レイは、わずかに歩調を落とした。
数秒遅れて、足音も同じリズムになる。
信号で並ぶ。
横に立つには少し距離がある。
視界の端に、彼女の気配だけが入る位置。
赤信号が、やけに長く感じられた。
青に変わり、同時に歩き出す。
言葉はない。
それでも、不自然ではなかった。
彼女は、誰かに連れられて歩くタイプではない。
後ろに隠れることも、前に出ることもない。
隣にいなくても、ひとりで進んでいける。
それが、その夜は妙に目に残った。
次の角で、彼女が足を止める。
レイはそのまま進むが、数歩先で振り返ってしまう。
カナリアが、こちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬。
「……お疲れさまでした」
背中越しに声が届く。
聞こえないふりをする理由はなかった。
レイはカナリアに目線を合わせた。
「お疲れさま」
それだけだった。
名前も、用件も、次の約束もない。
それなのに、その夜から、帰り道が重なることは何度か続いた。
話すことは、ほとんどない。
それでも、同じ方向へ歩く時間が、少しずつ当たり前になっていった。
気づいたときには、レイはもう、彼女が“頼らない人間”であることを、気に入ってしまっていた。
その意味を、考えないまま。
———
その日、カナリアにとっても、特別なことはなかった。
閉店まで、いつも通りの時間が流れていた。
無意識に、窓の外を見る。
向かいの歩道。信号柱の少し手前。
――人影。
見覚えのある背中だった。
そこに「戻ってきた」という言葉は当てはまらない。
最初から、そこにいたかのようだった。
安心したわけではない。
ただ、通りの幅が元に戻った気がした。
何事もなかったように仕事を終え、外に出る。
数歩進むと、足音が重なる。
「……お疲れさまです」
「お疲れさま」
それ以上は、何もない。
けれどその夜も、二人は同じ方向へ歩いた。
何も途切れていなかったように。
何も始まっていなかったように。
———
レイがその通りを通らなかったのは、偶然ではなかった。
仕事が立て込み、ロイドとのやり取りが増えていた。
誰かの代わりに立ち、誰かの選択を支える。
いつもと同じ役割。
最短の帰路を選び続け、
数日後、ふと思う。
――通っていないな。
思い出したのは、店でも彼女でもない。
信号柱の位置と、立ち止まる感覚だった。
行けば、何も起こらない。
行かなければ、何も変わらない。
だから、行かなかった。
彼女は、すでに立っている。
期待させる方が、不自然だと思った。
だが、ある夜。
仕事が早く終わり、気づけば足が向いていた。
いつもの場所に立った瞬間、胸の奥がわずかに詰まる。
窓の内側で、彼女が動く。
変わらない仕草。変わらない距離。
それを見て、初めて肩の力が抜けた。
――続いている。
関係ではなく、時間が。
意味づけをしないことも、理性の一部だ。
その夜、彼はまた何事もなかったようにそこに立ち、何事もなかったように、同じ方向へ歩いた。
それで十分だと、その時は、本気で思っていた。




