静かな視線
ロイドは助手席に一瞬だけ視線を走らせたあと、迷いなくカナリアを後部座席へ促した。
車を走らせる間、ロイドは一言も発しない。
ただ、バックミラー越しに、確かに彼女を捉えていた。
その視線に耐えきれず、カナリアが口を開く。
「あの……私の間違いだったら……でも、あなたに見覚えがあって……」
「……スーリンから頼まれた。それだけだ」
ロイドはそれ以上考えないように、短く言い切った。
「……そうですか……」
カナリアは目を伏せ、その沈黙を受け入れる。
しばらく走ると、住宅地に建つマンションの駐車場に到着した。
「降りろ」
ロイドはそれだけ告げて車を降り、エントランスの管理人室でカードキーを受け取る。
慌てて車を降りたカナリアが、その背中を追った。
オートロックを抜け、エレベーターで四階へ上がる。
密閉された空間に、言葉はない。
やがてエレベーターが止まり、二人は降りた。
ロイドは迷いなく歩き、角部屋の前で立ち止まる。
「ここが君の部屋だ。生活に必要なものは揃っている」
それだけ言うと、ロイドはカードキーを差し出した。
「本当にありがとうございます……ただ……少し不安で。それに……どうしても、あなたのことが頭から離れなくて……少し、お話ができたらと……」
カナリアはそっと手を伸ばす。
だが、ロイドは拒むように一歩身を引いた。
「……明日、ここに一人寄越す。詳しいことは、そこで聞け」
そう告げると、踵を返し、振り返ることなく立ち去る。
残されたカナリアは、わずかに奥歯を噛みしめたあと、静かに部屋の中へ入っていった。
その表情の奥に、別の感情を秘めながら。
翌日
レイがロイドを迎えに行くと、ロイドは昨夜の出来事を簡潔に伝えた。
資料から目を離さないまま、淡々と指示を出す。
「カナリアを調べろ。しばらくは様子も見てやれ」
レイは内心で息を吐く。正直、仕事は立て込んでいた。
「……マティーニからの送迎だけでいいか?」
それ以上は手が回らない、という含みを持たせた問いだった。
「任せる」
ロイドは視線を上げることなく短く答える。
それが、この話題の終わりを告げる合図だった。
レイは仕事に取り掛かると、ユキに声をかけた。
「ユキ。今日の夕方から、新規案件で取引先に顔を出す。ついてこい」
一旦ここで終わったと思われたが、ふと思い出したように続ける。
「その帰り、マティーニに寄るんだが……ついでに乗っていけ」
「マティーニですか?」
突然酒の名前を出され、ユキは困惑した表情を浮かべる。
その瞬間、レイは気づいた。――ロイドが、ユキに何も伝えていない。
レイは一度だけロイドに連絡を入れ、返事を待たずに端末を伏せた。
仕方ない、と腹を括り、取引先との打ち合わせを終えて帰路につく。
ユキに「乗っていけ」と言ってしまった手前、置いていくわけにもいかず、助手席に座らせた。
「あの……マティーニに、これから行くんですか?」
ユキは当然の疑問を口にした。
「その前に、君を家に送る」
レイなりに出せる、最善の答えだった。
「……もしよかったら、連れて行ってもらえませんか?」
ユキは、レイの普段とは違う言動から、ロイドが関わっていることを察していた。
「……やめとけ」
短く、拒む。
沈黙が落ちるが、数秒遅れてユキが小さく息を吸った。
「……私、知ってます。レイさんがノートに、その日あったことを書いてるの」
レイの指先が、わずかにハンドルを締めた。
「……あれ。誰かを嫌いになるために、書いてるわけじゃないですよね」
言い切らない。
責めもしない。
ただ、確かめるような声だった。
「……置いていかれたくないです」
それだけだった。
レイは、前方の信号を見つめたまま、答えない。
ハンドルを握る手に、力が入る。
――ここで降ろすのは、簡単だ。
だが、それを選べば、彼女は何も言わずに笑って、きっと一番傷つく選択を自分で引き受ける。
車は、スーリンのいるマティーニの駐車場に停まった。
そこには、すでにカナリアが立っていた。
白い髪、碧い瞳。
年齢も近そうで、ユキは勝手に親近感を覚える。
「あの……カナリアさん、ですか? ここで働かれてるんですか?」
声をかけると、カナリアは一瞬困惑と驚きの表情を浮かべ、すぐに頷いた。
「はい。助けていただいて……ロイドさんにもお世話になっていて」
ロイド、という名前に、ユキの胸がわずかにざわつく。
「大変だったんですね。もしよかったら、私にも何か手伝わせてください。あと……これ」
ユキは、カナリアの荒れた手に気づき、ハンドクリームを差し出した。
「買ったばかりで、まだ開けてないんです。よかったら使ってください」
カナリアは一瞬、表情を強張らせた。
見返りを求めない優しさに触れたように。
だがすぐに、柔らかな笑顔に戻る。
「ありがとう。大切にしますね」
そのやりとりを横目に、レイは肩の力を抜いた。
「帰るぞ」
二人に車に乗るよう合図し、再びハンドルを切る。
まずはカナリアのマンションへ向かう。
道中、ユキとカナリアは会話を交わしていた。
「ユキさんは、ロイドさんと一緒にお仕事されてるんですか?」
「えっと……色々あって、今はレイさんの秘書をしています」
「色々って……ロイドさんと付き合ってる、とか?」
「ち、違います!」
即座に否定するが、耳が少し赤い。
それで十分だった。
カナリアは、二人の関係をなんとなく察する。
「着いたぞ」
レイが会話を切るように告げる。
「レイさん、お忙しいところありがとうございました。ユキさんも……またお話ししたいです」
そう言って、電話番号を書いたメモをユキに渡した。
「絶対連絡します。私、カナリアさんとお友達になりたいです」
ユキは優しい笑顔で、カナリアを見送った。
レイとユキは、今度こそ自分たちのマンションへ向かう。
何事もなく終わったことに、レイは気を緩めた。
レイは部屋のドアを開けた瞬間、空気が違うことに気づいた。
静かなのに、何かが残っている。
玄関には、見慣れた靴。丁寧に揃えられているのを見て、苦笑する。
「……来たな」
独り言のように小さく呟く。
書斎の扉は、わずかに開いていた。
レイは書斎の扉に近づき、棚に視線を走らせる。
背表紙のない、薄いノート。位置が、ほんの数ミリだけ違う。
確信だった。
ノートを手に取ることはしない。
ページも確認しない。
レイは小さく息を吐き、ノートを元の位置に戻す。
位置を、ほんの少しだけ整えて。
***
夜。
レイのマンションは静まり返っていた。
ロイドは一度、踵を返しかけた。
主のいない部屋に長居する趣味はない。
――だが、書斎の棚に、視線が引っかかった。
整然と並ぶ書籍の中に、ひとつだけ異質なノートがある。
市販の装丁も飾り気のないもの。
だが、背表紙の擦れ方が妙に新しい。
ロイドはそれを抜き取った。
開くと、几帳面な文字が並んでいた。
○月○日取引先A社、資料の数値に誤り。
指摘はしたが、謝罪なし。
○月○日社内B、確認不足。
フォローが遅い。時間の浪費。
感情的な言葉はない。
だが、淡々とした文面の奥に、抑え込まれた苛立ちが滲んでいる。
ページをめくる。
そこには、ロイド自身の名も、ユキの名前も一切なかった。
ロイドは、ほんの一瞬だけ視線を留める。
違和感というほど強いものではない。
だが、偶然とも思えなかった。
「……なるほどな」
それ以上、読むことはしなかった。
ノートを元の位置に戻し、書斎を出る。
玄関で靴を履きながら、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
考え事をするような間。
だが、振り返ることはない。
ドアは、静かに閉まった。




