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愛の檻  作者: hanamizukiyume


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12/31

近づけない雨の日

その日は、昼過ぎから重たい雲が空を覆っていた。

人通りの少ない通りに面した小さなカフェは、三人で会うには静かすぎる場所だった。


最初に口を開いたのはカナリアだった。

ユキの向かいに座り、柔らかく微笑む。


「寒くなかった? 足元、冷えてない?」


「大丈夫。ありがとう」


そう答えながら、ユキは無意識にロイドへ視線を向けていた。

ロイドはコーヒーに口をつけることもなく、ただ二人を見ている。


カナリアは椅子をわずかにロイドの方へ寄せた。

話題も、自然と彼へ向かう。


「最近、お忙しいんですよね。あまり休めていないって聞きました」


「……仕事だ」


短い返答。それでも、カナリアは言葉を続ける。


「無理は良くないですよ。倒れたら、周りが困りますから」


正論だった。けれどロイドの視線は、カナリアではなくユキに向いている。


そのことに、カナリアはすぐ気づいた。

胸の奥が締めつけられる感覚を覚えながらも、笑顔は崩さない。


「レイさんにマティーニに連れて行ってもらって、カナリアさんと知り合えて……ロイドさんとも、こうして時間を作ってもらえて嬉しいです」


ユキがそう言って微笑むと、ロイドの表情がわずかに緩んだ。

その変化を、カナリアは見逃さなかった。

テーブルの下で、指先に力がこもる。


「……天気も悪い。場所を移すか」


「それなら、ロイドさんの家はどうですか? みんな近いですし」


輝くような笑顔だった。

ロイドは一瞬だけ眉を寄せ、ユキを横目で見る。

期待するようなその視線に、ため息をひとつ落とした。


「……構わない」


店を出た三人は、ロイドの車へ向かった。

ユキとカナリアが並び、その後ろをロイドが歩く。


交差点に差し掛かった、その瞬間だった。

ユキが一歩前へ出た、その先へ――信号を無視したトラックが突っ込んできた。


「ユキ!」


ロイドの叫び。間に合わない。

だが次の瞬間、ユキの腕が強く引かれた。

歩道へ引き戻され、トラックがすれすれを通過する。


「大丈夫!?」


必死な声だった。取り繕いはない。


「……ありがとう。確認しないで歩いちゃって」


ユキは、カナリアに頭を下げた。

ロイドは一歩引いた位置から、その様子を見つめている。


「ユキ、大丈夫か」


「はい。カナリアさんのおかげで」


そう言って、ユキはロイドに笑顔を向けた。


ロイドのマンションに着き、地下駐車場からエレベーターへ向かう途中、車椅子の老人とベビーカーが乗り込んできた。


「階段で行きますか?」


カナリアの声で、三人はエレベーターを譲り、階段を上る。


ユキが足を滑らせたのは、その途中だった。

ロイドが即座に腕を伸ばし、抱き寄せる。

転倒は免れた。


その一瞬、ロイドの視界に――カナリアの手が、ユキを押したように映る。

だが、実際には支えようとしただけだった。


「すみません……今日は不注意ばかりで」


ユキはロイドの腕の中で、耳を赤くして俯く。


「気をつけてね」


カナリアの穏やかな声。ロイドは表情を変えなかった。


部屋に入ると、ロイドはカナリアだけを書斎へ連れて行った。


「ユキ、ここで待っていろ」


低い声だった。

ガラス越しに、向かい合う二人の影が見える。

ユキはソファの端に腰を下ろし、胸の奥がきゅっと縮む。


――どうして、二人きりで。


嫉妬だと気づいた瞬間、自己嫌悪が押し寄せた。


――書斎では。


「君がユキといる日に限って、ああいうことが起きる」


ロイドは言い切った。


「君は、ユキに近づきすぎる」


「私は……あなたのそばにいたいだけです」


「それが問題だ、君は自分の居場所を、他人の意思に預けている」


冷たい声だった。


「ユキに近づくな。守れないなら、ここで終わりだ」


言葉を失ったカナリアの瞳が揺れた。

初めて向けられる、明確な拒絶だった。


リビングに戻ると、空気は張り詰めたままだった。

沈黙に耐えきれず、ユキが口を開く。


「あの……映画とか観ませんか?」


「あ、実は急用が入って……」


カナリアは笑顔を作り、すぐに部屋を出た。


「待って……!」


ユキは後を追う。


外に出ると、雨が降り始めていた。

冷たい雨音が、沈黙を引き延ばす。


書斎で向けられた言葉が、カナリアの胸に沈んだままだった。


近づくな。守れないなら、ここで終わりだ。

その言葉が何度も頭の中で繰り返される。


「ロイドさんね……過去に助けてくれた少女がいるって話、知ってる?」


「……うん」


「それ、私なの」


震える声を必死に抑えながらそっと漏らす。

嘘だった。


だが、ユキの世界が、静かに揺れる。


「本当は……迷っちゃったんだ」


そう言って、カナリアは視線を落とす。

それ以上を口にすれば、もう戻れない気がした。


「でも……あなたを傷つけたくないから。距離を置くって言われたの」


涙だけは本物だった。


「だから、私も諦める。あなたと仲良くしたいから」


壊れそうな笑顔だった。

雨脚はさらに強まり、カナリアの背中が、

濡れたアスファルトに溶けていく。


――違う。


そう思ったのに、ユキは引き止めることができなかった。


胸に残ったのは、怒りでも拒絶でもなく、言いようのない罪悪感だった。


(私が、ここにいなければ)


ふと浮かんだ考えを、ユキはすぐに否定する。

逃げだ。


ロイドの声が、何度も思い出される。

叱るでもなく、縛るでもなく、ただ低く名前を呼ぶ声。

それだけで、ここにいていいと錯覚してしまう。


――それでも、私は、そばにいたい。

選ばれなくてもいい。

曖昧なままでもいい。

同じ空間にいられるなら、それでよかった。


けれど、踏み込めば壊れる。近づけば、誰かを傷つける。


――私が、出ていけばいい。


それでも、彼の隣にいる自分を想像すると、胸がほどけてしまう。


その温もりが、誰かを傷つけるなら――触れない場所へ行くしかなかった。


ユキは、ゆっくりと息を吸った。

胸の奥が、ひどく痛む。

家を出よう。それは別れではなく、壊さないために選んだ距離だった。


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