交わらない温度
ロイドは、誰もいなくなった部屋でひとり過ごしていた。
照明を落とした室内は静かで、壁に掛けられた時計の音だけがやけに大きく感じられる。
忙しない日々の合間を縫って、ようやくユキと会う約束を取り付けた。
そこまでは、確かによかった。
だが、同席したカナリアの存在が、最初から胸に引っかかっていた。
取り繕われた笑顔。
柔らかすぎる声色。
目的のためなら手段を選ばない——
そう言外に告げてくるような、危うい気配。
ユキを、その領域に近づけたくなかった。
それでも、気づけばユキとカナリアは距離を縮め、三人で会いたいと願い出るほどになっていた。
だからこそ、先ほどの自分の言動が間違っていたとは思えない。
理屈では、そう結論づけられる。
だが——。
ロイドは小さく息を吐き、スマートフォンを手に取った。
考え抜いた末に打った言葉は、ひどく簡素だった。
《帰宅したら連絡を入れてくれ》
それ以上、何も書けなかった。
その頃、カナリアはひとりでマンションへ戻っていた。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り込んだ瞬間、張り詰めていたものが一気に緩む。
自分が口にしてしまった嘘。
それに動揺するユキの表情が、何度も脳裏に浮かぶ。
ロイドに選ばれたいという欲求。
そして、選ばれることはないという現実。
どれほど望んでも手に入らないものを、ユキは当たり前のように享受している。
——いなくなってしまえばいい。
そんな醜い感情が、ふと胸をよぎる。
けれど同時に思う。
自分に初めて、何の見返りもなく優しくしてくれた人——ユキだ、と。
同じように優しくありたい。
それなのに、ただ目の前から消えてほしい。
どうやっても両立しない感情が、カナリアの中で渦を巻く。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
はっとしてドアを開けると、そこにはレイが立っていた。
言葉を交わすことなく、二人は車に乗り込む。
向かう先はマティーニ。
道中、珍しくレイのほうから口を開いた。
「君の過去を、調べさせてもらった」
それは脅しではなく、事実の報告のような声音だった。
カナリアの身体が強張る。
瞬きをすることさえ、忘れていた。
「ロイドに報告するつもりはない。だから、自分で伝えるといい」
しばらく沈黙が落ちる。
やがてカナリアは、震える声を抑えながら問いかけた。
「……どうして、伝えなかったんですか」
「必要がないからだ」
はっきりとした言葉だった。
ロイドがカナリアに揺れることはない——
そう言われているのだと、彼女は理解した。
「私……最低な女かもしれません」
「最低な人間は、自分を最低だと思わない」
信号が青に変わり、レイは静かにアクセルを踏む。
「……私の過去も知ってて、そんなこと言うんですね。しかも、今日だって……」
取り繕っていたはずの笑顔が、消えていることに気づく。
知られてはいけないと思っていた感情を、知り合って間もない相手に見透かされる怖さ。
「……いえ、忘れてください。ロイドさんには、私から言います。できれば、直接伝えたいんです」
「……わかった」
それ以上、レイは何も言わなかった。
ユキはレイのマンションへ戻ったが、室内に彼の姿はなかった。
おそらく、カナリアを送っているのだろう。
そう考えた瞬間、胸の奥がざわつく。
思考が巡るのを避けるように、ユキはキッチンに立った。
冷蔵庫を開け、食材を取り出す。
味噌汁。
サラダ。
ハンバーグ。
いつも通りの手順。
いつも通りの音。
だが、ふと手を止めると、ロイドとカナリアが二人きりでいる場面が、否応なく浮かび上がる。
包丁を握る手に力が入る。
——レイさんが帰ってきたら、伝えよう。
そう心に決めて、ユキは再び包丁を握った。
静かな部屋に、規則正しい音が戻る。
それぞれが、言葉にできない思いを抱えたまま、夜は静かに深まっていった。




