触れないまま
レイが家に戻ったのは、夜も深くなってからだった。玄関の鍵が回る音に、ユキは反射的に顔を上げる。
「……レイさん」
声は思ったより小さく、かすれていた。
レイは靴を脱ぎながら、短く返す。
「起きてたのか」
それ以上の言葉は続かない。
リビングに沈黙が落ちる。
時計の秒針だけが、一定の間隔で空気を刻んでいた。
ユキはしばらく、何も言えずにいた。
言葉は、もう決めていたはずなのに、実際に口に出すとなると、喉の奥に引っかかる。
深く息を吸う。
「私……この家を出ようと思うんです」
レイの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
それから、何事もなかったかのように視線を逸らす。
「そうか」
それだけだった。
引き止めも、理由を問うこともない。
ユキは、その反応に安堵したのか、自分でも分からなかった。
「職場の近くで探そうと思ってて……」
言い訳のような言葉だった。
レイは静かに頷く。
「分かった。手伝う」
淡々とした声。
だが、拒絶も困惑も含まれていないことに、ユキは気づいていた。
その夜、二人はそれ以上、この話題に触れなかった。同じ空間にいながら、互いの考えに踏み込まないまま、時間だけが過ぎていった。
***
数日後。
ユキはひとり、内見に向かっていた。
職場から徒歩圏内。築浅の小さなアパート。
白い壁、最低限の設備、静かな環境。
窓から差し込む光を見つめながら、ユキは考える。ここでなら、誰にも遠慮せずにいられる。
「……ここにします」
言葉は、思っていたよりも早く口をついた。
決断というより、逃げ場を確保した感覚に近かった。
***
その頃、ロイドは執務室の椅子に腰掛けたまま、何度もスマートフォンを確認していた。
《帰宅したら連絡を入れてくれ》
送ったままの画面。
既読はつかない。
仕事に戻ろうとしても、無意識に視線が画面へ落ちる。
理由を考えようとして、やめた。
胸の奥に、説明のつかないざらつきが残る。
そのとき、レイが声をかけてきた。
「ユキなら家を出た」
ロイドは、ゆっくり顔を上げる。
「職場の近くでアパートを借りている」
短い説明。
「……住所は?」
問いかける声は低く、感情を抑えていた。
レイは一瞬だけためらい、それからスマートフォンを操作して伝える。
***
ユキのアパートは、ロイドの想像よりも簡素だった。
オートロックはあるが、万全とは言い難い。
ロイドは部屋の前の廊下で立ち止まり、チャイムを鳴らす。
インターホンから慌てて部屋の鍵を開ける音がする。
「こんばんは…よかったら上がってください」
「確認しに来ただけだ…すぐ帰る」
ユキは少し顔を俯ける。
暫くの沈黙。
「…ここは少しセキュリティの面で心配だ…」
それは、評価というより本音だった。
「これを持っていろ」
差し出されたのは、ロイドのマンションの鍵。
「何かあったら来ればいい。好きな時で構わない」
説明はそれだけ。
ロイドは、感情を掘り下げる前に背を向けた。
ドアが閉まったあと、ユキはしばらくその場に立ち尽くしていた。
手のひらに残る鍵の重さが、現実感を伴って迫ってくる。
――上着。
ロイドから借りたままのそれを、返していないことに気づいたのは、彼の足音が完全に消えてからだった。
***
数日後。仕事帰り、ユキは上着を抱えてロイドのマンションを訪れた。
インターホンを押す前に、ドアが開く。
そこに立っていたのは、カナリアだった。
「……カナリアさん?」
一瞬、時間が止まったように感じた。
室内に、彼女ひとり。
「どうして……ここに?」
問いは、無意識にこぼれていた。
カナリアは一度目を伏せ、それから静かに笑う。
「…….おいでって……呼ばれたのよ」
その言葉が、胸の奥で小さく引っかかる。
「でも、ユキちゃんは違うのね」
声に滲む感情を、ユキは聞き逃さなかった。
「ロイドさんに、いつでも来ていいって言われてる。本当は……一緒に住めたらいいって」
ユキの呼吸が、わずかに乱れる。
「でも、私断ったの。たまに来るだけでいいって」
少し間を置いて、カナリアは続けた。
「あなたがいるのに、そんなことできないもの」
沈黙。
ユキは、言葉を探して失敗する。
「あなたも、同じことを言われたでしょう?」
断定に近い口調だった。
「私が断るって分かってたから、あなたに鍵を渡したのね」
全部嘘だった。
だが、その言葉はあまりに自然で、ユキは反論できなかった。
ロイドが、自分に嘘をつくとは思えない。
それでも、胸の奥に、わずかな疑念が沈む。
――もし、過去の少女がカナリアだったら。
――もし、彼女の想いの方が深かったら。
考えは、止められなかった。
ユキは上着をリビングのソファに置く。
「……これを…返しにきただけなんです」
それだけ言って、部屋を出た。
ドアが閉まる音が、静まり返った廊下に強く響いた。
***
外の空気は、ひどく冷たかった。
胸に残るのは、怒りでも悲しみでもない。
言葉にできない感情の波。




