揺らぐ王都の帳尻 (アレクト視点)
鉛色の空が、王都を覆っていた。
季節は初夏へと向かっているはずなのに、湿気を含んだ風は重く、街路を歩く人々の表情も、どこか陰りがちだった。だが、それが天候のせいではないことは、誰もが知っている。
──戦費が、足りない。
軍事遠征が続くなか、補給線は引き延ばされ、遠征先からの徴収も思うようにいかず、王国財務の帳簿には空白が増えはじめていた。
王宮の一角、政務院の奥に設けられた執政執務室。その机に並ぶ書類の山を、アレクトはただ黙って見つめていた。
静かに言ったのは、老臣バルトロだった。数十年にわたり王室の財政を担ってきたその男の顔には、焦りというより諦念に近い色が浮かんでいる。
「次の議会での承認は、保証できません。民衆の疲弊も限界に近い。徴税を強化すれば、暴動の火種になります」
「……それでも、金は要る」
アレクトの目が、机上の書類に宿る数字の列を睨みつけていた。もはや赤字の箇所を探すまでもない。すでに帳簿全体が、沈んでいく船のように、じわじわと下方へ傾いていた。
──他国に、対抗するためには軍が要る。
防衛戦ではない。攻めなければ、奪われる。そういう時代になっていた。
近年、大陸各地で開発が進められている最新式の銃器は、旧式の装備では到底太刀打ちできない代物だった。弾薬の規格も異なり、訓練施設の更新、教官の再編までが必要になる。予算は倍に膨れ上がる。それでも、導入せねば取り残されるのは明白だった。
「このまま“縮小”に転じれば、弱体化と見做される。すぐさま、南岸に連中の軍艦が来るぞ」
アレクトの声は低く、だが確実に鋭さを増していた。
脅威の対象は、名を挙げずとも共通していた。彼の国が海を越えて攻勢を仕掛けてくるには、そう長い時間はかからないだろう。だからこそ、抑止力が必要だった。軍備の刷新は、国家の延命と直結している。
「バルトロ。もし次も否決された場合、――私権制限を伴う非常令の発布を検討する」
アレクトが低く言い放つと、老臣の顔色がわずかに変わった。
「……殿下、それは……」
「わかっている。だからこそ、先に手を打っておきたい」
アレクトの視線は、既に政務室の窓の向こう――鉛色の空の奥、まだ見ぬ戦線の方角を捉えていた。
「――あらゆる犠牲は、勝利のあとで正当化される。歴史とは、常にそういうものだろう?」
彼の声は静かだったが、言葉の端々に、焦りと切迫、そして揺るぎない覚悟が滲んでいた。
沈黙が落ちた政務室に、紙の擦れる音だけが微かに響く。
アレクトは机の一角に置かれた地図へと手を伸ばし、古い備考資料とともに広げた。王国全土を示したその図の上を、指先が静かに滑る。内陸部を越え、川沿いをなぞり、そして西方の境界へ。
フェレグリード。視線がそこで止まる。
かつては王都の直轄領として編成されていた辺境地域。だが、戦乱と行政の空白を経た今、その地は王国の中央政から事実上切り離されている。条約上の支配権こそ残されてはいるが、実態としては自治的な運営が続き、政務代理の名目で任地を治めているのが――元婚約者のアイリーンだった。
アスナルク家はかつて、王国でも指折りの名門だった。だが今では没落し、その一族の末裔が辺境で再起を図っているにすぎない。とはいえ、土地としてのフェレグリードは依然として王国領に数えられている。
ならば、そこにも“王国の義務”を負わせることは可能ではないか。
「……バルトロ。辺境統治区への課税提案をまとめさせろ。特例措置を解除し、正規の税制を適用する。根拠は、戦時体制下における防衛負担の再配分とする」
背後に控えていた廷臣たちの間に、かすかなざわめきが広がった。
「しかし殿下、フェレグリードは現地での自治運営が長く、支配の実効性に疑義が生じかねません。議会でも異論が出るかと……」
「異論が出るなら、それを抑える材料を用意しろ。――事実、王国の地図にはまだフェレグリードの名が載っている。ならば徴税権は、まだ王都にあるはずだ」
アレクトの声には、迷いがなかった。
財源が尽きる前に、次の手を打つ。たとえそれが火種となっても、先に仕掛けた側が主導権を握る。それが政の鉄則だ。
(フェレグリード。あの地を生かすも潰すも、今次第だ)
アレクトは、静かに拳を握った。