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愛の檻  作者: hanamizukiyume


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14/31

触れないまま

レイが家に戻ったのは、夜も深くなってからだった。玄関の鍵が回る音に、ユキは反射的に顔を上げる。


「……レイさん」


声は思ったより小さく、かすれていた。

レイは靴を脱ぎながら、短く返す。


「起きてたのか」


それ以上の言葉は続かない。

リビングに沈黙が落ちる。

時計の秒針だけが、一定の間隔で空気を刻んでいた。 


ユキはしばらく、何も言えずにいた。

言葉は、もう決めていたはずなのに、実際に口に出すとなると、喉の奥に引っかかる。

深く息を吸う。


「私……この家を出ようと思うんです」


レイの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。

それから、何事もなかったかのように視線を逸らす。


「そうか」


それだけだった。

引き止めも、理由を問うこともない。

ユキは、その反応に安堵したのか、自分でも分からなかった。


「職場の近くで探そうと思ってて……」


言い訳のような言葉だった。

レイは静かに頷く。


「分かった。手伝う」


淡々とした声。

だが、拒絶も困惑も含まれていないことに、ユキは気づいていた。


その夜、二人はそれ以上、この話題に触れなかった。同じ空間にいながら、互いの考えに踏み込まないまま、時間だけが過ぎていった。


***


数日後。

ユキはひとり、内見に向かっていた。

職場から徒歩圏内。築浅の小さなアパート。

白い壁、最低限の設備、静かな環境。

窓から差し込む光を見つめながら、ユキは考える。ここでなら、誰にも遠慮せずにいられる。


「……ここにします」


言葉は、思っていたよりも早く口をついた。

決断というより、逃げ場を確保した感覚に近かった。


***


その頃、ロイドは執務室の椅子に腰掛けたまま、何度もスマートフォンを確認していた。


《帰宅したら連絡を入れてくれ》


送ったままの画面。

既読はつかない。

仕事に戻ろうとしても、無意識に視線が画面へ落ちる。

理由を考えようとして、やめた。

胸の奥に、説明のつかないざらつきが残る。


そのとき、レイが声をかけてきた。


「ユキなら家を出た」


ロイドは、ゆっくり顔を上げる。


「職場の近くでアパートを借りている」


短い説明。


「……住所は?」


問いかける声は低く、感情を抑えていた。

レイは一瞬だけためらい、それからスマートフォンを操作して伝える。


***


ユキのアパートは、ロイドの想像よりも簡素だった。

オートロックはあるが、万全とは言い難い。

ロイドは部屋の前の廊下で立ち止まり、チャイムを鳴らす。


インターホンから慌てて部屋の鍵を開ける音がする。


「こんばんは…よかったら上がってください」


「確認しに来ただけだ…すぐ帰る」


ユキは少し顔を俯ける。


暫くの沈黙。


「…ここは少しセキュリティの面で心配だ…」


それは、評価というより本音だった。


「これを持っていろ」


差し出されたのは、ロイドのマンションの鍵。


「何かあったら来ればいい。好きな時で構わない」


説明はそれだけ。

ロイドは、感情を掘り下げる前に背を向けた。


ドアが閉まったあと、ユキはしばらくその場に立ち尽くしていた。

手のひらに残る鍵の重さが、現実感を伴って迫ってくる。


――上着。

ロイドから借りたままのそれを、返していないことに気づいたのは、彼の足音が完全に消えてからだった。


***

数日後。仕事帰り、ユキは上着を抱えてロイドのマンションを訪れた。

インターホンを押す前に、ドアが開く。

そこに立っていたのは、カナリアだった。


「……カナリアさん?」


一瞬、時間が止まったように感じた。

室内に、彼女ひとり。


「どうして……ここに?」


問いは、無意識にこぼれていた。

カナリアは一度目を伏せ、それから静かに笑う。


「…….おいでって……呼ばれたのよ」


その言葉が、胸の奥で小さく引っかかる。


「でも、ユキちゃんは違うのね」


声に滲む感情を、ユキは聞き逃さなかった。


「ロイドさんに、いつでも来ていいって言われてる。本当は……一緒に住めたらいいって」


ユキの呼吸が、わずかに乱れる。


「でも、私断ったの。たまに来るだけでいいって」


少し間を置いて、カナリアは続けた。


「あなたがいるのに、そんなことできないもの」


沈黙。

ユキは、言葉を探して失敗する。


「あなたも、同じことを言われたでしょう?」


断定に近い口調だった。


「私が断るって分かってたから、あなたに鍵を渡したのね」


全部嘘だった。

だが、その言葉はあまりに自然で、ユキは反論できなかった。


ロイドが、自分に嘘をつくとは思えない。

それでも、胸の奥に、わずかな疑念が沈む。


――もし、過去の少女がカナリアだったら。

――もし、彼女の想いの方が深かったら。


考えは、止められなかった。

ユキは上着をリビングのソファに置く。


「……これを…返しにきただけなんです」


それだけ言って、部屋を出た。

ドアが閉まる音が、静まり返った廊下に強く響いた。


***

外の空気は、ひどく冷たかった。

胸に残るのは、怒りでも悲しみでもない。

言葉にできない感情の波。



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