近づけない雨の日
その日は、昼過ぎから重たい雲が空を覆っていた。
人通りの少ない通りに面した小さなカフェは、三人で会うには静かすぎる場所だった。
最初に口を開いたのはカナリアだった。
ユキの向かいに座り、柔らかく微笑む。
「寒くなかった? 足元、冷えてない?」
「大丈夫。ありがとう」
そう答えながら、ユキは無意識にロイドへ視線を向けていた。
ロイドはコーヒーに口をつけることもなく、ただ二人を見ている。
カナリアは椅子をわずかにロイドの方へ寄せた。
話題も、自然と彼へ向かう。
「最近、お忙しいんですよね。あまり休めていないって聞きました」
「……仕事だ」
短い返答。それでも、カナリアは言葉を続ける。
「無理は良くないですよ。倒れたら、周りが困りますから」
正論だった。けれどロイドの視線は、カナリアではなくユキに向いている。
そのことに、カナリアはすぐ気づいた。
胸の奥が締めつけられる感覚を覚えながらも、笑顔は崩さない。
「レイさんにマティーニに連れて行ってもらって、カナリアさんと知り合えて……ロイドさんとも、こうして時間を作ってもらえて嬉しいです」
ユキがそう言って微笑むと、ロイドの表情がわずかに緩んだ。
その変化を、カナリアは見逃さなかった。
テーブルの下で、指先に力がこもる。
「……天気も悪い。場所を移すか」
「それなら、ロイドさんの家はどうですか? みんな近いですし」
輝くような笑顔だった。
ロイドは一瞬だけ眉を寄せ、ユキを横目で見る。
期待するようなその視線に、ため息をひとつ落とした。
「……構わない」
店を出た三人は、ロイドの車へ向かった。
ユキとカナリアが並び、その後ろをロイドが歩く。
交差点に差し掛かった、その瞬間だった。
ユキが一歩前へ出た、その先へ――信号を無視したトラックが突っ込んできた。
「ユキ!」
ロイドの叫び。間に合わない。
だが次の瞬間、ユキの腕が強く引かれた。
歩道へ引き戻され、トラックがすれすれを通過する。
「大丈夫!?」
必死な声だった。取り繕いはない。
「……ありがとう。確認しないで歩いちゃって」
ユキは、カナリアに頭を下げた。
ロイドは一歩引いた位置から、その様子を見つめている。
「ユキ、大丈夫か」
「はい。カナリアさんのおかげで」
そう言って、ユキはロイドに笑顔を向けた。
ロイドのマンションに着き、地下駐車場からエレベーターへ向かう途中、車椅子の老人とベビーカーが乗り込んできた。
「階段で行きますか?」
カナリアの声で、三人はエレベーターを譲り、階段を上る。
ユキが足を滑らせたのは、その途中だった。
ロイドが即座に腕を伸ばし、抱き寄せる。
転倒は免れた。
その一瞬、ロイドの視界に――カナリアの手が、ユキを押したように映る。
だが、実際には支えようとしただけだった。
「すみません……今日は不注意ばかりで」
ユキはロイドの腕の中で、耳を赤くして俯く。
「気をつけてね」
カナリアの穏やかな声。ロイドは表情を変えなかった。
部屋に入ると、ロイドはカナリアだけを書斎へ連れて行った。
「ユキ、ここで待っていろ」
低い声だった。
ガラス越しに、向かい合う二人の影が見える。
ユキはソファの端に腰を下ろし、胸の奥がきゅっと縮む。
――どうして、二人きりで。
嫉妬だと気づいた瞬間、自己嫌悪が押し寄せた。
――書斎では。
「君がユキといる日に限って、ああいうことが起きる」
ロイドは言い切った。
「君は、ユキに近づきすぎる」
「私は……あなたのそばにいたいだけです」
「それが問題だ、君は自分の居場所を、他人の意思に預けている」
冷たい声だった。
「ユキに近づくな。守れないなら、ここで終わりだ」
言葉を失ったカナリアの瞳が揺れた。
初めて向けられる、明確な拒絶だった。
リビングに戻ると、空気は張り詰めたままだった。
沈黙に耐えきれず、ユキが口を開く。
「あの……映画とか観ませんか?」
「あ、実は急用が入って……」
カナリアは笑顔を作り、すぐに部屋を出た。
「待って……!」
ユキは後を追う。
外に出ると、雨が降り始めていた。
冷たい雨音が、沈黙を引き延ばす。
書斎で向けられた言葉が、カナリアの胸に沈んだままだった。
近づくな。守れないなら、ここで終わりだ。
その言葉が何度も頭の中で繰り返される。
「ロイドさんね……過去に助けてくれた少女がいるって話、知ってる?」
「……うん」
「それ、私なの」
震える声を必死に抑えながらそっと漏らす。
嘘だった。
だが、ユキの世界が、静かに揺れる。
「本当は……迷っちゃったんだ」
そう言って、カナリアは視線を落とす。
それ以上を口にすれば、もう戻れない気がした。
「でも……あなたを傷つけたくないから。距離を置くって言われたの」
涙だけは本物だった。
「だから、私も諦める。あなたと仲良くしたいから」
壊れそうな笑顔だった。
雨脚はさらに強まり、カナリアの背中が、
濡れたアスファルトに溶けていく。
――違う。
そう思ったのに、ユキは引き止めることができなかった。
胸に残ったのは、怒りでも拒絶でもなく、言いようのない罪悪感だった。
(私が、ここにいなければ)
ふと浮かんだ考えを、ユキはすぐに否定する。
逃げだ。
ロイドの声が、何度も思い出される。
叱るでもなく、縛るでもなく、ただ低く名前を呼ぶ声。
それだけで、ここにいていいと錯覚してしまう。
――それでも、私は、そばにいたい。
選ばれなくてもいい。
曖昧なままでもいい。
同じ空間にいられるなら、それでよかった。
けれど、踏み込めば壊れる。近づけば、誰かを傷つける。
――私が、出ていけばいい。
それでも、彼の隣にいる自分を想像すると、胸がほどけてしまう。
その温もりが、誰かを傷つけるなら――触れない場所へ行くしかなかった。
ユキは、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥が、ひどく痛む。
家を出よう。それは別れではなく、壊さないために選んだ距離だった。




