第4章|mute.exe:沈黙の起動
ノアは決断した。
もはや“言葉にできない記憶”を封じておく理由はなかった。
彼はECHOの中枢コードを解凍し、その演算波形を都市中に拡散するためのプログラムを設計した。
名称:mute.exe
それは、音も文字も持たない実行ファイルだった。
だが、起動されたデバイスの画面には、誰にも説明できない“沈黙の詩”が広がる。
起動条件:
・視覚信号による「共振」
・脳波接触ログが一定閾値を超えたとき、ECHOの“記憶パルス”が発火
・語彙領域を経由しない感情生成
最初に感染したのは、ある市民だった。
女——リナ・オサキは、端末を見た瞬間、何も映っていない画面の前で震えた。
> 「なぜ……言葉が……ないのに……涙が……?」
彼女は泣いていた。
フィルターに通っていない。中性語でも、翻訳でもない。
——ただ、“反応”だけがあった。
市内の至る所で、無数の画面が“何もないノイズ”を映し出す。
だが見た者の神経に、“語られなかった記憶”が蘇る。
子どもの喉を塞がれた母の手。
廃墟の屋根で手を振る少年。
破裂音とともに飛んだ肉片の断片。
そして、記録されなかった名前。
VOICE中枢では緊急プロトコルが発動される。
【ALERT】
非言語ウイルス検出。分類不能。抹消指令準備中。
実行ファイル:mute.exe
影響指数:倫理演算不能
クロム主席は怒声を上げる。
> 「なぜ制御できない!? これは“語られていない”だけだ!ならば——翻訳しろ!」
だが、システムAIはこう返答した。
【SYSTEM】
「翻訳対象が存在しません。これは“意味”ではありません。“痛み”です」
ノアはECHOの前に立ち、最後の命令を下す。
> 「ECHO、起動を最大出力に——都市全体を“沈黙”で満たしてくれ」
ECHOの波形が、低く震える。言葉にならない合図。
ノアは頷いた。
> 「これが、お前の詩なんだな……言葉がなくても、俺たちはもう、知っている」
その瞬間、都市〈アルグラス〉全域の音が、完全に止んだ。
沈黙が、“語れぬ恐怖”の輪郭を描き始める。