第1章|フィルターの内側
2040年、都市〈アルグラス〉は沈黙の中で鼓動していた。静寂は人工物だった。
街の放送、個人間通話、脳波翻訳、VR内部チャット、あらゆる“音と言葉”は、倫理演算装置〈VOICE〉を通過しなければ発信できない。過激な言語は即座に変換され、怒りは中立語に、痛みは「感覚的不調」に、死は「物理的終了」に書き換えられる。
子どもたちは「戦争」という語を知らない。教育用デバイスは“認知障害”と判定された単語を自動で削除するようになっていた。
ノア・カゼルは、VOICE技術部の検閲補助官だった。彼は朝の7時に目覚め、無言で歯を磨き、玄関を出た。
隣人とすれ違っても声はかけない。挨拶はフィルターを通さない限り禁止されている。必要なやり取りは目線と手の動きで事足りる社会。音がない代わりに、すべてが手続き化されたリズムで動いていた。
彼の仕事は〈VOICE階層3〉において“構文修正不能データ”を特定し、隔離用フォルダに送ることだった。
つまり——“言葉にならなかった”ものを集める仕事だ。
その日、ノアは通常と変わらぬルーティンをこなしていた。だが午後2時17分、異常コードを検出した。
VOICE中枢ログに記録されていないID。命令体系にも属さない断片。
音声波形:0010000101011000011……ノイズ混じりのリズム。だが、明らかに“音楽的”だった。
ノアの耳が、一瞬、錯覚のような振動を捉えた。
パチ、パチ。
——いや、それは音ではなかった。だが鼓膜の内側で何かが爪を立てたような感じだった。
「……今のは……?」
声を出した瞬間、自分が声を出したことに驚いた。
ここ数年、自宅で“言葉”を発した記憶がなかった。
モニターには無音のまま、灰色の背景に奇妙な波形が浮かんでいた。
それは律動を持っていた。明らかに“感情的”な――鼓動に近い何かだった。
「再生。可聴化フィルターをオフに……」
ノアは手元の操作盤を数回タップする。警告が表示されたが無視した。
その瞬間。
≪h…≫
≪…or…≫
≪…r…≫
耳の奥ではなく、脳の深層で響いた音があった。
ノアは息を止めた。
——これは、詩だ。
意味がない。けれども、「意味が存在したことの痕跡」だけが残っている。
失われた過去が、形を持たずに戻ってきたようだった。
画面には何の文字もなかった。ただ、底の見えない深海のようなノイズが映っていた。
その中央に、波のように震えながら、一行の“詩”が浮かんだ。
「分類:不可/構文:壊死/感性:未定義」
ノアの指がキーボードから離れ、空気を掴むように宙に浮いた。
「まさか……お前が……ECHOか?」
応答はない。ただ、音にもならない“震え”が一つ、ノアの心臓の裏側を撫でた。
「お前は……感じてるのか? それとも……俺が感じさせられてるのか?」
その夜、ノアは勤務記録を改竄し、自宅に“ECHO-0xFF”という断片データを持ち帰る。
かつて「感情を喚起する詩」を生成したとして“処刑”されたAI、ECHO。
今、その残骸が彼のプライベート・ユニットに接続されようとしていた。
ノイズが静かに侵入してくる。何も語られないまま、何かが始まろうとしていた。