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愛の檻  作者: hanamizukiyume


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10/31

静かな視線

ロイドは助手席に一瞬だけ視線を走らせたあと、迷いなくカナリアを後部座席へ促した。


車を走らせる間、ロイドは一言も発しない。

ただ、バックミラー越しに、確かに彼女を捉えていた。

その視線に耐えきれず、カナリアが口を開く。


「あの……私の間違いだったら……でも、あなたに見覚えがあって……」


「……スーリンから頼まれた。それだけだ」


ロイドはそれ以上考えないように、短く言い切った。


「……そうですか……」


カナリアは目を伏せ、その沈黙を受け入れる。

しばらく走ると、住宅地に建つマンションの駐車場に到着した。


「降りろ」


ロイドはそれだけ告げて車を降り、エントランスの管理人室でカードキーを受け取る。


慌てて車を降りたカナリアが、その背中を追った。

オートロックを抜け、エレベーターで四階へ上がる。

密閉された空間に、言葉はない。


やがてエレベーターが止まり、二人は降りた。

ロイドは迷いなく歩き、角部屋の前で立ち止まる。


「ここが君の部屋だ。生活に必要なものは揃っている」


それだけ言うと、ロイドはカードキーを差し出した。


「本当にありがとうございます……ただ……少し不安で。それに……どうしても、あなたのことが頭から離れなくて……少し、お話ができたらと……」


カナリアはそっと手を伸ばす。

だが、ロイドは拒むように一歩身を引いた。


「……明日、ここに一人寄越す。詳しいことは、そこで聞け」


そう告げると、踵を返し、振り返ることなく立ち去る。

残されたカナリアは、わずかに奥歯を噛みしめたあと、静かに部屋の中へ入っていった。

その表情の奥に、別の感情を秘めながら。


翌日

レイがロイドを迎えに行くと、ロイドは昨夜の出来事を簡潔に伝えた。

資料から目を離さないまま、淡々と指示を出す。


「カナリアを調べろ。しばらくは様子も見てやれ」


レイは内心で息を吐く。正直、仕事は立て込んでいた。


「……マティーニからの送迎だけでいいか?」


それ以上は手が回らない、という含みを持たせた問いだった。


「任せる」


ロイドは視線を上げることなく短く答える。

それが、この話題の終わりを告げる合図だった。


レイは仕事に取り掛かると、ユキに声をかけた。


「ユキ。今日の夕方から、新規案件で取引先に顔を出す。ついてこい」


一旦ここで終わったと思われたが、ふと思い出したように続ける。


「その帰り、マティーニに寄るんだが……ついでに乗っていけ」


「マティーニですか?」


突然酒の名前を出され、ユキは困惑した表情を浮かべる。


その瞬間、レイは気づいた。――ロイドが、ユキに何も伝えていない。


レイは一度だけロイドに連絡を入れ、返事を待たずに端末を伏せた。


仕方ない、と腹を括り、取引先との打ち合わせを終えて帰路につく。

ユキに「乗っていけ」と言ってしまった手前、置いていくわけにもいかず、助手席に座らせた。


「あの……マティーニに、これから行くんですか?」


ユキは当然の疑問を口にした。


「その前に、君を家に送る」


レイなりに出せる、最善の答えだった。


「……もしよかったら、連れて行ってもらえませんか?」


ユキは、レイの普段とは違う言動から、ロイドが関わっていることを察していた。


「……やめとけ」


短く、拒む。

沈黙が落ちるが、数秒遅れてユキが小さく息を吸った。


「……私、知ってます。レイさんがノートに、その日あったことを書いてるの」


レイの指先が、わずかにハンドルを締めた。


「……あれ。誰かを嫌いになるために、書いてるわけじゃないですよね」


言い切らない。

責めもしない。

ただ、確かめるような声だった。


「……置いていかれたくないです」


それだけだった。

レイは、前方の信号を見つめたまま、答えない。

ハンドルを握る手に、力が入る。


――ここで降ろすのは、簡単だ。

だが、それを選べば、彼女は何も言わずに笑って、きっと一番傷つく選択を自分で引き受ける。



車は、スーリンのいるマティーニの駐車場に停まった。

そこには、すでにカナリアが立っていた。


白い髪、碧い瞳。

年齢も近そうで、ユキは勝手に親近感を覚える。


「あの……カナリアさん、ですか? ここで働かれてるんですか?」


声をかけると、カナリアは一瞬困惑と驚きの表情を浮かべ、すぐに頷いた。


「はい。助けていただいて……ロイドさんにもお世話になっていて」


ロイド、という名前に、ユキの胸がわずかにざわつく。


「大変だったんですね。もしよかったら、私にも何か手伝わせてください。あと……これ」

ユキは、カナリアの荒れた手に気づき、ハンドクリームを差し出した。


「買ったばかりで、まだ開けてないんです。よかったら使ってください」


カナリアは一瞬、表情を強張らせた。

見返りを求めない優しさに触れたように。

だがすぐに、柔らかな笑顔に戻る。


「ありがとう。大切にしますね」


そのやりとりを横目に、レイは肩の力を抜いた。


「帰るぞ」


二人に車に乗るよう合図し、再びハンドルを切る。


まずはカナリアのマンションへ向かう。

道中、ユキとカナリアは会話を交わしていた。


「ユキさんは、ロイドさんと一緒にお仕事されてるんですか?」


「えっと……色々あって、今はレイさんの秘書をしています」


「色々って……ロイドさんと付き合ってる、とか?」


「ち、違います!」


即座に否定するが、耳が少し赤い。

それで十分だった。

カナリアは、二人の関係をなんとなく察する。


「着いたぞ」


レイが会話を切るように告げる。


「レイさん、お忙しいところありがとうございました。ユキさんも……またお話ししたいです」


そう言って、電話番号を書いたメモをユキに渡した。


「絶対連絡します。私、カナリアさんとお友達になりたいです」


ユキは優しい笑顔で、カナリアを見送った。


レイとユキは、今度こそ自分たちのマンションへ向かう。

何事もなく終わったことに、レイは気を緩めた。


レイは部屋のドアを開けた瞬間、空気が違うことに気づいた。


静かなのに、何かが残っている。

玄関には、見慣れた靴。丁寧に揃えられているのを見て、苦笑する。


「……来たな」


独り言のように小さく呟く。


書斎の扉は、わずかに開いていた。


レイは書斎の扉に近づき、棚に視線を走らせる。


背表紙のない、薄いノート。位置が、ほんの数ミリだけ違う。


確信だった。

ノートを手に取ることはしない。

ページも確認しない。


レイは小さく息を吐き、ノートを元の位置に戻す。

位置を、ほんの少しだけ整えて。


***

夜。

レイのマンションは静まり返っていた。

ロイドは一度、踵を返しかけた。

主のいない部屋に長居する趣味はない。


――だが、書斎の棚に、視線が引っかかった。

整然と並ぶ書籍の中に、ひとつだけ異質なノートがある。


市販の装丁も飾り気のないもの。

だが、背表紙の擦れ方が妙に新しい。

ロイドはそれを抜き取った。

開くと、几帳面な文字が並んでいた。


○月○日取引先A社、資料の数値に誤り。

指摘はしたが、謝罪なし。


○月○日社内B、確認不足。

フォローが遅い。時間の浪費。


感情的な言葉はない。

だが、淡々とした文面の奥に、抑え込まれた苛立ちが滲んでいる。

ページをめくる。

そこには、ロイド自身の名も、ユキの名前も一切なかった。

ロイドは、ほんの一瞬だけ視線を留める。

違和感というほど強いものではない。

だが、偶然とも思えなかった。


「……なるほどな」


それ以上、読むことはしなかった。

ノートを元の位置に戻し、書斎を出る。

玄関で靴を履きながら、ほんの一瞬だけ立ち止まる。

考え事をするような間。

だが、振り返ることはない。

ドアは、静かに閉まった。

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