それぞれの選択
それから数日後。
カナリアは、自分で新しい住まいと働き先を見つけた。
ロイドへの気持ちが、完全に消えたわけではない。
ただ、レイから受け取った言葉は、立ち止まり続けていた心を動かすには十分だった。
スーリンに事情を話し、マティーニを辞めると決めてから、今の家を出るまでに、それほど時間はかからなかった。
荷物は思っていたよりも少ない。
段ボールに詰めてしまえば、部屋はすぐに空になる。
玄関に立ち、最後に振り返る。
長くいたわけではない。
それでも、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚が残った。
鍵を閉める音が、やけに大きく響いた。
郊外にある、小さな部屋。
古い建物で、階段を上るたびにきしむ音がする。
窓から差し込む光は朝のわずかな時間だけで、昼には部屋全体が静かな影に包まれる。
決して条件がいいとは言えなかった。
けれど、誰の顔色も伺わずに帰れる場所が、今の彼女には必要だった。
靴を脱ぎ、床に座り込む。
何も置かれていない部屋で、しばらく動けずにいた。
寂しさはある。
だが、それ以上に、息がしやすかった。
仕事は、駅から少し離れた路地にあるカフェだった。
こぢんまりとした店構えで、派手さはない。
それでも平日でも客足が途切れず、常連らしい客が静かに会話を交わしている。
誰もが自然体で、店内には穏やかな空気が流れていた。
店長は多くを聞かない人だった。
スタッフも同じで、必要以上に踏み込まない。
それでいて、失敗すれば、言葉にしすぎない優しさで、さりげなく手を差し伸べてくれる。
怒られないことが、こんなにも人を救うのだと、初めて知った。
――ここなら、大丈夫かもしれない。
そう思えたこと自体に、少し驚く。
住む場所と勤め先を決めたことは、レイとユキにだけ伝えた。
二人は驚きはしたが、理由を深く尋ねることはなかった。
否定もしなかった。
それが、カナリアにはありがたかった。
夜、ベッドに横になり、天井を見つめる。
スマートフォンを手に取り、通知を一度だけ確認する。
ユキの名前は、なかった。
画面を伏せ、深く息を吐く。
不安が消えたわけではない。
これから先のことは、何も分からない。
それでも、戻りたいとは思わなかった。
カナリアは、初めて「自分で選んだ人生」を、静かに歩き始めていた。
一方で、ユキとロイドは、再び同じ家で暮らし始めていた。
荷物は多くなかった。
ユキがアパートから運び込んだもののほとんどは、そのまま残されている。
引っ越しの片付けも一段落した頃、ロイドはキッチンでコーヒーを淹れながら、何気ない口調で言った。
「借りている部屋は、そのままにしておいていい」
ユキは一瞬、手を止める。
「……いいんですか?」
ロイドは振り返らず、カップに湯を注ぐ。
「何かあった時に戻れる場所があるのは、悪くない」
その言葉は、距離を突き放すものではなかった。
むしろ、抱え込みすぎないための配慮だった。
ユキは少し考えてから、ゆっくりと頷く。
「……わかりました」
それ以上、言葉は要らなかった。
互いに踏み込みすぎない余白が、そこにあった。
その日の夜。
ロイドは自分のオフィスで、レイに連絡を入れた。
「ユキと、また一緒に暮らすことにした」
単刀直入な報告に、レイは一瞬、言葉を失う。
「……決定事項か?」
「今回は、曖昧にするつもりはない」
ロイドは机に肘をつき、真っ直ぐ前を見据える。
「もし、ユキとの関係が公になったとしても、隠すつもりはない」
レイは軽く眉をひそめた。
「立場は分かってるだろう」
「分かっている」
被せるように、ロイドは続ける。
「ユキは俺の会社の社員だ。だが、立場を利用した関係じゃない。俺が個人的にアプローチして、交際している」
淡々とした口調だったが、覚悟ははっきりしていた。
「もし説明が必要な時はそう説明する。責任は、すべて俺が負う」
レイは深く息を吐く。
「……強引だな」
「それでもいい。何かあれば、お前がいる」
一瞬の沈黙。
「ロイド、私は君の代わりになるつもりはない」
「……もしもの話だ」
それだけで、通話は終わった。
ロイドは通信を切り、椅子にもたれかかる。
デスクの端に置かれたコーヒーは、すでに冷めていた。
そのことに気づきながら、彼は手を伸ばさなかった。
守ると決めたものの重さが、静かに胸に沈んでいく。
だが、その重さから目を逸らすつもりはなかった。
それが、自分で選んだ道なのだと、分かっていたから。




